博士問題とマードック先生と余・マードック先生の『日本歴史』・博士問題の成行 夏目漱石 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)或者《あるもの》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)大分|丹念《たんねん》に使用した [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#行末より2字上げ] ------------------------------------------------------- 博士問題とマードック先生と余        上  余《よ》が博士に推薦されたという報知が新聞紙上で世間に伝えられたとき、余を知る人のうちの或者《あるもの》は特に書を寄せて余の栄選を祝した。余が博士を辞退した手紙が同じく新聞紙上で発表されたときもまた余は故旧新知《こきゅうしんち》もしくは未知の或《ある》ものからわざわざ賛成同情の意義に富んだ書状を幾通《いくつう》も受取った。伊予《いよ》にいる一旧友は余が学位を授与されたという通信を読んで賀状を書こうと思っていた所に、辞退の報知を聞いて今度は辞退の方を目出《めで》たく思ったそうである。貰《もら》っても辞してもどっちにしても賀すべき事だというのがこの友の感想であるとかいって来た。そうかと思うと悪戯好《いたずらずき》の社友は、余が辞退したのを承知の上で、故《こと》さらに余を厭がらせるために、夏目文学博士殿と上書《うわがき》をした手紙を寄こした。この手紙の内容は御退院を祝すというだけなんだから一行《いちぎょう》で用が足りている。従って夏目文学博士殿と宛名を書く方が本文よりも少し手数《てすう》が掛った訳である。  しかし凡《すべ》てこれらの手紙は受取る前から予期していなかったと同時に、受取ってもそれほど意外とも感じなかったものばかりである。ただ旧師マードック先生から同じくこの事件について突然封書が届いた時だけは全く驚ろかされた。  マードック先生とは二十年前に分れたぎり顔を合せた事もなければ信書の往復をした事もない。全くの疎遠《そえん》で今日まで打ち過ぎたのである。けれどもその当時は毎週五、六時間必ず先生の教場へ出て英語や歴史の授業を受けたばかりでなく、時々は私宅まで押し懸けて行って話を聞いた位親しかったのである。  先生はもと母国の大学で希臘語《ギリシャご》の教授をしておられた。それがある事情のため断然英国を後にして単身日本へ来る気になられたので、余《よ》らの教授を受ける頃は、まだ日本化しない純然たる蘇国語《スコットランドご》を使って講義やら説明やら談話やらを見境《みさかい》なく遣《や》られた。それがため同級生は悉《ことごと》く辟易《へきえき》の体《てい》で、ただ烟《けむ》に捲《ま》かれるのを生徒の分《ぶん》と心得ていた。先生もそれで平気のように見えた。大方どうせこんな下らない事を教えているんだから、生徒なんかに分っても分らなくても構《かま》わないという気だったのだろう。けれども先生の性質が如何にも淡泊《たんぱく》で丁寧《ていねい》で、立派な英国風の紳士と極端なボヘミアニズムを合併《がっぺい》したような特殊の人格を具えているのに敬服して教授上の苦情をいうものは一人もなかった。  先生の白襯衣《ホワイトシャート》を着た所は滅多《めった》に見る事が出来なかった。大抵は鼠《ねずみ》色のフラネルに風呂敷《ふろしき》の切れ端《はし》のような襟飾《ネクタイ》を結んで済《す》ましておられた。しかもその風呂敷に似た襟飾《ネクタイ》が時々|胴着《チョッキ》の胸から抜け出して風にひらひらするのを見受けた事があった。高等学校の教授が黒いガウンを着出したのはその頃からの事であるが、先生も当時は例の鼠色のフラネルの上へ繻子《しゅす》か何かのガウンを法衣《ころも》のように羽織《はおっ》ていられた。ガウンの袖口には黄色い平打《ひらうち》の紐《ひも》が、ぐるりと縫い廻してあった。これは装飾のためとも見られるし、または袖口を括《くく》る用意とも受取れた。ただし先生には全く両様の意義を失った紐に過ぎなかった。先生が教場で興《きょう》に乗じて自分の面白いと思う問題を講じ出すと、殆んどガウンも鼠の襯衣《シャツ》も忘れてしまう。果《はて》はわがいる所が教場であるという事さえ忘れるらしかった。こんな時には大股《おおまた》で教壇を下りて余らの前へ髯《ひげ》だらけの顔を持ってくる。もし余らの前に欠席者でもあって、一脚の机が空《あ》いていれば、必ずその上へ腰を掛ける。そうして例のガウンの袖口に着いている黄色い紐を引張って、一尺程の長さを拵《こし》らえて置いて、それでぴしゃりぴしゃりと机の上を敲《たた》いたものである。  当時余はほんの小供《こども》であったから、先生の学殖《がくしょく》とか造詣《ぞうけい》とかを批判する力はまるでなかった。