道草 夏目漱石 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)がさつ[#「がさつ」に傍点]な態度が ------------------------------------------------------- 一  健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さえ感じた。  彼の身体には新らしく後に見捨てた遠い国の臭がまだ付着していた。彼はそれを忌んだ。一日も早くその臭を振い落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足にはかえって気が付かなかった。  彼はこうした気分を有った人にありがちな落付のない態度で、千駄木から追分へ出る通りを日に二返ずつ規則のように往来した。  ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。  彼は知らん顔をしてその人の傍を通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃また眸をその人の方角に向けた。すると先方ではもう疾くに彼の姿を凝と見詰めていた。  往来は静であった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色なく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。  彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳になるかならない昔の事であった。それから今日までに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。  彼の位地も境遇もその時分から見るとまるで変っていた。黒い髭を生して山高帽を被った今の姿と坊主頭の昔の面影とを比べて見ると、自分でさえ隔世の感が起らないとも限らなかった。しかしそれにしては相手の方があまりに変らな過ぎた。彼はどう勘定しても六十五、六であるべきはずのその人の髪の毛が、何故今でも元の通り黒いのだろうと思って、心のうちで怪しんだ。帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える媒介となった。  彼は固よりその人に出会う事を好まなかった。万一出会ってもその人が自分より立派な服装でもしていてくれれば好いと思っていた。しかし今目前見たその人は、あまり裕福な境遇にいるとは誰が見ても決して思えなかった。帽子を被らないのは当人の自由としても、羽織なり着物なりについて判断したところ、どうしても中流以下の活計を営んでいる町家の年寄としか受取れなかった。彼はその人の差していた洋傘が、重そうな毛繻子であった事にまで気が付いていた。  その日彼は家へ帰っても途中で会った男の事を忘れ得なかった。折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた。しかし細君には何にも打ち明けなかった。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事の外決して口を利かない女であった。 二  次の日健三はまた同じ時刻に同じ所を通った。その次の日も通った。けれども帽子を被らない男はもうどこからも出て来なかった。彼は器械のようにまた義務のように何時もの道を往ったり来たりした。  こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。  その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人をも不安にしなければやまないほどな注意を双眼に集めて彼を凝視した。隙さえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇よりした眸のうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍を通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。  「とてもこれだけでは済むまい」  しかしその日家へ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。  彼と細君と結婚したのは今から七、八年前で、もうその時分にはこの男との関係がとくの昔に切れていたし、その上結婚地が故郷の東京でなかったので、細君の方ではじかにその人を知るはずがなかった。しかし噂としてだけならあるいは健三自身の口から既に話していたかも知れず、また彼の親類のものから聞いて知っていないとも限らなかった。それはいずれにしても健三にとって問題にはならなかった。  ただこの事件に関して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事実が一つあった。五、六年前彼がまだ地方にいる頃、ある日女文字で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。その時彼は変な顔をしてその手紙を読んだ。しかしいくら読んでも読んでも読み切れなかった。半紙廿枚ばかりへ隙間なく細字で書いたものの、五分の一ほど眼を通した後、彼はついにそれを細君の手に渡してしまった。  その時の彼には自分宛でこんな長い手紙をかいた女の素性を細君に説明する必要があった。それからその女に関聯して、是非ともこの帽子を被らない男を引合に出す必要もあった。健三はそうした必要にせまられた過去の自分を記憶している。しかし機嫌買な彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやったか、その点になると彼はもう忘れていた。細君は女の事だからまだ判然覚えているだろうが、今の彼にはそんな事を改めて彼女に問い訊して見る気も起らなかった。彼はこの長い手紙を書いた女と、この帽子を被らない男とを一所に並べて考えるのが大嫌だった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介となるからであった。  幸い彼の目下の状態はそんな事に屈托している余裕を彼に与えなかった。彼は家へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟の方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。  彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書の裡に胡坐をかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを片端から取り上げては二、三頁ずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこの体たらくを見るに見かねた或友人が来て、順序にも冊数にも頓着なく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。 三  健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。  娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡の稽古を勧められて、体よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。  自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。  彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。  「教育が違うんだから仕方がない」  彼の腹の中には常にこういう答弁があった。  「やっぱり手前味噌よ」  これは何時でも細君の解釈であった。  気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれる度に気不味い顔をした。ある時は自分を理解しない細君を心から忌々しく思った。ある時は叱り付けた。またある時は頭ごなしに遣り込めた。すると彼の癇癪が細君の耳に空威張をする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷」の四字に訂正するに過ぎなかった。  彼には一人の腹違の姉と一人の兄があるぎりであった。親類といったところでこの二軒より外に持たない彼は、不幸にしてその二軒ともとあまり親しく往来をしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持の好いものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子を被らない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り千駄木の町を毎日二返規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしその間に身体の楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢を畳の上に横たえて半日の安息を貪るに過ぎなかったろう。  しかし次の日曜が来たとき、彼はふと途中で二度会った男の事を思い出した。そうして急に思い立ったように姉の宅へ出掛けた。姉の宅は四ッ谷の津の守坂の横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所にあった。彼女の夫というのは健三の従兄にあたる男だから、つまり姉にも従兄であった。しかし年齢は同年か一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であった。この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が其所をやめた今日でも、まだ馴染の多い土地を離れるのが厭だといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。 四  この姉は喘息持であった。年が年中ぜえぜえいっていた。それでも生れ付が非常な癇性なので、よほど苦しくないと決して凝としていなかった。何か用を拵えて狭い家の中を始終ぐるぐる廻って歩かないと承知しなかった。その落付のないがさつ[#「がさつ」に傍点]な態度が健三の眼には如何にも気の毒に見えた。  姉はまた非常に饒舌る事の好な女であった。そうしてその喋舌り方に少しも品位というものがなかった。彼女と対坐する健三はきっと苦い顔をして黙らなければならなかった。  「これが己の姉なんだからなあ」  彼女と話をした後の健三の胸には何時でもこういう述懐が起った。  その日健三は例の如く襷を掛けて戸棚の中を掻きまわしているこの姉を見出した。  「まあ珍らしく能く来てくれたこと。さあ御敷きなさい」  姉は健三に座蒲団を勧めて縁側へ手を洗いに行った。  健三はその留守に座敷のなかを見廻わした。欄間には彼が子供の時から見覚えのある古ぼけた額が懸っていた。その落款に書いてある筒井憲という名は、たしか旗本の書家か何かで、大変字が上手なんだと、十五、六の昔此所の主人から教えられた事を思い出した。彼はその主人をその頃は兄さん兄さんと呼んで始終遊びに行ったものである。そうして年からいえば叔父甥ほどの相違があるのに、二人して能く座敷の中で相撲をとっては姉から怒られたり、屋根へ登って無花果を※[#「てへん」に劣、15-8]いで食って、その皮を隣の庭へ投げたため、尻を持ち込まれたりした。主人が箱入りのコンパス[#「コンパス」に傍点]を買って遣るといって彼を騙したなり何時まで経っても買ってくれなかったのを非常に恨めしく思った事もあった。姉と喧嘩をして、もう向うから謝罪って来ても勘忍してやらないと覚悟を極めたが、いくら待っていても、姉が詫まらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰なので、向うで御這入りというまで、黙って門口に立っていた滑稽もあった。……  古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意を有つ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。  「近頃は身体の具合はどうです。あんまり非道く起る事もありませんか」  彼は自分の前に坐った姉の顔を見ながらこう訊ねた。  「ええ有難う。御蔭さまで陽気が好いもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせい[#「がせい」に傍点]に働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの遊びに来てくれた時分にゃ、随分尻ッ端折りで、それこそ御釜の御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」  健三は些少ながら月々いくらかの小遣を姉に遣る事を忘れなかったのである。  「少し痩せたようですね」  「なにこりゃ私の持前だから仕方がない。昔から肥った事のない女なんだから。やッぱり癇が強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」  姉は肉のない細い腕を捲って健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈が、怠そうな皮で物憂げに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。  「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は六ずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父さんや御母さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」  姉の眼にはいつか涙が溜っていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖のようにいっていた。そうかと思うと、「こんな偏窟じゃこの子はとても物にゃならない」ともいった。健三は姉の昔の言葉やら語気やらを思い浮べて、心の中で苦笑した。 五  そんな古い記憶を喚び起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層健三の眼についた。  「時に姉さんはいくつでしたかね」  「もう御婆さんさ。取って一だもの御前さん」  姉は黄色い疎らな歯を出して笑って見せた。実際五十一とは健三にも意外であった。  「すると私とは一廻以上違うんだね。私ゃまた精々違って十か十一だと思っていた」  「どうして一廻どころか。健ちゃんとは十六違うんだよ、姉さんは。良人が羊の三碧で姉さんが四緑なんだから。健ちゃんは慥か七赤だったね」  「何だか知らないが、とにかく三十六ですよ」  「繰って見て御覧、きっと七赤だから」  健三はどうして自分の星を繰るのか、それさえ知らなかった。年齢の話はそれぎりやめてしまった。  「今日は御留守なんですか」と比田の事を訊いて見た。  「昨夕も宿直でね。なに自分の分だけなら月に三度か四度で済むんだけれども、他に頼まれるもんだからね。それに一晩でも余計泊りさえすればやっぱりいくらかになるだろう、それでつい他の分まで引受ける気にもなるのさ。この頃じゃあっちへ寐るのとこっちへ帰るのと、まあ半々位なものだろう。ことによると、向へ泊る方がかえって多いかも知れないよ」  健三は黙って障子の傍に据えてある比田の机を眺めた。硯箱や状袋や巻紙がきちりと行儀よく並んでいる傍に、簿記用の帳面が赤い脊皮をこちらへ向けて、二、三冊立て懸けてあった。それから綺麗に光った小さい算盤もその下に置いてあった。  噂によると比田はこの頃変な女に関係をつけて、それを自分の勤め先のつい近くに囲っているという評番であった。宿直だ宿直だといって宅へ帰らないのは、あるいはそのせいじゃなかろうかと健三には思えた。  「比田さんは近頃どうです。大分年を取ったから元とは違って真面目になったでしょう」  「なにやッぱり相変らずさ。ありゃ一人で遊ぶために生れて来た男なんだから仕方がないよ。やれ寄席だ、やれ芝居だ、やれ相撲だって、御金さえありゃ年が年中飛んで歩いてるんだからね。でも奇体なもんで、年のせいだか何だか知らないが、昔に比べると、少しは優しくなったようだよ。もとは健ちゃんも知ってる通りの始末で、随分烈しかったもんだがね。蹴ったり、敲いたり、髪の毛を持って座敷中引摺廻したり……」  「その代り姉さんも負けてる方じゃなかったんだからな」  「なに妾ゃ手出しなんかした事あ、ついの一度だってありゃしない」  健三は勝気な姉の昔を考え出してつい可笑しくなった。二人の立ち廻りは今姉の自白するように受身のものばかりでは決してなかった。ことに口は姉の方が比田に比べると十倍も達者だった。それにしてもこの利かぬ気の姉が、夫に騙されて、彼が宅へ帰らない以上、きっと会社へ泊っているに違いないと信じ切っているのが妙に不憫に思われて来た。  「久しぶりに何か奢りましょうか」と姉の顔を眺めながらいった。  「ありがと、今御鮨をそういったから、珍らしくもあるまいけれども、食べてって御くれ」  姉は客の顔さえ見れば、時間に関係なく、何か食わせなければ承知しない女であった。健三は仕方がないから尻を落付けてゆっくり腹の中に持って来た話を姉に切り出す気になった。 六  近頃の健三は頭を余計遣い過ぎるせいか、どうも胃の具合が好くなかった。時々思い出したように運動して見ると、胸も腹もかえって重くなるだけであった。彼は要心して三度の食事以外にはなるべく物を口へ入れないように心掛ていた。それでも姉の悪強には敵わなかった。  「海苔巻なら身体に障りゃしないよ。折角姉さんが健ちゃんに御馳走しようと思って取ったんだから、是非食べて御くれな。厭かい」  健三は仕方なしに旨くもない海苔巻を頬張って、好い加減烟草で荒らされた口のうちをもぐもぐさせた。  姉が余り饒舌るので、彼は何時までも自分のいいたい事がいえなかった。訊きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず痒くなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。  他に物を食わせる事の好きなのと同時に、物を遣る事の好きな彼女は、健三がこの前賞めた古ぼけた達磨の掛物を彼に遣ろうかといい出した。  「あんなものあ、宅にあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田だって要りゃしないやね、汚ない達磨なんか」  健三は貰うとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。  「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日まで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住さんがいちゃ、少し話し悪い事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」  姉の前置は長たらしくもあり、また滑稽でもあった。小さい時分いくら手習をさせても記憶が悪くって、どんなに平易しい字も、とうとう頭へ這入らずじまいに、五十の今日まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。  「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」  「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故早く話さなかったの」  「だって話せないんだもの」  「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟の間じゃないか、御前さん」  姉は自分の多弁が相手の口を塞いでいるのだという明白な事実には毫も気が付いていなかった。  「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」  「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己の知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤も月々の取高が少ない上に、交際もあるんだから、仕方がないといえばそれまでだけれどもね……」  姉のいう事は女だけに随分曲りくねっていた。なかなか容易な事で目的地へ達しそうになかったけれども、その主意は健三によく解った。つまり月々遣る小遣をもう少し増してくれというのだろうと思った。今でさえそれをよく夫から借りられてしまうという話を耳にしている彼には、この請求が憐れでもあり、また腹立たしくもあった。  「どうか姉さんを助けると思ってね。姉さんだってこの身体じゃどうせ長い事もあるまいから」  これが姉の口から出た最後の言葉であった。健三はそれでも厭だとはいいかねた。 七  彼はこれから宅へ帰って今夜中に片付けなければならない明日の仕事を有っていた。時間の価値というものを少しも認めないこの姉と対坐して、何時までも、ベんべんと喋舌っているのは、彼にとって多少の苦痛に違なかった。彼は好加減に帰ろうとした。そうして帰る間際になってやっと帽子を被らない男の事をいい出した。  「実はこの間島田に会ったんですがね」  「へえどこで」  姉は吃驚したような声を出した。姉は無教育な東京ものによく見るわざとらしい仰山な表情をしたがる女であった。  「太田の原の傍です」  「じゃ御前さんのじき近所じゃないか。どうしたい、何か言葉でも掛けたかい」  「掛けるって、別に言葉の掛けようもないんだから」  「そうさね。健ちゃんの方から何とかいわなきゃ、向で口なんぞ利けた義理でもないんだから」  姉の言葉は出来るだけ健三の意を迎えるような調子であった。彼女は健三に「どんな服装をしていたい」と訊き足した後で、「じゃやッぱり楽でもないんだね」といった。其所には多少の同情も籠っているように見えた。しかし男の昔を話し出した時にはさもさも悪らしそうな語気を用い始めた。  「なんぼ因業だって、あんな因業な人ったらありゃしないよ。今日が期限だから、是が非でも取って行くって、いくら言訳をいっても、坐り込んで動かないんだもの。しまいにこっちも腹が立ったから、御気の毒さま、御金はありませんが、品物で好ければ、御鍋でも御釜でも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」  「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」  「ところがあの業突張の事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに炊かせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って好い事あないはずだあね」  健三の耳にはこの話がただの滑稽としては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡まっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑しいというよりもむしろ悲しいものであった。  「私ゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」  「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」  「しかしわざわざ彼所いらを通って、私の宅でも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」  この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。それが健三には空御世辞のごとく響いた。  「こちらへはその後まるで来ないんですか」  「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」  「その前は?」  「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。鰻飯かなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまを一かたけでも好いから他の家で食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ服装なんかかなりなものを着ているんだがね。……」  姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。目下の島田については全く分らなかった。 八  「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」  こんな簡単な質問さえ姉には判然答えられなかった。健三は少し的が外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居所を突き留めようとまでは思っていなかったので、大した失望も感じなかった。彼はこの場合まだそれほどの手数を尽す必要がないと信じていた。たとい尽すにしたところで、一種の好奇心を満足するに過ぎないとも考えていた。その上今の彼はこういう好奇心を軽蔑しなければならなかった。彼の時間はそんな事に使用するには余りに高価すぎた。  彼はただ想像の眼で、子供の時分見たその人の家と、その家の周囲とを、心のうちに思い浮べた。  其所には往来の片側に幅の広い大きな堀が一丁も続いていた。水の変らないその堀の中は腐った泥で不快に濁っていた。所々に蒼い色が湧いて厭な臭さえ彼の鼻を襲った。彼はその汚ならしい一廓を――様の御屋敷という名で覚えていた。  堀の向う側には長屋がずっと並んでいた。その長屋には一軒に一つ位の割で四角な暗い窓が開けてあった。石垣とすれすれに建てられたこの長屋がどこまでも続いているので、御屋敷のなかはまるで見えなかった。  この御屋敷と反対の側には小さな平家が疎らに並んでいた。古いのも新らしいのもごちゃごちゃに交っていたその町並は無論不揃であった。老人の歯のように所々が空いていた。その空いている所を少しばかり買って島田は彼の住居を拵えたのである。  健三はそれが何時出来上ったか知らなかった。しかし彼が始めてそこへ行ったのは新築後まだ間もないうちであった。四間しかない狭い家だったけれども、木口などはかなり吟味してあるらしく子供の眼にも見えた。間取にも工夫があった。六畳の座敷は東向で、松葉を敷き詰めた狭い庭に、大き過ぎるほど立派な御影の石燈籠が据えてあった。  綺麗好きな島田は、自分で尻端折りをして、絶えず濡雑巾を縁側や柱へ掛けた。それから跣足になって、南向の居間の前栽へ出て、草毟りをした。あるときは鍬を使って、門口の泥溝も浚った。その泥溝には長さ四尺ばかりの木の橋が懸っていた。  島田はまたこの住居以外に粗末な貸家を一軒建てた。そうして双方の家の間を通り抜けて裏へ出られるように三尺ほどの路を付けた。裏は野とも畠とも片のつかない湿地であった。草を踏むとじくじく水が出た。一番凹んだ所などはしょっちゅう浅い池のようになっていた。島田は追々其所へも小さな貸家を建てるつもりでいるらしかった。しかしその企ては何時までも実現されなかった。冬になると鴨が下りるから、今度は一つ捕ってやろうなどといっていた。……  健三はこういう昔の記憶をそれからそれへと繰り返した。今其所へ行って見たら定めし驚ろくほど変っているだろうと思いながら、彼はなお二十年前の光景を今日の事のように考えた。  「ことによると、良人では年始状位まだ出してるかも知れないよ」  健三の帰る時、姉はこんな事をいって、暗に比田の戻るまで話して行けと勧めたが、彼にはそれほどの必要もなかった。  彼はその日無沙汰見舞かたがた市ヶ谷の薬王寺前にいる兄の宅へも寄って、島田の事を訊いて見ようかと考えていたが、時間の遅くなったのと、どうせ訊いたって仕方がないという気が次第に強くなったのとで、それなり駒込へ帰った。その晩はまた翌日の仕事に忙殺されなければならなかった。そうして島田の事はまるで忘れてしまった。 九  彼はまた平生の我に帰った。活力の大部分を挙げて自分の職業に使う事が出来た。彼の時間は静かに流れた。しかしその静かなうちには始終いらいらするものがあって、絶えず彼を苦しめた。遠くから彼を眺めていなければならなかった細君は、別に手の出しようもないので、澄ましていた。それが健三には妻にあるまじき冷淡としか思えなかった。細君はまた心の中で彼と同じ非難を夫の上に投げ掛けた。夫の書斎で暮らす時間が多くなればなるほど、夫婦間の交渉は、用事以外に少なくならなければならないはずだというのが細君の方の理窟であった。  彼女は自然の勢い健三を一人書斎に遺して置いて、子供だけを相手にした。その子供たちはまた滅多に書斎へ這入らなかった。たまに這入ると、きっと何か悪戯をして健三に叱られた。彼は子供を叱るくせに、自分の傍へ寄り付かない彼らに対して、やはり一種の物足りない心持を抱いていた。  一週間後の日曜が来た時、彼はまるで外出しなかった。気分を変えるため四時頃風呂へ行って帰ったら、急にうっとりした好い気持に襲われたので、彼は手足を畳の上へ伸ばしたまま、つい仮寐をした。そうして晩食の時刻になって、細君から起されるまでは、首を切られた人のように何事も知らなかった。