第一先生の使う言葉からが余自身の英語とは頗《すこぶ》る縁の遠いものであった。それでも余は他の同級生よりも比較的熱心な英語の研究者であったから、分らないながらも出来得る限りの耳と頭を整理して先生の前へ出た。時には先生の家《うち》までも出掛けた。先生の家は先生のフラネルの襯衣《シャツ》と先生の帽子――先生はくしゃくしゃになった中折帽《なかおれぼう》に自分勝手に変な鉢巻《はちまき》を巻き付けて被《かむ》っていた事があった。――凡《すべ》てこれら先生の服装に調和するほどに、先生の生活は単純なものであるらしかった。        中  その頃の余《よ》は西洋の礼式というものを殆んど心得《こころえ》なかったから、訪問時間などという観念を少しも挟《さしは》さむ気兼《きがね》なしに、時ならず先生を襲う不作法《ぶさほう》を敢てして憚《はば》からなかった。ある日朝早く行くと、先生は丁度|朝食《あさめし》を認《したた》めている最中であった。家が狭いためか、または余を別室に導く手数《てかず》を省いたためか、先生は余を自分の食卓の前に坐らして、君はもう飯を食ったかと聞かれた。先生はその時卵のフライを食っていた。なるほど西洋人というものはこんなものを朝食うのかと思って、余はひたすら食事の進行を眺めていた。実は今考えるとその時まで卵のフライというものを味わった事がないような気がする。卵のフライという言葉もそれからずっと後に覚えたように思われる。  先生はやがて肉刀《ナイフ》と肉匙《フォーク》を中途で置いた。そうして椅子を立ち上がって、書棚の中から黒い表紙の小形の本を出して、そのうちの或頁《あるページ》を朗々と読み始めた。しばらくすると、本を伏《ふ》せてどうだと聞かれた。正直の所余には一言《ひとこと》も解らなかったから、一体それは英語ですかと聞いた。すると先生は天来の滑稽を不用意に感得したように憚《はばか》りなく笑い出した。そうしてこれは希臘《ギリシャ》の詩だと答えられた。英国の表現《エキスプレッション》に、珍紛漢《ちんぷんかん》の事を、それは希臘語さというのがある。希臘語は彼地《かのち》でもそれ位|六《む》ずかしい物にしてあるのだろう。高等学校生徒の余などに解るはずは無論ない。それを何故《なぜ》先生が読んで聞かせたのかというと、詳しい理由は今思い出せないが、何でも希臘の文学を推称《すいしょう》した揚句《あげく》の事ではなかったかと思う。とにかく先生はそういう性質《たち》の人なのである。  先生の作った「日本におけるドン・ジュアンの孫」という長詩も慥《たし》か聞かされたように思う。けれどもそのうちの或行《あるぎょう》にアラス、アラック、という感投詞が二つ続いていたと記憶するだけで、あとはまるで忘れてしまった。  ベインの『論理学』を読めといって先生が貸してくれた事もあった。余はそれを通読するつもりで宅《うち》へ持って帰ったが、何分《なにぶん》課業その他が忙がしいので段々延び延びになって、何時《いつ》まで立っても目的を果し得なかった。ほど経て先生が、久しい前《ぜん》君に貸したベインの本は僕の先生の著作だから保存して置きたいから、もし読んでしまったなら返してくれといわれた。その本は大分|丹念《たんねん》に使用したものと見えて裏表《うらおもて》とも表紙が千切《ちぎ》れていた。それを借りたときにも返した時にも、先生は哲学の方の素養もあるのかと考えて、小供心《こどもごころ》に羨《うらや》ましかった。  あるときどんな英語の本を読んだら宜《よ》かろうという余の問に応じて、先生は早速《さっそく》手近にある紙片に、十種ほどの書目《しょもく》を認《したた》めて余に与えられた。余は時を移さずその内の或物を読んだ。即座に手に入らなかったものは、機会を求めて得る度《たび》にこれを読んだ。どうしても眼に触れなかったものは、倫敦《ロンドン》へ行ったとき買って読んだ。先生の書いてくれた紙片が、余の袂《たもと》に落ちてから、約十年の後に余は始めて先生の挙げた凡《すべ》てを読む事が出来たのである。先生はあの紙片にそれほどの重きを置いていなかったのだろう。凡てを読んでからまた十年も経った今日から見れば、それほど先生の紙片に重きを置いた余の方でも可笑《おか》しい気がする。  外国から帰った当時、先生の消息を人伝《ひとづて》に聞いて、先生は今鹿児島の高等学校に相変らず英語を教えているという事が分った。鹿児島から人が出てくる度に余はマードックさんはどうしたと尋ねない事はなかった。けれども音信はその後二人の間に全く絶えていたのである。ただ余が先生について得た最後の報知は、先生がとうとう学校をやめてしまって、市外の高台《たかだい》に居《きょ》を卜《ぼく》しつつ、果樹の栽培《さいばい》に余念《よねん》がないらしいという事であった。先生は「日本における英国の隠者《いんじゃ》」というような高尚《こうしょう》な生活を送っているらしく思われた。