しかし起きて膳に向った時、彼には微かな寒気が脊筋を上から下へ伝わって行くような感じがあった。その後で烈しい嚏が二つほど出た。傍にいる細君は黙っていた。健三も何もいわなかったが、腹の中ではこうした同情に乏しい細君に対する厭な心持を意識しつつ箸を取った。細君の方ではまた夫が何故自分に何もかも隔意なく話して、能働的に細君らしく振舞わせないのかと、その方をかえって不愉快に思った。  その晩彼は明らかに多少風邪気味であるという事に気が付いた。用心して早く寐ようと思ったが、ついしかけた仕事に妨げられて、十二時過まで起きていた。彼の床に入る時には家内のものはもう皆な寐ていた。熱い葛湯でも飲んで、発汗したい希望をもっていた健三は、やむをえずそのまま冷たい夜具の裏に潜り込んだ。彼は例にない寒さを感じて、寐付が大変悪かった。しかし頭脳の疲労はほどなく彼を深い眠の境に誘った。  翌日眼を覚した時は存外安静であった。彼は床の中で、風邪はもう癒ったものと考えた。しかしいよいよ起きて顔を洗う段になると、何時もの冷水摩擦が退儀な位身体が倦怠くなってきた。勇気を鼓して食卓に着いて見たが、朝食は少しも旨くなかった。いつもは規定として三膳食べるところを、その日は一膳で済ました後、梅干を熱い茶の中に入れてふうふう吹いて呑んだ。しかしその意味は彼自身にも解らなかった。この時も細君は健三の傍に坐って給仕をしていたが、別に何にもいわなかった。彼にはその態度がわざと冷淡に構えている技巧の如く見えて多少腹が立った。彼はことさらな咳を二度も三度もして見せた。それでも細君は依然として取り合わなかった。  健三はさっさと頭から白襯衣を被って洋服に着換えたなり例刻に宅を出た。細君は何時もの通り帽子を持って夫を玄関まで送って来たが、この時の彼には、それがただ形式だけを重んずる女としか受取れなかったので、彼はなお厭な心持がした。  外ではしきりに悪感がした。舌が重々しくぱさついて、熱のある人のように身体全体が倦怠かった。彼は自分の脈を取って見て、その早いのに驚ろいた。指頭に触れるピンピンいう音が、秒を刻む袂時計の音と錯綜して、彼の耳に異様な節奏を伝えた。それでも彼は我慢して、するだけの仕事を外でした。 十  彼は例刻に宅へ帰った。洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の不断着を持ったまま、彼の傍に立っていた。彼は不快な顔をしてそちらを向いた。  「床を取ってくれ。寐るんだ」  「はい」  細君は彼のいうがままに床を延べた。彼はすぐその中に入って寐た。彼は自分の風邪気の事を一口も細君にいわなかった。細君の方でも一向其所に注意していない様子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があった。  健三が眼を塞いでうつらうつらしていると、細君が枕元へ来て彼の名を呼んだ。  「あなた御飯を召上がりますか」  「飯なんか食いたくない」  細君はしばらく黙っていた。けれどもすぐ立って部屋の外へ出て行こうとはしなかった。  「あなた、どうかなすったんですか」  健三は何にも答えずに、顔を半分ほど夜具の襟に埋めていた。細君は無言のまま、そっとその手を彼の額の上に加えた。  晩になって医者が来た。ただの風邪だろうという診察を下して、水薬と頓服を呉れた。彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。  翌日は熱がなお高くなった。医者の注意によって護謨の氷嚢を彼の頭の上に載せた細君は、蒲団の下に差し込むニッケル製の器械を下女が買ってくるまで、自分の手で落ちないようにそれを抑えていた。  魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。健三の頭にはその間の記憶というものが殆んどない位であった。正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。それから枕元に坐っている細君を見た。そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。  「あなたどうなすったんです」  「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」  「そりゃ解ってます」  会話はそれで途切れてしまった。細君は厭な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。  「己がどうしたというんだい」  「どうしたって、――あなたが御病気だから、私だってこうして氷嚢を更えたり、薬を注いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」  細君は後をいわずに下を向いた。  「そんな事をいった覚はない」  「そりゃ熱の高い時仰しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」  こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。  「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」  健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。彼は論理の権威で自己を佯っている事にはまるで気が付かなかった。学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底から大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。 十一  その晩細君は土鍋へ入れた粥をもって、また健三の枕元に坐った。それを茶碗に盛りながら、「御起になりませんか」と訊いた。  彼の舌にはまだ苔が一杯生えていた。重苦しいような厚ぼったいような口の中へ物を入れる気には殆んどなれなかった。それでも彼は何故だか床の上に起き返って、細君の手から茶碗を受取ろうとした。しかし舌障りの悪い飯粒が、ざらざらと咽喉の方へ滑り込んで行くだけなので、彼はたった一膳で口を拭ったなり、すぐ故の通り横になった。  「まだ食気が出ませんね」  「少しも旨くない」  細君は帯の間から一枚の名刺を出した。  「こういう人が貴方の寐ていらしゃるうちに来たんですが、御病気だから断って帰しました」  健三は寐ながら手を出して、鳥の子紙に刷ったその名刺を受取って、姓名を読んで見たが、まだ会った事も聞いた事もない人であった。  「何時来たのかい」  「たしか一昨日でしたろう。ちょっと御話ししようと思ったんですが、まだ熱が下らないから、わざと黙っていました」  「まるで知らない人だがな」  「でも島田の事でちょっと御主人に御目にかかりたいって来たんだそうですよ」  細君はとくに島田という二字に力を入れてこういいながら健三の顔を見た。すると彼の頭にこの間途中で会った帽子を被らない男の影がすぐひらめいた。熱から覚めた彼には、それまでこの男の事を思い出す機会がまるでなかったのである。  「御前島田の事を知ってるのかい」  「あの長い手紙が御常さんって女から届いた時、貴方が御話しなすったじゃありませんか」  健三は何とも答えずに一旦下へ置いた名刺をまた取り上げて眺めた。島田の事をその時どれほど詳しく彼女に話したか、それが彼には不確であった。  「ありゃ何時だったかね。よッぽど古い事だろう」  健三はその長々しい手紙を細君に見せた時の心持を思い出して苦笑した。  「そうね。もう七年位になるでしょう。私たちがまだ千本通りにいた時分ですから」  千本通りというのは、彼らがその頃住んでいた或都会の外れにある町の名であった。  細君はしばらくして、「島田の事なら、あなたに伺わないでも、御兄さんからも聞いて知ってますわ」といった。  「兄がどんな事をいったかい」  「どんな事って、――なんでも余り善くない人だっていう話じゃありませんか」  細君はまだその男の事について、健三の心を知りたい様子であった。しかし彼にはまた反対にそれを避けたい意向があった。彼は黙って眼を閉じた。盆に載せた土鍋と茶碗を持って席を立つ前、細君はもう一度こういった。  「その名刺の名前の人はまた来るそうですよ。いずれ御病気が御癒りになったらまた伺いますからって、帰って行ったそうですから」  健三は仕方なしにまた眼を開いた。  「来るだろう。どうせ島田の代埋だと名乗る以上はまた来るに極ってるさ」  「しかしあなた御会いになって? もし来たら」  実をいうと彼は会いたくなかった。細君はなおの事夫をこの変な男に会わせたくなかった。  「御会いにならない方が好いでしょう」  「会っても好い。何も怖い事はないんだから」  細君には夫の言葉が、また例の我だと取れた。健三はそれを厭だけれども正しい方法だから仕方がないのだと考えた。 十二  健三の病気は日ならず全快した。活字に眼を曝したり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。  健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉という見覚のある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小さな声で「御会いになりますか」と訊ねた。  「会うから座敷へ通してくれ」  細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇していた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。  吉田というのは、でっぷり肥った、かっぷくの好い、四十恰好の男であった。縞の羽織を着て、その頃まで流行った白縮緬の兵児帯にぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して堅気の商人とは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。  健三には会見の順序として、まず吉田の身元から訊いてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。  彼はもと高崎にいた。そうして其所にある兵営に出入して、糧秣を納めるのが彼の商買であった。  「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも柴野の旦那には特別御贔負になったものですから」  健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。  「その縁故で島田を御承知なんですね」  二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの大酒で家計があまり裕でないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい報知に違なかったが、同時に大した興味を惹く話題にもならなかった。この夫婦に対して何らの悪感も抱いていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然厭な心持がした。  吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。  「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人に騙されてみんな損っちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり何かするもんですからな」  「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり慾張るからじゃありませんか」  たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。しかも困窮というからしてが既に怪しかった。肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。そのくせ月々若干か貢いで遣ってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。  正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものは零だという事を相手に納得させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。ただ先方はどこまでも下手に出る手段を主眼としているらしく見えた。不穏の言葉は無論、強請がましい様子は噫にも出さなかった。 十三  これで吉田の持って来た用件の片が付いたものと解釈した健三は、心のうちで暗に彼の帰るのを予期した。しかし彼の態度は明らかにこの予期の裏を行った。金の問題にはそれぎり触れなかったが、毒にも薬にもならない世間話を何時までも続けて動かなかった。そうして自然天然話頭をまた島田の身の上に戻して来た。  「どんなものでしょう。老人も取る年で近頃は大変心細そうな事ばかりいっていますが、――どうかして元通りの御交際は願えないものでしょうか」  健三はちょっと返答に窮した。仕方なしに黙って二人の間に置かれた烟草盆を眺めていた。彼の頭のなかには、重たそうに毛繻子の洋傘をさして、異様の瞳を彼の上に据えたその老人の面影がありありと浮かんだ。彼はその人の世話になった昔を忘れる訳に行かなかった。同時に人格の反射から来るその人に対しての嫌悪の情も禁ずる事が出来なかった。両方の間に板挟みとなった彼は、しばらく口を開き得なかった。  「手前も折角こうして上がったものですから、これだけはどうぞ曲げて御承知を願いたいもので」  吉田の様子はいよいよ丁寧になった。どう考えても交際のは厭でならなかった健三は、またどうしてもそれを断わるのを不義理と認めなければ済まなかった。彼は厭でも正しい方に従おうと思い極めた。  「そういう訳なら宜しゅう御座います。承知の旨を向へ伝えて下さい。しかし交際は致しても、昔のような関係ではとても出来ませんから、それも誤解のないように申し伝えて下さい。それから私の今の状況では、私の方から時々出掛けて行って老人に慰藉を与えるなんて事は六ずかしいのですが……」  「するとまあただ御出入をさせて頂くという訳になりますな」  健三には御出入という言葉を聞くのが辛かった。そうだともそうでないともいいかねて、また口を閉じた。  「いえなにそれで結構で、――昔と今とは事情もまるで違ますから」  吉田は自分の役目が漸く済んだという顔付をしてこういった後、今まで持ち扱っていた烟草入を腰へさしたなり、さっさと帰って行った。  健三は彼を玄関まで送り出すと、すぐ書斎へ入った。その日の仕事を早く片付けようという気があるので、いきなり机へ向ったが、心のどこかに引懸りが出来て、なかなか思う通りに捗取らなかった。  其所へ細君がちょっと顔を出した。「あなた」と二返ばかり声を掛けたが、健三は机の前に坐ったなり振り向かなかった。細君がそのまま黙って引込んだ後、健三は進まぬながら仕事を夕方まで続けた。  平生よりは遅くなって漸く夕食の食卓に着いた時、彼は始めて細君と言葉を換わした。  「先刻来た吉田って男は一体何なんですか」と細君が訊いた。  「元高崎で陸軍の用達か何かしていたんだそうだ」と健三が答えた。  問答は固よりそれだけで尽きるはずがなかった。彼女は吉田と柴野との関係やら、彼と島田との間柄やらについて、自分に納得の行くまで夫から説明を求めようとした。  「どうせ御金か何か呉れっていうんでしょう」  「まあそうだ」  「それで貴方どうなすって、――どうせ御断りになったでしょうね」  「うん、断った。断るより外に仕方がないからな」  二人は腹の中で、自分らの家の経済状態を別々に考えた。月々支出している、また支出しなければならない金額は、彼に取って随分苦しい労力の報酬であると同時に、それで凡てを賄って行く細君に取っても、少しも裕なものとはいわれなかった。 十四  健三はそれぎり座を立とうとした。しかし細君にはまだ訊きたい事が残っていた。  「それで素直に帰って行ったんですか、あの男は。少し変ね」  「だって断られれば仕方がないじゃないか。喧嘩をする訳にも行かないんだから」  「だけど、また来るんでしょう。ああして大人しく帰って置いて」  「来ても構わないさ」  「でも厭ですわ、蒼蠅くって」  健三は細君が次の間で先刻の会話を残らず聴いていたものと察した。  「御前聴いてたんだろう、悉皆」  細君は夫の言葉を肯定しない代りに否定もしなかった。  「じゃそれで好いじゃないか」  健三はこういったなりまた立って書斎へ行こうとした。彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。細君もそうした点において夫の権利を認める女であった。けれども表向夫の権利を認めるだけに、腹の中には何時も不平があった。事々について出て来る権柄ずくな夫の態度は、彼女に取って決して心持の好いものではなかった。何故もう少し打ち解けてくれないのかという気が、絶えず彼女の胸の奥に働らいた。そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆も自分に充分具えていないという事実には全く無頓着であった。  「あなた島田と交際っても好いと受合っていらしったようですね」  「ああ」  健三はそれがどうしたといった風の顔付をした。細君は何時でも此所まで来て黙ってしまうのを例にしていた。彼女の性質として、夫がこういう態度に出ると、急に厭気がさして、それから先一歩も前へ出る気になれないのである。その不愛想な様子がまた夫の気質に反射して、益彼を権柄ずくにしがちであった。  「御前や御前の家族に関係した事でないんだから、構わないじゃないか、己一人で極めたって」  「そりゃ私に対して何も構って頂かなくっても宜ござんす。構ってくれったって、どうせ構って下さる方じゃないんだから、……」  学問をした健三の耳には、細君のいう事がまるで脱線であった。そうしてその脱線はどうしても頭の悪い証拠としか思われなかった。「また始まった」という気が腹の中でした。しかし細君はすぐ当の問題に立ち戻って、彼の注意を惹かなければならないような事をいい出した。  「しかし御父さまに悪いでしょう。今になってあの人と御交際いになっちゃあ」  「御父さまって己のおやじかい」  「無論貴方の御父さまですわ」  「己のおやじはとうに死んだじゃないか」  「しかし御亡くなりになる前、島田とは絶交だから、向後一切付合をしちゃならないって仰しゃったそうじゃありませんか」  健三は自分の父と島田とが喧嘩をして義絶した当時の光景をよく覚えていた。しかし彼は自分の父に対してさほど情愛の籠った優しい記憶を有っていなかった。その上絶交云々についても、そう厳重にいい渡された覚はなかった。  「御前誰からそんな事を聞いたのかい。己は話したつもりはないがな」  「貴方じゃありません。御兄さんに伺ったんです」  細君の返事は健三に取って不思議でも何でもなかった。同時に父の意志も兄の言葉も、彼には大した影響を与えなかった。  「おやじは阿爺、兄は兄、己は己なんだから仕方がない。己から見ると、交際を拒絶するだけの根拠がないんだから」  こういい切った健三は、腹の中でその交際が厭で厭で堪らないのだという事実を意識した。けれどもその腹の中はまるで細君の胸に映らなかった。彼女はただ自分の夫がまた例の頑固を張り通して、徒らに皆なの意見に反対するのだとばかり考えた。 十五  健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。霜降の羅紗も硬くごわごわして、極めて手触が粗かった。ことに洋袴は薄茶色に竪溝の通った調馬師でなければ穿かないものであった。しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。  彼の帽子もその頃の彼には珍らしかった。浅い鍋底のような形をしたフェルトをすぽりと坊主頭へ頭巾のように被るのが、彼に大した満足を与えた。例の如くその人に手を引かれて、寄席へ手品を見に行った時、手品師が彼の帽子を借りて、大事な黒羅紗の山の裏から表へ指を突き通して見せたので、彼は驚ろきながら心配そうに、再びわが手に帰った帽子を、何遍か撫でまわして見た事もあった。  その人はまた彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵、錦絵、二枚つづき三枚つづきの絵も彼のいうがままに買ってくれた。彼は自分の身体にあう緋縅しの鎧と竜頭の兜さえ持っていた。彼は日に一度位ずつその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。  彼はまた子供の差す位な短かい脇差の所有者であった。その脇差の目貫は、鼠が赤い唐辛子を引いて行く彫刻で出来上っていた。彼は銀で作ったこの鼠と珊瑚で拵えたこの唐辛子とを、自分の宝物のように大事がった。彼は時々この脇差が抜いて見たくなった。また何度も抜こうとした。けれども脇差は何時も抜けなかった。――この封建時代の装飾品もやはりその人の好意で小さな健三の手に渡されたのである。  彼はまたその人に連れられて、よく船に乗った。船にはきっと腰蓑を着けた船頭がいて網を打った。いな[#「いな」に傍点]だの鰡だのが水際まで来て跳ね躍る様が小さな彼の眼に白金のような光を与えた。船頭は時々一里も二里も沖へ漕いで行って、海※[#「喞」の「くちへん」を「さかなへん」に、44-9]というものまで捕った。そういう場合には高い波が来て舟を揺り動かすので、彼の頭はすぐ重くなった。そうして舟の中へ寐てしまう事が多かった。彼の最も面白がったのは河豚の網にかかった時であった。彼は杉箸で河豚の腹をかんから[#「かんから」に傍点]太鼓のように叩いて、その膨れたり怒ったりする様子を見て楽しんだ。……  吉田と会見した後の健三の胸には、ふとこうした幼時の記憶が続々湧いて来る事があった。凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明に彼の心に映るものばかりであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕の事実を手繰り寄せれば寄せるほど、種が無尽蔵にあるように見えた時、またその無尽蔵にある種の各自のうちには必ず帽子を披らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。  「こんな光景をよく覚えているくせに、何故自分の有っていたその頃の心が思い出せないのだろう」  これが健三にとって大きな疑問になった。実際彼は幼少の時分これほど世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。  「しかしそんな事を忘れるはずがないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合が欠けていたのかも知れない」  健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。  彼はこの事件について思い出した幼少の時の記憶を細君に話さなかった。感情に脆い女の事だから、もしそうでもしたら、あるいは彼女の反感を和らげるに都合が好かろうとさえ思わなかった。 十六  待ち設けた日がやがて来た。吉田と島田とはある日の午後連れ立って健三の玄関に現れた。  健三はこの昔の人に対してどんな言葉を使って、どんな応対をして好いか解らなかった。思慮なしにそれらを極めてくれる自然の衝動が今の彼にはまるで欠けていた。彼は二十年余も会わない人と膝を突き合せながら、大した懐かしみも感じ得ずに、むしろ冷淡に近い受答えばかりしていた。  島田はかねて横風だという評判のある男であった。健三の兄や姉は単にそれだけでも彼を忌み嫌っている位であった。実は健三自身も心のうちでそれを恐れていた。今の健三は、単に言葉遣いの末でさえ、こんな男から自尊心を傷けられるには、あまりに高過ぎると、自分を評価していた。  しかし島田は思ったよりも鄭寧であった。普通初見の人が挨拶に用いる「ですか」とか、「ません」とかいうてには[#「てには」に傍点]で、言葉の語尾を切る注意をわざと怠らないように見えた。健三はむかしその人から健坊々々と呼ばれた幼い時分を思い出した。関係が絶えてからも、会いさえすれば、やはり同じ健坊々々で通すので、彼はそれを厭に感じた過去も、自然胸のうちに浮かんだ。  「しかしこの調子なら好いだろう」  健三はそれで、出来るだけ不快の顔を二人に見せまいと力めた。向うもなるべく穏かに帰るつもりと見えて、少しも健三の気を悪くするような事はいわなかった。それがために、当然双方の間に話題となるべき懐旧談なども殆ど出なかった。従って談話はややともすると途切れがちになった。  健三はふと雨の降った朝の出来事を考えた。  「この間二度ほど途中で御目にかかりましたが、時々あの辺を御通りになるんですか」  「実はあの高橋の総領の娘が片付いている所がついこの先にあるもんですから」  高橋というのは誰の事だか健三には一向解らなかった。  「はあ」  「そら知ってるでしょう。あの芝の」  島田の後妻の親類が芝にあって、其所の家は何でも神主か坊主だという事を健三は子供心に聞いて覚えているような気もした。しかしその親類の人には、要さんという彼とおない年位な男に二、三遍会ったぎりで、他のものに顔を合せた記憶はまるでなかった。  「芝というと、たしか御藤さんの妹さんに当る方の御嫁にいらしった所でしたね」  「いえ姉ですよ。妹ではないんです」  「はあ」  「要三だけは死にましたが、あとの姉妹はみんな好い所へ片付いてね、仕合せですよ。そら総領のは、多分知っておいでだろう、――へ行ったんです」  ――という名前はなるほど健三に耳新しいものではなかった。しかしそれはもうよほど前に死んだ人であった。  「あとが女と子供ばかりで困るもんだから、何かにつけて、叔父さん叔父さんて重宝がられましてね。それに近頃は宅に手入をするんで監督の必要が出来たものだから、殆ど毎日のように此所の前を通ります」  健三は昔この男につれられて、池の端の本屋で法帖を買ってもらった事をわれ知らず思い出した。たとい一銭でも二銭でも負けさせなければ物を買った例のないこの人は、その時も僅か五厘の釣銭を取るべく店先へ腰を卸して頑として動かなかった。董其昌の折手本を抱えて傍に佇立んでいる彼に取ってはその態度が如何にも見苦しくまた不愉快であった。  「こんな人に監督される大工や左官はさぞ腹の立つ事だろう」  健三はこう考えながら、島田の顔を見て苦笑を洩らした。しかし島田は一向それに気が付かないらしかった。 十七  「でも御蔭さまで、本を遺して行ってくれたもんですから、あの男が亡くなっても、あとはまあ困らないで、どうにかこうにか遣って行けるんです」  島田は――の作った書物を世の中の誰でもが知っていなければならないはずだといった風の口調でこういった。しかし健三は不幸にしてその著書の名前を知らなかった。字引か教科書だろうとは推察したが、別に訊いて見る気にもならなかった。  「本というものは実に有難いもので、一つ作って置くとそれが何時までも売れるんですからね」  健三は黙っていた。仕方なしに吉田が相手になって、何でも儲けるには本に限るような事をいった。  「御祝儀は済んだが、――が死んだ時後が女だけだもんだから、実は私が本屋に懸け合いましてね。それで年々いくらと極めて、向うから収めさせるようにしたんです」  「へえ、大したもんですな。なるほどどうも学問をなさる時は、それだけ資金が要るようで、ちょっと損な気もしますが、さて仕上げて見ると、つまりその方が利廻りの好い訳になるんだから、無学のものはとても敵いませんな」  「結局得ですよ」  彼らの応対は健三に何の興味も与えなかった。その上いくら相槌を打とうにも打たれないような変な見当へ向いて進んで行くばかりであった。手持無沙汰な彼は、やむをえず二人の顔を見比べながら、時々庭の方を眺めた。  その庭はまた見苦しく手入の届かないものであった。何時緑をとったか分らないような一本の松が、息苦しそうに蒼黒い葉を垣根の傍に茂らしている外に、木らしい木は殆どなかった。箒に馴染まない地面は小石交りに凸凹していた。  「こちらの先生も一つ御儲けになったら如何です」  吉田は突然健三の方を向いた。健三は苦笑しない訳に行かなかった。仕方なしに「ええ儲けたいものですね」といって跋を合せた。  「なに訳はないんです。洋行まですりゃ」  これは年寄の言葉であった。それがあたかも自分で学資でも出して、健三を洋行させたように聞こえたので、彼は厭な顔をした。しかし老人は一向そんな事に頓着する様子も見えなかった。迷惑そうな健三の体を見ても澄ましていた。しまいに吉田が例の烟草入を腰へ差して、「では今日はこれで御暇を致す事にしましょうか」と催促したので、彼は漸く帰る気になったらしかった。  二人を送り出してまたちょっと座敷へ戻った健三は、再び座蒲団の上に坐ったまま、腕組をして考えた。  「一体何のために来たのだろう。これじゃ他を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで向は面白いのだろうか」  彼の前には先刻島田の持って来た手土産がそのまま置いてあった。彼はぼんやりその粗末な菓子折を眺めた。  何にもいわずに茶碗だの烟草盆を片付け始めた細君は、しまいに黙って坐っている彼の前に立った。  「あなたまだ其処に坐っていらっしゃるんですか」  「いやもう立っても好い」  健三はすぐ立上ろうとした。  「あの人たちはまた来るんでしょうか」  「来るかも知れない」  彼はこう言い放ったまま、また書斎へ入った。一しきり箒で座敷を掃く音が聞えた。それが済むと、菓子折を奪り合う子供の声がした。凡てがやがて静になったと思う頃、黄昏の空からまた雨が落ちて来た。健三は買おう買おうと思いながら、ついまだ買わずにいるオヴァーシューの事を思い出した。 十八  雨の降る日が幾日も続いた。