博士問題に関して突然余の手元に届いた一封の書翰は、実にこの隠者が二十余年来の無音《ぶいん》を破る価ありと信じて、とくに余のために認《したた》めてくれたものと見える。        下  手紙には日常の談話と異《こと》ならない程度の平易な英語で、真率《まじめ》に余の学位辞退を喜こぶ旨《むね》が書いてあった。その内に、今回の事は君がモラル・バックボーンを有している証拠になるから目出《めで》たいという句が見えた。モラル・バックボーンという何でもない英語を翻訳すると、徳義的脊髄という新奇でかつ趣《おもむき》のある字面《じづら》が出来る。余の行為がこの有用な新熟語に価するかどうかは、先生の見識に任せて置くつもりである。(余自身はそれほど新らしい脊髄がなくても、不便宜なしに誰にでも出来る所作《しょさ》だと思うけれども)  先生はまたグラッドストーンやカーライルやスペンサーの名を引用して、君の御仲間も大分あるといわれた。これには恐縮した。余が博士を辞する時に、これら前人《ぜんじん》の先例は、毫《ごう》も余が脳裏《のうり》に閃《ひら》めかなかったからである。――余が決断を促がす動機の一部分をも形づくらなかったからである。尤《もっと》も先生がこれら知名の人の名を挙げたのは、辞任の必ずしも非礼でないという実証を余に紹介されたまでで、これら知名の人を余に比較するためでなかったのは無論である。  先生いう、――われらが流俗以上に傑出しようと力《つと》めるのは、人として当然である。けれどもわれらは社会に対する栄誉の貢献によってのみ傑出すべきである。傑出を要求するの最上権利は、凡《すべ》ての時において、われらの人物|如何《いかん》とわれらの仕事如何によってのみ決せらるべきである。  先生のこの主義を実行している事は、先生の日常生活を別にしても、その著作『日本歴史』において明《あきら》かに窺《うかが》う事が出来る。自白すれば余はまだこの標準的《スタンダード》述作《ウォーク》を読んでいないのである。それにもかかわらず、先生が十年の歳月と、十年の精力と、同じく十年の忍耐を傾け尽して、悉《ことごと》くこれをこの一書の中に注ぎ込んだ過去の苦心談は、先生の愛弟子《まなでし》山県五十雄《やまがたいそお》君から精《くわ》しく聞いて知っている。先生は稿を起すに当って、殆んどあらゆる国語で出版された日本に関する凡《すべ》ての記事を読破《どくは》したという事である。山県君は第一その語学の力に驚ろいていた。和蘭語《オランダご》でも何でも自由に読むといって呆《あき》れたような顔をして余に語った。述作《じゅっさく》の際非常に頭を使う結果として、しまいには天を仰《あお》いで昏倒《こんとう》多時にわたる事があるので、奥さんが大変心配したという話も聞いた。そればかりではない、先生は単にこの著作を完成するために、日本語と漢字の研究まで積まれたのである。山県君は先生の技倆《ぎりょう》を疑って、六《む》ずかしい漢字を先生に書かして見たら、旨《うま》くはないが、劃《かく》だけは間違なく立派に書いたといって感心していた。これらの準備からなる先生の『日本歴史』は、悉《ことごと》く材料を第一の源《みなもと》から拾い集めて大成したもので、儲《もう》からない保証があると同時に、学者の良心に対して毫《ごう》も疚《や》ましからぬ徳義的な著作であるのはいうまでもない。  「余は人間に能《あと》う限りの公平と無私とを念じて、栄誉ある君の国の歴史を今になお述作しつつある。従って余の著書は一部|人士《じんし》の不満を招くかも知れない。けれどもそれはやむを得ない。ジョン・モーレーのいった通り何人《なんびと》にもあれ誠実を妨ぐるものは、人類進歩の活力を妨ぐると一般であって、その真正なる日本の進歩は余の心を深くかつ真面目《まじめ》に動かす題目に外ならぬからである。」  余は先生の人となりと先生の目的とを信じて、ここに先生の手紙の一節をありのままに訳出した。先生は新刊第三巻の冒頭《ぼうとう》にある緒論《しょろん》をとくに思慮《しりょ》ある日本人に見てもらいたいといわれる。先生から同書の寄贈を受ける日それを一読して満足な批評を書き得るならば、そうして先生の著書を天下に紹介する事が出来得るならば余の幸《さいわい》である。先生の意は、学位を辞退した人間としての夏目なにがしに自分の著述を読んでもらって、同じく博士を辞退した人間としての夏目なにがしに、その著述を天下に紹介してもらいたいという所にあるのだろうと思うからである。 ――明治四四、三、六―八『東京朝日新聞』――[#行末より2字上げ] ------------------------------------------------------- マードック先生の『日本歴史』        上  先生は約《やく》の如く横浜総領事を通じてケリー・エンド・ウォルシから自著の『日本歴史』を余に送るべく取り計《はから》われたと見えて、約七百頁の重い書物がその後|日《ひ》ならずして余の手に落ちた。