それがからりと晴れた時、染付けられたような空から深い輝きが大地の上に落ちた。毎日欝陶しい思いをして、縫針にばかり気をとられていた細君は、縁鼻へ出てこの蒼い空を見上げた。それから急に箪笥の抽斗を開けた。  彼女が服装を改ためて夫の顔を覗きに来た時、健三は頬杖を突いたまま盆槍汚ない庭を眺めていた。  「あなた何を考えていらっしゃるの」  健三はちょっと振り返って細君の余所行姿を見た。その刹那に爛熟した彼の眼はふとした新らし味を自分の妻の上に見出した。  「どこかへ行くのかい」  「ええ」  細君の答は彼に取って余りに簡潔過ぎた。彼はまたもとの佗びしい我に帰った。  「子供は」  「子供も連れて行きます。置いて行くと八釜しくって御蒼蠅いでしょうから」  その日曜の午後を健三は独り静かに暮らした。  細君の帰って来たのは、彼が夕飯を済ましてまた書斎へ引き取った後なので、もう灯が点いてから一、二時間経っていた。  「ただ今」  遅くなりましたとも何ともいわない彼女の無愛嬌が、彼には気に入らなかった。彼はちょっと振り向いただけで口を利かなかった。するとそれがまた細君の心に暗い影を投げる媒介となった。細君もそのまま立って茶の間の方へ行ってしまった。  話をする機会はそれぎり二人の間に絶えた。彼らは顔さえ見れば自然何かいいたくなるような仲の好い夫婦でもなかった。またそれだけの親しみを現わすには、御互が御互に取ってあまりに陳腐過ぎた。  二、三日経ってから細君は始めてその日外出した折の事を食事の時話題に上せた。  「此間宅へ行ったら、門司の叔父に会いましてね。随分驚ろいちまいました。まだ台湾にいるのかと思ったら、何時の間にか帰って来ているんですもの」  門司の叔父というのは油断のならない男として彼らの間に知られていた。健三がまだ地方にいる頃、彼は突然汽車で遣って来て、急に入用が出来たから、是非とも少し都合してくれまいかと頼むので、健三は地方の銀行に預けて置いた貯金を些少ながら用立てたら、立派に印紙を貼った証文を後から郵便で送って来た。その中に「但し利子の儀は」という文句まで書き添えてあったので、健三はむしろ堅過ぎる人だと思ったが、貸した金はそれぎり戻って来なかった。  「今何をしているのかね」  「何をしているんだか分りゃしません。何とかの会社を起すんで、是非健三さんにも賛成してもらいたいから、その内上るつもりだっていってました」  健三にはその後を訊く必要もなかった。彼が昔し金を借りられた時分にも、この叔父は何かの会社を建てているとかいうので彼はそれを本当にしていた。細君の父もそれを疑わなかった。叔父はその父を旨く説きつけて、門司まで引張って行った。そうしてこれが今建築中の会社だといって、縁もゆかりもない他人の建てている家を見せた。彼は実にこの手段で細君の父から何千かの資本を捲き上げたのである。  健三はこの人についてこれ以上何も知りたがらなかった。細君もいうのが厭らしかった。しかし何時もの通り会話は其所で切れてしまわなかった。  「あの日はあまり好い御天気だったから、久しぶりで御兄さんの所へも廻って来ました」  「そうか」  細君の里は小石川台町で、健三の兄の家は市ヶ谷薬王寺前だから、細君の訪問は大した迂回でもなかった。 十九  「御兄さんに島田の来た事を話したら驚ろいていらっしゃいましたよ。今更来られた義理じゃないんだって。健三もあんなものを相手にしなければ好いのにって」  細君の顔には多少諷諫の意が現われていた。  「それを聞きに、御前わざわざ薬王寺前へ廻ったのかい」  「またそんな皮肉を仰しゃる。あなたはどうしてそう他のする事を悪くばかり御取りになるんでしょう。妾あんまり御無沙汰をして済まないと思ったから、ただ帰りにちょっと伺っただけですわ」  彼が滅多に行った事のない兄の家へ、細君がたまに訪ねて行くのは、つまり夫の代りに交際の義理を立てているようなものなので、いかな健三もこれには苦情をいう余地がなかった。  「御兄さんは貴夫のために心配していらっしゃるんですよ。ああいう人と交際いだして、またどんな面倒が起らないとも限らないからって」  「面倒ってどんな面倒を指すのかな」  「そりゃ起って見なければ、御兄さんにだって分りっ子ないでしょうけれども、何しろ碌な事はないと思っていらっしゃるんでしょう」  碌な事があろうとは健三にも思えなかった。  「しかし義理が悪いからね」  「だって御金を遣って縁を切った以上、義理の悪い訳はないじゃありませんか」  手切の金は昔し養育料の名前の下に、健三の父の手から島田に渡されたのである。それはたしか健三が廿二の春であった。  「その上その御金をやる十四、五年も前から貴夫は、もう貴夫の宅へ引き取られていらしったんでしょう」  いくつの年からいくつの年まで、彼が全然島田の手で養育されたのか、健三にも判然分らなかった。  「三つから七つまでですって。御兄さんがそう御仰いましたよ」  「そうかしら」  健三は夢のように消えた自分の昔を回顧した。彼の頭の中には眼鏡で見るような細かい絵が沢山出た。けれどもその絵にはどれを見ても日付がついていなかった。  「証文にちゃんとそう書いてあるそうですから大丈夫間違はないでしょう」  彼は自分の離籍に関した書類というものを見た事がなかった。  「見ない訳はないわ。きっと忘れていらっしゃるんですよ」  「しかし八ッで宅へ帰ったにしたところで復籍するまでは多少往来もしていたんだから仕方がないさ。全く縁が切れたという訳でもないんだからね」  細君は口を噤んだ。それが何故だか健三には淋しかった。  「己も実は面白くないんだよ」  「じゃ御止しになれば好いのに。つまらないわ、貴夫、今になってあんな人と交際うのは。一体どういう気なんでしょう、先方は」  「それが己には些とも解らない。向でもさぞ詰らないだろうと思うんだがね」  「御兄さんは何でもまた金にしようと思って遣って来たに違いないから、用心しなくっちゃいけないっていっていらっしゃいましたよ」  「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」  「だってこれから先何をいい出さないとも限らないわ」  細君の胸には最初からこうした予感が働らいていた。其所を既に防ぎ止めたとばかり信じていた理に強い健三の頭に、微かな不安がまた新らしく萌した。 二十  その不安は多少彼の仕事の上に即いて廻った。けれども彼の仕事はまたその不安の影をどこかへ埋めてしまうほど忙がしかった。そうして島田が再び健三の玄関へ現れる前に、月は早くも末になった。  細君は鉛筆で汚ならしく書き込んだ会計簿を持って彼の前に出た。  自分の外で働いて取る金額の全部を挙げて細君の手に委ねるのを例にしていた健三には、それが意外であった。彼はいまだかつて月末に細君の手から支出の明細書を突き付けられた例がなかった。  「まあどうにかしているんだろう」  彼は常にこう考えた。それで自分に金の要る時は遠慮なく細君に請求した。月々買う書物の代価だけでも随分の多額に上る事があった。それでも細君は澄ましていた。経済に暗い彼は時として細君の放漫をさえ疑った。  「月々の勘定はちゃんとして己に見せなければいけないぜ」  細君は厭な顔をした。彼女自身からいえば自分ほど忠実な経済家はどこにもいない気なのである。  「ええ」  彼女の返事はこれぎりであった。そうして月末が来ても会計簿はついに健三の手に渡らなかった。健三も機嫌の好い時はそれを黙認した。けれども悪い時は意地になってわざと見せろと逼る事があった。そのくせ見せられるとごちゃごちゃしてなかなか解らなかった。たとい帳面づらは細君の説明を聴いて解るにしても、実際月に肴をどれだけ食たものか、または米がどれほど要ったものか、またそれが高過ぎるのか、安過ぎるのか、更に見当が付かなかった。  この場合にも彼は細君の手から帳簿を受取って、ざっと眼を通しただけであった。  「何か変った事でもあるのかい」  「どうかして頂かないと……」  細君は目下の暮し向について詳しい説明を夫にして聞かせた。  「不思議だね。それで能く今日まで遣って来られたものだね」  「実は毎月余らないんです」  余ろうとは健三にも思えなかった。先月末に旧い友達が四、五人でどこかへ遠足に行くとかいうので、彼にも勧誘の端書をよこした時、彼は二円の会費がないだけの理由で、同行を断った覚もあった。  「しかしかつかつ[#「かつかつ」に傍点]位には行きそうなものだがな」  「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」  細君はいい悪そうに、箪笥の抽匣にしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末を話した。  彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。他に知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に淋しい印象を刻み付けた。こうした聯想が今の彼を特更に佗びしく思わせた。  「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」  彼自身いまだ質屋の暖簾を潜った事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入するはずがないと考えた。  「いいえ頼んだんです」  「誰に」  「山野のうちの御婆さんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」  健三はその先を訊かなかった。夫が碌な着物一枚さえ拵えてやらないのに、細君が自分の宅から持ってきたものを質に入れて、家計の足にしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。 二十一  健三はもう少し働らこうと決心した。その決心から来る努力が、月々幾枚かの紙幣に変形して、細君の手に渡るようになったのは、それから間もない事であった。  彼は自分の新たに受取ったものを洋服の内隠袋から出して封筒のまま畳の上へ放り出した。黙ってそれを取り上げた細君は裏を見て、すぐその紙幣の出所を知った。家計の不足はかくの如くにして無言のうちに補なわれたのである。  その時細君は別に嬉しい顔もしなかった。しかしもし夫が優しい言葉に添えて、それを渡してくれたなら、きっと嬉しい顔をする事が出来たろうにと思った。健三はまたもし細君が嬉しそうにそれを受取ってくれたら優しい言葉も掛けられたろうにと考えた。それで物質的の要求に応ずべく工面されたこの金は、二人の間に存在する精神上の要求を充たす方便としてはむしろ失敗に帰してしまった。  細君はその折の物足らなさを回復するために、二、三日経ってから、健三に一反の反物を見せた。  「あなたの着物を拵えようと思うんですが、これはどうでしょう」  細君の顔は晴々しく輝やいていた。しかし健三の眼にはそれが下手な技巧を交えているように映った。彼はその不純を疑がった。そうしてわざと彼女の愛嬌に誘われまいとした。細君は寒そうに座を立った。細君の座を立った後で、彼は何故自分の細君を寒がらせなければならない心理状態に自分が制せられたのかと考えて益不愉快になった。  細君と口を利く次の機会が来た時、彼はこういった。  「己は決して御前の考えているような冷刻な人間じゃない。ただ自分の有っている温かい情愛を堰き止めて、外へ出られないように仕向けるから、仕方なしにそうするのだ」  「誰もそんな意地の悪い事をする人はいないじゃありませんか」  「御前はしょっちゅうしているじゃないか」  細君は恨めしそうに健三を見た。健三の論理はまるで細君に通じなかった。  「貴夫の神経は近頃よっぽど変ね。どうしてもっと穏当に私を観察して下さらないのでしょう」  健三の心には細君の言葉に耳を傾ける余裕がなかった。彼は自分に不自然な冷かさに対して腹立たしいほどの苦痛を感じていた。  「あなたは誰も何にもしないのに、自分一人で苦しんでいらっしゃるんだから仕方がない」  二人は互に徹底するまで話し合う事のついに出来ない男女のような気がした。従って二人とも現在の自分を改める必要を感じ得なかった。  健三の新たに求めた余分の仕事は、彼の学問なり教育なりに取って、さして困難のものではなかった。ただ彼はそれに費やす時間と努力とを厭った。無意味に暇を潰すという事が目下の彼には何よりも恐ろしく見えた。彼は生きているうちに、何かし終せる、またし終せなければならないと考える男であった。  彼がその余分の仕事を片付けて家に帰るときは何時でも夕暮になった。  或日彼は疲れた足を急がせて、自分の家の玄関の格子を手荒く開けた。すると奥から出て来た細君が彼の顔を見るなり、「あなたあの人がまた来ましたよ」といった。細君は島田の事を始終あの人あの人と呼んでいたので、健三も彼女の様子と言葉から、留守のうちに誰が来たのかほぼ見当が付いた。彼は無言のまま茶の間へ上って、細君に扶けられながら洋服を和服に改めた。 二十二  彼が火鉢の傍に坐って、烟草を一本吹かしていると、間もなく夕飯の膳が彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。  「上ったのかい」  細君には何が上ったのか解らない位この質問は突然であった。ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味を悟った。  「あの人ですか。――でも御留守でしたから」  細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気に障る事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。  「上げなかったのかい」  「ええ。ただ玄関でちょっと」  「何とかいっていたかい」  「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから御不沙汰をして済みませんって」  済みませんという言葉が一種の嘲弄のように健三の耳に響いた。  「旅行なんぞするのかな、田舎に用のある身体とも思えないが。御前にその行った先を話したかい」  「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの御縫さんて人の宅なんでしょう」  御縫さんの嫁いた柴野という男には健三もその昔会った覚があった。柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。それは師団か旅団のある中国辺の或都会であった。  「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」  健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく間を置いたあとでこんな問を掛けた。  「能く知ってるね」  「何時か御兄さんから伺いましたよ」  健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立からいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんはまたすらりとした恰好の好い女で、顔は面長の色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛の多い切長のその眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を潜った記憶を有っていた。その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢の猫板の上にある洋盃から冷酒をぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢を撫でつけていた。彼はまた自分の分として取り配けられた握り鮨をしきりに皿の中から撮んで食べた。……  「御縫さんて人はよっぽど容色が好いんですか」  「何故」  「だって貴夫の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」  なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の家へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚って待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯からいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪も有たなかった。それから羞恥に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球のように、かえって女から弾き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他に面倒のあるなしを差措いて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。 二十三  「貴夫どうしてその御縫さんて人を御貰いにならなかったの」  健三は膳の上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕ろかされた人のように。  「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己はまだ子供だったしね」  「あの人の本当の子じゃないんでしょう」  「無論さ。御縫さんは御藤さんの連れっ子だもの」  御藤さんというのは島田の後妻の名であった。  「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」  「どうなってるか判らないじゃないか、なって見なければ」  「でも殊によると、幸福かも知れませんわね。その方が」  「そうかも知れない」  健三は少し忌々しくなった。細君はそれぎり口を噤んだ。  「何故そんな事を訊くのだい。詰らない」  細君は窘なめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。  「どうせ私は始めっから御気に入らないんだから……」  健三は箸を放り出して、手を頭の中に突込んだ。そうして其所に溜っている雲脂をごしごし落し始めた。  二人はそれなり別々の室で別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと挨拶に来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。細君はその子供を寐かした後で、昼の残りの縫物を始めた。  御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いた後の事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。  その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ這入って来た。それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼の傍に腰を卸した。健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。  「あなたその端書は比田さんから来たんですよ」  健三は漸やく書物から眼を放した。  「あの人の事で何か用事が出来たんですって」  なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。わざわざ彼を呼び寄せる失礼も鄭寧に詫びてあった。  「どうしたんでしょう」  「まるで判明らないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」  「みんなで交際っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄さんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所に」  端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。  兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を有っていたらしかったのである。  「健ちゃんの宅とこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの家へ行かれるんだけれども」  御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。  「だって御縫さんが今嫁いてる先は元からの許嫁なんでしょう」  「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」  「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」  「そんな事が判明るもんか」  「じゃ御兄さんの方はどうなの」  「それも判明らんさ」  健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。 二十四  健三はやがて返事の端書を書いて承知の旨を答えた。そうして指定の日が来た時、約束通りまた津の守坂へ出掛けた。  彼は時間に対して頗ぶる正確な男であった。一面において愚直に近い彼の性格は、一面においてかえって彼を神経的にした。彼は途中で二度ほど時計を出して見た。実際今の彼は起きると寐るまで、始終時間に追い懸けられているようなものであった。  彼は途々自分の仕事について考えた。その仕事は決して自分の思い通りに進行していなかった。一歩目的へ近付くと、目的はまた一歩彼から遠ざかって行った。  彼はまた彼の細君の事を考えた。その当時強烈であった彼女の歇私的里は、自然と軽くなった今でも、彼の胸になお暗い不安の影を投げてやまなかった。彼はまたその細君の里の事を考えた。経済上の圧迫が家庭を襲おうとしているらしい気配が、船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。  彼はまた自分の姉と兄と、それから島田の事も一所に纏めて考えなければならなかった。凡てが頽廃の影であり凋落の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。  姉の家へ来た時、彼の心は沈んでいた。それと反対に彼の気は興奮していた。  「いやどうもわざわざ御呼び立て申して」と比田が挨拶した。これは昔の健三に対する彼の態度ではなかった。しかし変って行く世相のうちに、彼がひとり姉の夫たるこの人にだけ優者になり得たという誇りは、健三にとって満足であるよりも、むしろ苦痛であった。  「ちょっと上がろうにも、どうにもこうにも忙がしくって遣り切れないもんですから。現に昨夜なども宿直でしてね。今夜も実は頼まれたんですけれども、貴方と御約束があるから、断わってやっとの事で今帰って来たところで」  比田のいうところを黙って聴いていると、彼が変な女をその勤先の近所に囲っているという噂はまるで嘘のようであった。  古風な言葉で形容すれば、ただ算筆に達者だという事の外に、大した学問も才幹もない彼が、今時の会社で、そう重宝がられるはずがないのに。――健三の心にはこんな疑問さえ湧いた。  「姉さんは」  「それに御夏がまた例の喘息でね」  姉は比田のいう通り針箱の上に載せた括り枕に倚りかかって、ぜいぜいいっていた。茶の間を覗きに立った健三の眼に、その乱れた髪の毛がむごたらしく映った。  「どうです」  彼女は頭を真直に上る事さえ叶わないで、小さな顔を横にしたまま健三を見た。挨拶をしようと思う努力が、すぐ咽喉に障ったと見えて、今まで多少落ち付いていた咳嗽の発作が一度に来た。その咳嗽は一つがまだ済まないうちに、後から後から仕切りなしに出て来るので、傍で見ていても気が退けた。  「苦しそうだな」  彼は独り言のようにこう囁やいて、眉を顰めた。  見馴れない四十恰好の女が、姉の後から脊中を撫っている傍に、一本の杉箸を添えた水飴の入物が盆の上に載せてあった。女は健三に会釈した。  「どうも一昨日からね、あなた」  姉はこうして三日も四日も不眠絶食の姿で衰ろえて行ったあと、また活作用の弾力で、じりじり元へ戻るのを、年来の習慣としていた。それを知らない健三ではなかったが、目前この猛烈な咳嗽と消え入るような呼息遣とを見ていると、病気に罹った当人よりも自分の方がかえって不安で堪らなくなった。  「口を利こうとすると咳嗽を誘い出すのでしょう。静かにしていらっしゃい。私はあっちへ行くから」  発作の一仕切収まった時、健三はこういって、またもとの座敷へ帰った。 二十五  比田は平気な顔をして本を読んでいた。「いえなにまた例の持病ですから」といって、健三の慰問にはまるで取り合わなかった。同じ事を年に何度となく繰り返して行くうちに、自然と末枯れて来る気の毒な女房の姿は、この男にとって毫も感傷の種にならないように見えた。実際彼は三十年近くも同棲して来た彼の妻に、ただの一つ優しい言葉を掛けた例のない男であった。  健三の這入って来るのを見た彼は、すぐ読み懸けの本を伏せて、鉄縁の眼鏡を外した。  「今ちょっと貴方が茶の間へ行っていらしった間に、下らないものを読み出したんです」  比田と読書――これはまた極めて似つかわしくない取合わせであった。  「何ですか、それは」  「なに健ちゃんなんぞの読むもんじゃありません、古いもんで」  比田は笑いながら、机の上に伏せた本を取って健三に渡した。それが意外にも『常山紀談』だったので健三は少し驚ろいた。それにしても自分の細君が今にも絶息しそうな勢で咳き込んでいるのを、まるで余所事のように聴いて、こんなものを平気で読んでいられるところが、如何にも能くこの男の性質をあらわしていた。  「私ゃ旧弊だからこういう古い講談物が好きでしてね」  彼は『常山紀談』を普通の講談物と思っているらしかった。しかしそれを書いた湯浅常山を講釈師と間違えるほどでもなかった。  「やッぱり学者なんでしょうね、その男は。曲亭馬琴とどっちでしょう。私ゃ馬琴の『八犬伝』も持っているんだが」  なるほど彼は桐の本箱の中に、日本紙へ活版で刷った予約の『八犬伝』を綺麗に重ね込んでいた。  「健ちゃんは『江戸名所図絵』を御持ちですか」  「いいえ」  「ありゃ面白い本ですね。私ゃ大好きだ。なんなら貸して上げましょうか。なにしろ江戸といった昔の日本橋や桜田がすっかり分るんだからね」  彼は床の間の上にある別の本箱の中から、美濃紙版の浅黄の表紙をした古い本を一、二冊取り出した。そうしてあたかも健三を『江戸名所図絵』の名さえ聞いた事のない男のように取扱った。その健三には子供の時分その本を蔵から引き摺り出して来て、頁から頁へと丹念に挿絵を拾って見て行くのが、何よりの楽みであった時代の、懐かしい記憶があった。中にも駿河町という所に描いてある越後屋の暖簾と富士山とが、彼の記憶を今代表する焼点となった。  「この分ではとてもその頃の悠長な心持で、自分の研究と直接関係のない本などを読んでいる暇は、薬にしたくっても出て来まい」  健三は心のうちでこう考えた。ただ焦燥に焦燥ってばかりいる今の自分が、恨めしくもありまた気の毒でもあった。  兄が約束の時間までに顔を出さないので、比田はその間を繋ぐためか、しきりに書物の話をつづけようとした。書物の事なら何時まで話していても、健三にとって迷惑にならないという自信でも持っているように見えた。不幸にして彼の知識は、『常山紀談』を普通の講談ものとして考える程度であった。それでも彼は昔し出た『風俗画報』を一冊残らず綴じて持っていた。  本の話が尽きた時、彼は仕方なしに問題を変えた。  「もう来そうなもんですね、長さんも。あれほどいってあるんだから忘れるはずはないんだが。それに今日は明けの日だから、遅くとも十一時頃までには帰らなきゃならないんだから。何ならちょっと迎に遣りましょうか」  この時また変化が来たと見えて、火の着くように咳き入る姉の声が茶の間の方で聞こえた。 二十六  やがて門口の格子を開けて、沓脱へ下駄を脱ぐ音がした。  「やっと来たようですぜ」と比田がいった。  しかし玄関を通り抜けたその足音はすぐ茶の間へ這入った。  「また悪いの。驚ろいた。ちっとも知らなかった。何時から」  短かい言葉が感投詞のようにまた質問のように、座敷に坐っている二人の耳に響いた。その声は比田の推察通りやっぱり健三の兄であった。  「長さん、先刻から待ってるんだ」  性急な比田はすぐ座敷から声を掛けた。女房の喘息などはどうなっても構わないといった風のその調子が、如何にもこの男の特性をよく現わしていた。「本当に手前勝手な人だ」とみんなからいわれるだけあって、彼はこの場合にも、自分の都合より外に何にも考えていないように見えた。  「今行きますよ」  長太郎も少し癪だと見えて、なかなか茶の間から出て来なかった。  「重湯でも少し飲んだら好いでしょう。厭? でもそう何にも食べなくっちゃ身体が疲れるだけだから」  姉が息苦しくって、受答えが出来かねるので、脊中を撫っていた女が一口ごとに適宜な挨拶をした。平生健三よりは親しくその宅へ出入する兄は、見馴れないこの女とも近付と見えた。そのせいか彼らの応対は容易に尽きなかった。  比田はぷりっと膨れていた。朝起きて顔を洗う時のように、両手で黒い顔をごしごし擦った。しまいに健三の方を向いて、小さな声でこんな事をいった。  「健ちゃんあれだから困るんですよ。口ばかり多くってね。こっちも手がないから仕方なしに頼むんだが」  比田の非難は明らかに健三の見知らない女の上に投げ掛けられた。  「何ですあの人は」  「そら梳手の御勢ですよ。昔し健ちゃんの遊びに来る時分、よくいたじゃありませんか、宅に」  「へええ」  健三には比田の家でそんな女に会った覚が全くなかった。  「知りませんね」  「なに知らない事があるもんですか、御勢だもの。