ただしそれは第一巻であった。そうして巻末に明治四十三年五月発行と書いてあるので、余は始めてこの書に対する出版順序に関しての余の誤解を覚《さと》った。  先生はわが邦《くに》歴史のうちで、葡萄牙《ポルトガル》人が十六世紀に始めて日本を発見して以来織田、豊臣、徳川三氏を経て島原の内乱に至るまでの間、いわゆる西欧交通の初期とも称して然《しか》るべき時期を択《えら》んで、その部分だけを先年出版されたのである。だから順序からいうと、第二巻が最初に公《おおや》けにされた訳になる。そうして去年五月発行とある新刊の方は、かえって第一巻に相当する上代《じょうだい》以後の歴史であった。最後の巻、即ち十七世紀の中頃から維新の変に至るまでの沿革《えんかく》は、今なお述作中にかかる未成品《みせいひん》に過ぎなかった。その上去年の第一巻とこれから出る第三巻目は、先生一個の企てでなく、日本の亜細亜《アジア》協会が引き受けて刊行するのだという事が分った。従って先生の読んでくれといった新刊の緒論は、第三巻にあるのではなくて、やはり第一巻の第一篇の事だと知れた。それで先ず寄贈された大冊子《だいさっし》の冒頭にある緒言《しょげん》だけを取り敢《あえ》ず通覧した。  維新の革命と同時に生れた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。余自身の歴史が天然自然《てんねんしぜん》に何の苦もなく今日まで発展して来たと同様に、明治の歴史もまた尋常《じんじょう》正当に四十何年を重《かさ》ねて今日まで進んで来たとしか思われない。自分が世間から受ける待遇や、一般から蒙《こうむ》る評価には、案外な点もあるいはあるといわれるかも知れないが、自分が如何にしてこんな人間に出来上ったかという径路《けいろ》や因果や変化については、善悪にかかわらず不思議を挟《さしはさ》む余地がちっともない。ただかくの如く生れ、かくの如く成長し、かくの如き社会の感化を受けて、かくの如き人間に片付いたまでと自覚するだけで、その自覚以上に何らの驚ろくべき点がないから、従って何らの好奇心も起らない、従って何らの研究心も生じない。かかる理の当然一片の判断が自己を支配する如くに、同じく当り前さという観念が、やはり自己の生息する明治の歴史にも付け纏《まと》っている。海軍が進歩した、陸軍が強大になった、工業が発達した、学問が隆盛になったとは思うが、それを認めると等しく、しかあるべきはずだと考えるだけで、未《いま》だかつて「如何にして」とか「何故に」とか不審を打った試《ため》しがない。必竟《ひっきょう》われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡《すべ》てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑《うたがい》の起る余地が天《てん》で起らないのである。丁度|葉裏《はうら》に隠れる虫が、鳥の眼を晦《くら》ますために青くなると一般で、虫自身はたとい青くなろうとも赤くなろうとも、そんな事に頓着《とんじゃく》すべき所以《いわれ》がない。こう変色するのが当り前だと心得ているのは無論である。ただ不思議がるのは当の虫ではなくて、虫の研究者である、動物学者である。  マードック先生のわれら日本人に対する態度はあたかも動物学者が突然青く変化した虫に対すると同様の驚嘆《きょうたん》である。維新前は殆んど欧洲の十四世紀頃のカルチュアーにしか達しなかった国民が、急に過去五十年間において、二十世紀の西洋と比較すべき程度に発展したのを不思議がるのである。僅か五隻のペリー艦隊の前に為《な》す術《すべ》を知らなかったわれらが、日本海の海戦でトラファルガー以来の勝利を得たのに心を躍らすのである。        下  先生はこの驚嘆の念より出立《しゅったつ》して、好奇心に移り、それからまた研究心に落ち付いて、この大部《たいぶ》の著作を公けにするに至ったらしい。だから日本歴史全部のうちで尤《もっと》も先生の心を刺戟したものは、日本人がどうして西洋と接触し始めて、またその影響がどう働らいて、黒船着後に至って全局面の劇変を引き起したかという点にあったものと見える。それを一通り調べてもまだ足らぬ所があるので、やはり上代《じょうだい》から漕《こ》ぎ出して、順次に根気よく人文発展の流《ながれ》を下って来ないと、この突如たる勃興《ぼっこう》の真髄が納得《なっとく》出来ないという意味から、次に上代以後|足利《あしかが》氏に至るまでを第一巻として発表されたものと思われる。そうは断ってないけれども、緒論を読むとその辺の消息が多少|窺《うかが》われるような気もする。  従って緒論に現われた先生は、出来得る限りの範囲において、われらが最近五十年間の豹変《ひょうへん》に対する説明を、箇条《かじょう》がきの如くに与えておられる。