あいつはね、御承知の通りまことに親切で実意のある好い女なんだが、あれだから困るんです。喋舌るのが病なんだから」  よく事情を知らない健三には、比田のいう事が、ただ自分だけに都合のいい誇張のように聞こえるばかりで、大した感銘も与えなかった。  姉はまた咳き出した。その発作が一段落片付くまでは、さすがの比田も黙っていた。長太郎も茶の間を出て来なかった。  「何だか先刻より劇しいようですね」  少し不安になった健三は、そういいながら席を立とうとした。比田は一も二もなく留めた。  「なあに大丈夫、大丈夫。あれが持病なんですから大丈夫。知らない人が見るとちょっと吃驚しますがね。私なんざあもう年来馴れっ子になってるから平気なもんですよ。実際またあれを一々苦にしているようじゃ、とても今日まで一所に住んでる事は出来ませんからね」  健三は何とも答える訳に行かなかった。ただ腹の中で、自分の細君が歇私的里の発作に冒された時の苦しい心持を、自然の対照として描き出した。  姉の咳嗽が一収り収った時、長太郎は始めて座敷へ顔を出した。  「どうも済みません。もっと早く来るはずだったが、生憎珍らしく客があったもんだから」  「来たか長さん待ってたほい。冗談じゃないよ。使でも出そうかと思ってたところです」  比田は健三の兄に向ってこの位な気安い口調で話の出来る地位にあった。 二十七  三人はすぐ用談に取り掛った。比田が最初に口を開いた。  彼はちょっとした相談事にも仔細ぶる男であった。そうして仔細ぶればぶるほど、自分の存在が周囲から強く認められると考えているらしかった。「比田さん比田さんって、立てて置きさえすりゃ好いんだ」と皆なが蔭で笑っていた。  「時に長さんどうしたもんだろう」  「そう」  「どうもこりゃ天から筋が違うんだから、健ちゃんに話をするまでもなかろうと思うんだがね、私ゃ」  「そうさ。今更そんな事を持ち出して来たって、こっちで取り合う必要もないだろうじゃないか」  「だから私も突っ跳ねたのさ。今時分そんな事を持ち出すのは、まるで自分の殺した子供を、もう一返生かしてくれって、御寺様へ頼みに行くようなものだから御止しなさいって。だけど大将いくら何といっても、坐り込んで動かないんだからね、仕方がない。しかしあの男がああやって今頃私の宅へのんこのしゃあで遣って来るのも、実はというと、やっぱり昔し○の関係があったからの事さ。だってそりゃ昔しも昔し、ずっと昔しの話でさあ。その上ただで借りやしまいしね、……」  「またただで貸す風でもなしね」  「そうさ。口じゃ親類付合だとか何とかいってるくせに、金にかけちゃあかの他人より阿漕なんだから」  「来た時にそういって遣れば好いのに」  比田と兄との談話はなかなか元へ戻って来なかった。ことに比田は其所に健三のいるのさえ忘れてしまったように見えた。健三は好加減に何とか口を出さなければならなくなった。  「一体どうしたんです。島田がこちらへでも突然伺ったんですか」  「いやわざわざ御呼び立て申して置いて、つい自分の勝手ばかり喋舌って済みません。――じゃ長さん私から健ちゃんに一応その顛末を御話しする事にしようか」  「ええどうぞ」  話しは意外にも単純であった。――ある日島田が突然比田の所へ来た。自分も年を取って頼りにするものがいないので心細いという理由の下に、昔し通り島田姓に復帰してもらいたいからどうぞ健三にそう取り次いでくれと頼んだ。比田もその要求の突飛なのに驚ろいて最初は拒絶した。しかし何といっても動かないので、ともかくも彼の希望だけは健三に通じようと受合った。――ただこれだけなのである。  「少し変ですねえ」  健三にはどう考えても変としか思われなかった。  「変だよ」  兄も同じ意見を言葉にあらわした。  「どうせ変にゃ違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」  「慾でやきが廻りゃしないか」  比田も兄も可笑しそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時までも変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありようはずがなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったといって、島田が一人で訪ねて来た時の言葉を思い出した。しかしどこをどう思い出しても、其所からこんな結果が生れて来ようとは考えられなかった。  「どうしても変ですね」  彼は自分のために同じ言葉をもう一度繰り返して見た。それから漸と気を換えてこういった。  「しかしそりゃ問題にゃならないでしょう。ただ断りさえすりゃ好いんだから」 二十八  健三の眼から見ると、島田の要求は不思議な位理に合わなかった。従ってそれを片付けるのも容易であった。ただ簡単に断りさえすれば済んだ。  「しかし一旦は貴方の御耳まで入れて置かないと、私の落度になりますからね」と比田は自分を弁護するようにいった。彼はどこまでもこの会合を真面目なものにしなければ気が済まないらしかった。それで言う事も時によって変化した。  「それに相手が相手ですからね。まかり間違えば何をするか分らないんだから、用心しなくっちゃいけませんよ」  「焼が廻ってるなら構わないじゃないか」と兄が冗談半分に彼の矛盾を指摘すると、比田はなお真面目になった。  「焼が廻ってるから怖いんです。なに先が当り前の人間なら、私だってその場ですぐ断っちまいまさあ」  こんな曲折は会談中に時々起ったが、要するに話は最初に戻って、つまり比田が代表者として島田の要求を断るという事になった。それは三人が三人ながら始めから予期していた結局なので、其所へ行き着くまでの筋道は、健三から見ると、むしろ時間の空費に過ぎなかった。しかし彼はそれに対して比田に礼を述べる義理があった。  「いえ何御礼なんぞ御仰られると恐縮します」といった比田の方はかえって得意であった。誰が見ても宅へも帰らずに忙がしがっている人の様子とは受取れないほど、調子づいて来た。  彼は其所にある塩煎餅を取ってやたらにぼりぼり噛んだ。そうしてその相間々々には大きな湯呑へ茶を何杯も注ぎ易えて飲んだ。  「相変らず能く食べますね。今でも鰻飯を二つ位遣るんでしょう」  「いや人間も五十になるともう駄目ですね。もとは健ちゃんの見ている前で天ぷら蕎麦を五杯位ぺろりと片付けたもんでしたがね」  比田はその頃から食気の強い男であった。そうして余計食うのを自慢にしていた。それから腹の太いのを賞められたがって、時機さえあれば始終叩いて見せた。  健三は昔しこの人に連れられて寄席などに行った帰りに、能く二人して屋台店の暖簾を潜って、鮨や天麩羅の立食をした当時を思い出した。彼は健三にその寄席で聴いたしかおどり[#「しかおどり」に傍点]とかいう三味線の手を教えたり、またはさば[#「さば」に傍点]を読むという隠語などを習い覚えさせたりした。  「どうもやっぱり立食に限るようですね。私もこの年になるまで、段々方々食って歩いて見たが。健ちゃん、一遍軽井沢で蕎麦を食って御覧なさい、騙されたと思って。汽車の停ってるうちに、降りて食うんです、プラットフォームの上へ立ってね。さすが本場だけあって旨うがすぜ」  彼は信心を名として能く方々遊び廻る男であった。  「それよか、善光寺の境内に元祖藤八拳指南所という看板が懸っていたには驚ろいたね、長さん」  「這入って一つ遣って来やしないか」  「だって束修が要るんだからね、君」  こんな談話を聞いていると、健三も何時か昔の我に帰ったような心持になった。同時に今の自分が、どんな意味で彼らから離れてどこに立っているかも明らかに意識しなければならなくなった。しかし比田は一向そこに気が付かなかった。  「健ちゃんはたしか京都へ行った事がありますね。彼所に、ちんちらでんき[#「ちんちらでんき」に傍点]皿持てこ汁飲ましょって鳴く鳥がいるのを御存じですか」などと訊いた。  先刻から落付いていた姉が、また劇しく咳き出した時、彼は漸く口を閉じた。そうしてさもくさくさしたといわぬばかりに、左右の手の平を揃えて、黒い顔をごしごし擦った。  兄と健三はちょっと茶の間の様子を覗きに立った。二人とも発作の静まるまで姉の枕元に坐っていた後で、別々に比田の家を出た。 二十九  健三は自分の背後にこんな世界の控えている事を遂に忘れることが出来なくなった。この世界は平生の彼にとって遠い過去のものであった。しかしいざという場合には、突然現在に変化しなければならない性質を帯びていた。  彼の頭には願仁坊主に似た比田の毬栗頭が浮いたり沈んだりした。猫のように顋の詰った姉の息苦しく喘いでいる姿が薄暗く見えた。血の気の竭きかけた兄に特有なひすばった長い顔も出たり引込んだりした。  昔しこの世界に人となった彼は、その後自然の力でこの世界から独り脱け出してしまった。そうして脱け出したまま永く東京の地を踏まなかった。彼は今再びその中へ後戻りをして、久しぶりに過去の臭を嗅いだ。それは彼に取って、三分の一の懐かしさと、三分の二の厭らしさとを齎す混合物であった。  彼はまたその世界とはまるで関係のない方角を眺めた。すると其所には時々彼の前を横切る若い血と輝いた眼を有った青年がいた。彼はその人々の笑いに耳を傾むけた。未来の希望を打ち出す鐘のように朗かなその響が、健三の暗い心を躍らした。  或日彼はその青年の一人に誘われて、池の端を散歩した帰りに、広小路から切通しへ抜ける道を曲った。彼らが新らしく建てられた見番の前へ来た時、健三はふと思い出したように青年の顔を見た。  彼の頭の中には自分とまるで縁故のない或女の事が閃いた。その女は昔し芸者をしていた頃人を殺した罪で、二十年余も牢屋の中で暗い月日を送った後、漸と世の中へ顔を出す事が出来るようになったのである。  「さぞ辛いだろう」  容色を生命とする女の身になったら、殆んど堪えられない淋しみが其所にあるに違ないと健三は考えた。しかしいくらでも春が永く自分の前に続いているとしか思わない伴の青年には、彼の言葉が何ほどの効果にもならなかった。この青年はまだ二十三、四であった。彼は始めて自分と青年との距離を悟って驚ろいた。  「そういう自分もやっぱりこの芸者と同じ事なのだ」  彼は腹の中で自分と自分にこういい渡した。若い時から白髪の生えたがる性質の彼の頭には、気のせいか近頃めっきり白い筋が増して来た。自分はまだまだと思っているうちに、十年は何時の間にか過ぎた。  「しかし他事じゃないね君。その実僕も青春時代を全く牢獄の裡で暮したのだから」  青年は驚ろいた顔をした。  「牢獄とは何です」  「学校さ、それから図書館さ。考えると両方ともまあ牢獄のようなものだね」  青年は答えなかった。  「しかし僕がもし長い間の牢獄生活をつづけなければ、今日の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」  健三の調子は半ば弁解的であった。半ば自嘲的であった。過去の牢獄生活の上に現在の自分を築き上げた彼は、その現在の自分の上に、是非とも未来の自分を築き上げなければならなかった。それが彼の方針であった。そうして彼から見ると正しい方針に違なかった。けれどもその方針によって前へ進んで行くのが、この時の彼には徒らに老ゆるという結果より外に何物をも持ち来さないように見えた。  「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」  「そんな事はありません」  彼の意味はついに青年に通じなかった。彼は今の自分が、結婚当時の自分と、どんなに変って、細君の眼に映るだろうかを考えながら歩いた。その細君はまた子供を生むたびに老けて行った。髪の毛なども気の引けるほど抜ける事があった。そうして今は既に三番目の子を胎内に宿していた。 三十  家へ帰ると細君は奥の六畳に手枕をしたなり寐ていた。健三はその傍に散らばっている赤い片端だの物指だの針箱だのを見て、またかという顔をした。  細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた。健三を送り出してからまた横になる日も少なくはなかった。こうしてあくまで眠りを貪ぼらないと、頭が痺れたようになって、その日一日何事をしても判然しないというのが、常に彼女の弁解であった。健三はあるいはそうかも知れないと思ったり、またはそんな事があるものかと考えたりした。ことに小言をいったあとで、寐られるときは、後の方の感じが強く起った。  「不貞寐をするんだ」  彼は自分の小言が、歇私的里性の細君に対して、どう反応するかを、よく観察してやる代りに、単なる面当のために、こうした不自然の態度を彼女が彼に示すものと解釈して、苦々しい囁きを口の内で洩らす事がよくあった。  「何故夜早く寐ないんだ」  彼女は宵っ張であった。健三にこういわれる度に、夜は眼が冴えて寐られないから起きているのだという答弁をきっとした。そうして自分の起きていたい時までは必ず起きて縫物の手をやめなかった。  健三はこうした細君の態度を悪んだ。同時に彼女の歇私的里を恐れた。それからもしや自分の解釈が間違っていはしまいかという不安にも制せられた。  彼は其所に立ったまま、しばらく細君の寐顔を見詰めていた。肱の上に載せられたその横顔はむしろ蒼白かった。彼は黙って立っていた。御住という名前さえ呼ばなかった。  彼はふと眼を転じて、あらわな白い腕の傍に放り出された一束の書物に気を付けた。それは普通の手紙の重なり合ったものでもなければ、また新らしい印刷物を一纏に括ったものとも見えなかった。惣体が茶色がかって既に多少の時代を帯びている上に、古風なかんじん撚で丁寧な結び目がしてあった。その書ものの一端は、殆んど細君の頭の下に敷かれていると思われる位、彼女の黒い髪で、健三の目を遮ぎっていた。  彼はわざわざそれを引き出して見る気にもならずに、また眼を蒼白い細君の額の上に注いだ。彼女の頬は滑り落ちるようにこけていた。  「まあ御痩せなすった事」  久しぶりに彼女を訪問した親族のある女は、近頃の彼女の顔を見て驚ろいたように、こんな評を加えた事があった。その時健三は何故だかこの細君を痩せさせた凡ての源因が自分一人にあるような心持がした。  彼は書斎に入った。  三十分も経ったと思う頃、門口を開ける音がして、二人の子供が外から帰って来た。坐っている健三の耳には、彼らと子守との問答が手に取るように聞こえた。子供はやがて馳け込むように奥へ入った。其所ではまた細君が蒼蠅いといって、彼らを叱る声がした。  それからしばらくして細君は先刻自分の枕元にあった一束の書ものを手に持ったまま、健三の前にあらわれた。  「先ほど御留守に御兄さんがいらっしゃいましてね」  健三は万年筆の手を止めて、細君の顔を見た。  「もう帰ったのかい」  「ええ。今ちょっと散歩に出掛ましたから、もうじき帰りましょうって御止めしたんですけれども、時間がないからって御上りになりませんでした」  「そうか」  「何でも谷中に御友達とかの御葬式があるんですって。それで急いで行かないと間に合わないから、上っていられないんだと仰ゃいました。しかし帰りに暇があったら、もしかすると寄るかも知れないから、帰ったら待ってるようにいってくれって、いい置いていらっしゃいました」  「何の用なのかね」  「やっぱりあの人の事なんだそうです」  兄は島田の事で来たのであった。 