その内にはちょっとわれらの思い設けぬ解釈さえある。西洋人が予期せざる日本の文明に驚ろくのは、彼らが開化という観念を誤まり伝えて、耶蘇《ヤソ》教的カルチュアーと同意義のものでなければ、開化なる語を冠《かん》すべきものでないと自信していたからであるというが如きはその一例である。西洋の開化と耶蘇教的カルチュアーと密切《みっせつ》の関係のある事は誰でも知っているが、耶蘇教的カルチュアーでなければ開化といえないとは、普通の日本人にどうしても考え得られない点である。けれどもそれが西洋人一般の判断だと、先生から注意されて見ると、なるほどと首肯《しゅこう》せざるを得ない。こういう意味において、先生の著述は日本を外国に紹介する上に非常な利益があるばかりでなく、研究心に富んだ外国人が、われら自身を如何に観察しているかを知る便宜もまた甚《はなは》だ少なくないのである。  西洋の雑誌を見ると、日本に関した著述の広告は、一週に一、二冊はきっと出ている。近頃ではこれらの書籍を蒐集《しゅうしゅう》しただけでも優《ゆう》に相応の図書館は一杯になるだろうと思われる位である。けれども真の観察と、真の努力と、真の同情と、真の研究から成《な》ったものは極めて乏しいと断言しても差支はあるまい。余《よ》はこの乏しいものの一として、先生の歴史をわれら日本人に紹介する機会を得たのを愉快に思う。  歴史は過去を振返った時始めて生れるものである。悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一所に※[#「※」は「彳+(低−イ)」、232-9]徊《ていかい》して、われらが歩んで来た道を顧みる暇《いとま》を有《も》たない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙《じゅうりん》せられつつある。われらは歴史を有せざる成《な》り上《あが》りものの如くに、ただ前へ前へと押されて行く。財力、脳力、体力、道徳力、の非常に懸《か》け隔《へだ》たった国民が、鼻と鼻とを突き合せた時、低い方は急に自己の過去を失ってしまう。過去などはどうでもよい、ただこの高いものと同程度にならなければ、わが現在の存在をも失うに至るべしとの恐ろしさが彼らを真向《まとも》に圧迫するからである。  われらはただ二つの眼《め》を有《も》っている。そうしてその二つの眼は二つながら、昼夜《ちゅうや》ともに前を望んでいる。そうして足の眼に及ばざるを恨みとして、焦慮《あせり》に焦慮《あせっ》て、汗を流したり呼息《いき》を切らしたりする。恐るべき神経衰弱はペストよりも劇《はげ》しき病毒を社会に植付けつつある。夜番《よばん》のために正宗《まさむね》の名刀と南蛮鉄《なんばんてつ》の具足《ぐそく》とを買うべく余儀なくせられたる家族は、沢庵《たくあん》の尻尾《しっぽ》を噛《かじ》って日夜|齷齪《あくせく》するにもかかわらず、夜番の方では頻《しき》りに刀と具足の不足を訴えている。われらは渾身《こんしん》の気力を挙げて、われらが過去を破壊しつつ、斃《たお》れるまで前進するのである。しかもわれらが斃れる時、われらの烟突《えんとつ》が西洋の烟突の如く盛んな烟《けむ》りを吐《は》き、われらの汽車が西洋の汽車の如く広い鉄軌《てっき》を走り、われらの資本が公債となって西洋に流用せられ、われらの研究と発明と精神事業が畏敬《いけい》を以て西洋に迎えらるるや否やは、どう己惚《うぬぼ》れても大いなる疑問である。マードック先生がわれらの現在に驚嘆してわれらの過去を研究されると同時に、われらはわれらの現在から刻々に追い捲《まく》られて、われらの未来をかくの如く悲観している。余はわれらの過去に対する先生の著書を紹介するのついでを以て、われらの運命に関しての未来観をも一言《いちごん》先生に告げて置きたいと思う。 ――明治四四、三、一六―一七『東京朝日新聞』――[#行末より2字上げ] ------------------------------------------------------- 博士問題の成行  二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日《きょう》に至るまで、当局者と余《よ》とは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図《はか》らずも上田万年《うえだかずとし》、芳賀矢一《はがやいち》二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原《ふくはら》専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾《いかん》とする旨を述べ合って別れた。  翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左《さ》の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。  「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀《ぎ》御辞退|相成《あいなり》たき趣《おもむきの》御申出|相成《あいなり》候処《そうろうところ》已《すで》に発令済《はつれいずみ》につき今更《いまさら》御辞退の途《みち》もこれなく候間《そうろうあいだ》御了知相成たく大臣の命により別紙|学位記《がくいき》御返付《おかえしつけ》かたがたこの段|申進《もうしすすめ》候《そうろう》敬具」  余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。  「拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故《ゆえ》、小生《しょうせい》の希望通り取計らいかぬる旨《むね》の御返事を領《りょう》し、再応《さいおう》の御答を致します。  「小生は学位授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。  「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫《ごう》も小生の意志を眼中《がんちゅう》に置く事なく、一図《いちず》に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲《ここ》に言明致します。  「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆《さから》って、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。  「最後に小生は目下|我邦《わがくに》における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒《かんが》みて、現今の博士制度の功《こう》少くして弊《へい》多き事を信ずる一人なる事を茲《ここ》に言明致します。  「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手|許《もと》まで御返付致します。敬具」  要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施《ほどこ》す解釈に依って極《き》まるのである。ただし余は文部省の如何《いかん》と、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通《どおり》に認むるの自由を有している。  余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従《くつじゅう》を強《し》いざる限りは、この問題はこれより以上に纏《まと》まるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。  博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれども一国の学者を挙げて悉《ことごと》く博士たらんがために学問をするというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与《ふよ》したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握《しょうあく》し尽すに至ると共に、選に洩《も》れたる他は全く一般から閑却《かんきゃく》されるの結果として、厭《いと》うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西《フランス》にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。  従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾《てっとうてつび》主義の問題である。この事件の成行《なりゆき》を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。 ――明治四四、四、一五『東京朝日新聞』――[#行末より2字上げ] 底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年10月16日第1刷発行    1998(平成10)年7月24日第26刷発行 入力:柴田卓治 校正:しず 1999年8月5日公開 1999年8月30日修正 青空文庫作成ファイル: 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