三十一  細君は手に持った書付の束を健三の前に出した。  「これを貴夫に上げてくれと仰しゃいました」  健三は怪訝な顔をしてそれを受取った。  「何だい」  「みんなあの人に関係した書類なんだそうです。健三に見せたら参考になるだろうと思って、用箪笥の抽匣の中にしまって置いたのを、今日出して持って来たって仰ゃいました」  「そんな書類があったのかしら」  彼は細君から受取った一括りの書付を手に載せたまま、ぼんやり時代の付いた紙の色を眺めた。それから何も意味なしに、裏表を引繰返して見た。書類は厚さにしてほぼ二寸もあったが、風の通らない湿気た所に長い間放り込んであったせいか、虫に食われた一筋の痕が偶然健三の眼を懐古的にした。彼はその不規則な筋を指の先でざらざら撫でて見た。けれども今更鄭寧に絡げたかんじん撚の結び目を解いて、一々中を検ためる気も起らなかった。  「開けて見たって何が出て来るものか」  彼の心はこの一句でよく代表されていた。  「御父さまが後々のためにちゃんと一纏めにして取って御置になったんですって」  「そうか」  健三は自分の父の分別と理解力に対して大した尊敬を払っていなかった。  「おやじの事だからきっと何でもかんでも取って置いたんだろう」  「しかしそれもみんな貴夫に対する御親切からなんでしょう。あんな奴だから己のいなくなった後に、どんな事をいって来ないとも限らない、その時にはこれが役に立つって、わざわざ一纏めにして、御兄さんに御渡になったんだそうですよ」  「そうかね、己は知らない」  健三の父は中気で死んだ。その父のまだ達者でいるずっと前から、彼はもう東京にいなかった。彼は親の死目にさえ会わなかった。こんな書付が自分の眼に触れないで、長い間兄の手元に保管されていたのも、別段の不思議ではなかった。  彼は漸やく書類の結目を解いて一所に重なっているものを、一々ほごし始めた。手続き書と書いたものや、取り替せ一札の事と書いたものや、明治二十一年子一月約定金請取の証と書いた半紙二つ折の帳面やらが順々にあらわれて来た。その帳面のしまいには、右本日受取右月賦金は皆済相成候事と島田の手蹟で書いて黒い判がべたりと捺してあった。  「おやじは月々三円か四円ずつ取られたんだな」  「あの人にですか」  細君はその帳面を逆さまに覗き込んでいた。  「〆ていくらになるかしら。しかしこの外にまだ一時に遣ったものがあるはずだ。おやじの事だから、きっとその受取を取って置いたに違ない。どこかにあるだろう」  書付はそれからそれへと続々出て来た。けれども、健三の眼にはどれもこれもごちゃごちゃして容易に解らなかった。彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。  「小学校の卒業証書まで入れてある」  その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。  「何ですかそれは」  「何だか己も忘れてしまった」  「よっぽど古いものね」  証書のうちには賞状も二、三枚交っていた。昇り竜と降り竜で丸い輪廓を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。  「書物も貰った事があるんだがな」  彼は『勧善訓蒙』だの『輿地誌略』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅へ帰った昔を思い出した。御褒美をもらう前の晩夢に見た蒼い竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、平生と違って今の健三には甚だ近く見えた。 三十二  細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧に剥繰って見た。  「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」  「あったんだね」  健三はそのまま外の書付に手を着けた。読みにくい彼の父の手蹟が大いに彼を苦しめた。  「これを御覧、とても読む勇気がないね。ただでさえ判明らないところへ持って来て、むやみに朱を入れたり棒を引いたりしてあるんだから」  健三の父と島田との懸合について必要な下書らしいものが細君の手に渡された。細君は女だけあって、綿密にそれを読み下した。  「貴夫の御父さまはあの島田って人の世話をなすった事があるのね」  「そんな話は己も聞いてはいるが」  「此所に書いてありますよ。――同人幼少にて勤向相成りがたく当方へ引き取り五カ年間養育致候縁合を以てと」  細君の読み上げる文章は、まるで旧幕時代の町人が町奉行か何かへ出す訴状のように聞こえた。その口調に動かされた健三は、自然古風な自分の父を眼の前に髣髴した。その父から、将軍の鷹狩に行く時の模様などを、それ相当の敬語で聞かされた昔も思い合された。しかし事実の興味が主として働らきかけている細君の方ではまるで文体などに頓着しなかった。  「その縁故で貴夫はあの人の所へ養子に遣られたのね。此所にそう書いてありますよ」  健三は因果な自分を自分で憐れんだ。平気な細君はその続きを読み出した。  「右健三三歳のみぎり養子に差遣し置候処平吉儀妻常と不和を生じ、遂に離別と相成候につき当時八歳の健三を当方へ引き取り今日まで十四カ年間養育致し、――あとは真赤でごちゃごちゃして読めないわね」  細君は自分の眼の位置と書付の位置とを色々に配合して後を読もうと企てた。健三は腕組をして黙って待っていた。細君はやがてくすくす笑い出した。  「何が可笑しいんだ」  「だって」  細君は何にもいわずに、書付を夫の方に向け直した。そうして人さし指の頭で、細かく割註のように朱で書いた所を抑えた。  「ちょっと其所を読んで御覧なさい」  健三は八の字を寄せながら、その一行を六ずかしそうに読み下した。  「取扱い所勤務中遠山藤と申す後家へ通じ合い候が事の起り。――何だ下らない」  「しかし本当なんでしょう」  「本当は本当さ」  「それが貴夫の八ツの時なのね。それから貴夫は御自分の宅へ御帰りになった訳ね」  「しかし籍を返さないんだ」  「あの人が?」  細君はまたその書付を取り上げた。読めない所はそのままにして置いて、読める所だけ眼を通しても、自分のまだ知らない事実が出て来るだろうという興味が、少なからず彼女の好奇心を唆った。  書付のしまいの方には、島田が健三の戸籍を元通りにして置いて実家へ返さないのみならず、いつの間にか戸主に改めた彼の印形を濫用して金を借り散らした例などが挙げてあった。  いよいよ手を切る時に養育料として島田に渡した金の証文も出て来た。それには、しかる上は健三離縁本籍と引替に当金――円御渡し被下、残金――円は毎月三十日限り月賦にて御差入のつもり御対談云々と長たらしく書いてあった。  「凡て変梃な文句ばかりだね」  「親類取扱人比田寅八って下に印が押してあるから、大方比田さんでも書いたんでしょう」  健三はついこの間会った比田の万事に心得顔な様子と、この証文の文句とを引き比べて見た。 三十三  葬式の帰りに寄るかも知れないといった兄は遂に顔を見せなかった。  「あんまり遅くなったから、すぐ御帰りになったんでしょう」  健三にはその方が便宜であった。彼の仕事は前の日か前の晩を潰して調べたり考えたりしなければ義務を果す事の出来ない性質のものであった。従って必要な時間を他に食い削られるのは、彼に取って甚しい苦痛になった。  彼は兄の置いて行った書類をまた一纏めにして、元のかんじん撚で括ろうとした。彼が指先に力を入れた時、そのかんじん撚はぷつりと切れた。  「あんまり古くなって、弱ったのね」  「まさか」  「だって書付の方は虫が食ってる位ですもの、貴夫」  「そういえばそうかも知れない。何しろ抽斗に投げ込んだなり、今日まで放って置いたんだから。しかし兄貴も能くまあこんなものを取って置いたものだね。困っちゃ何でも売るくせに」  細君は健三の顔を見て笑い出した。  「誰も買い手がないでしょう。そんな虫の食った紙なんか」  「だがさ。能く紙屑籠の中へ入れてしまわなかったという事さ」  細君は赤と白で撚った細い糸を火鉢の抽斗から出して来て、其所に置かれた書類を新らしく絡げた上、それを夫に渡した。  「己の方にゃしまって置く所がないよ」  彼の周囲は書物で一杯になっていた。手文庫には文殻とノートがぎっしり詰っていた。空地のあるのは夜具蒲団のしまってある一間の戸棚だけであった。細君は苦笑して立ち上った。  「御兄さんは二、三日うちきっとまたいらっしゃいますよ」  「あの事でかい」  「それもそうですけれども、今日御葬式にいらっしゃる時に、袴が要るから借してくれって、此所で穿いていらしったんですもの。きっとまた返しにいらっしゃるに極っていますわ」  健三は自分の袴を借りなければ葬式の供に立てない兄の境遇を、ちょっと考えさせられた。始めて学校を卒業した時彼はその兄から貰ったべろべろの薄羽織を着て友達と一所に池の端で写真を撮った事をまだ覚えていた。その友達の一人が健三に向って、この中で一番先に馬車へ乗るものは誰だろうといった時に、彼は返事をしないで、ただ自分の着ている羽織を淋しそうに眺めた。その羽織は古い絽の紋付に違なかったが、悪くいえば申し訳のために破けずにいる位な見すぼらしい程度のものであった。懇意な友人の新婚披露に招かれて星が岡の茶寮に行った時も、着るものがないので、袴羽織とも凡て兄のを借りて間に合せた事もあった。  彼は細君の知らないこんな記憶を頭の中に呼び起した。しかしそれは今の彼を得意にするよりもかえって悲しくした。今昔の感――そういう在来の言葉で一番よく現せる情緒が自然と彼の胸に湧いた。  「袴位ありそうなものだがね」  「みんな長い間に失くして御しまいなすったんでしょう」  「困るなあ」  「どうせ宅にあるんだから、要る時に貸して上げさいすりゃそれで好いでしょう。毎日使うものじゃなし」  「宅にある間はそれで好いがね」  細君は夫に内所で自分の着物を質に入れたついこの間の事件を思い出した。夫には何時自分が兄と同じ境遇に陥らないものでもないという悲観的な哲学があった。  昔の彼は貧しいながら一人で世の中に立っていた。今の彼は切り詰めた余裕のない生活をしている上に、周囲のものからは、活力の心棒のように思われていた。それが彼には辛かった。自分のようなものが親類中で一番好くなっていると考えられるのはなおさら情なかった。 三十四  健三の兄は小役人であった。彼は東京の真中にある或大きな局へ勤めていた。その宏壮な建物のなかに永い間憐れな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。  「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」  その建物のなかには何百という人間が日となく夜となく烈しく働らいていた。気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。  「ああ厭だ」  活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。彼は病身であった。年歯より早く老けた。年歯より早く干乾びた。そうして色沢の悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。  「何しろ夜寐ないんだから、身体に障ってね」  彼はよく風邪を引いて咳嗽をした。ある時は熱も出た。するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。  実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。彼は隔晩に局へ泊らせられた。そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。翌日の朝彼はぼんやりして自分の宅へ帰って来た。その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。  それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。  「今度は少し危険いようだから、誰かに頼んでくれないか」  改革とか整理とかいう噂のあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。彼はその都度誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。健三は頬杖を突いて考えさせられるばかりであった。  彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗して行くより外には何の事実も認められなかった。  「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」  健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。その兄の派出好で勉強嫌であった昔も眼の前に見えるようであった。三味線を弾いたり、一絃琴を習ったり、白玉を丸めて鍋の中へ放り込んだり、寒天を煮て切溜で冷したり、凡ての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。  「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」  これが今の彼の折々他に洩す述懐になる位彼は怠け者であった。  兄弟が死に絶えた後、自然健三の生家の跡を襲ぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。それで元からある借金を済して、自分は小さな宅へ這入った。それから其所に納まり切らない道具類を売払った。  間もなく彼は三人の子の父になった。そのうちで彼の最も可愛がっていた惣領の娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核に罹ったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。しかし彼のなし得る凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。二年越煩った後で彼女が遂に斃れた時、彼の家の箪笥はまるで空になっていた。儀式に要る袴は無論、ちょっとした紋付の羽織さえなかった。彼は健三の外国で着古した洋服を貰って、それを大事に着て毎日局へ出勤した。 三十五  二、三日経って健三の兄は果して細君の予想通り袴を返しに来た。  「どうも遅くなって御気の毒さま。有難う」  彼は腰板の上に双方の端を折返して小さく畳んだ袴を、風呂敷の中から出して細君の前に置いた。大の見栄坊で、ちょっとした包物を持つのも厭がった昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り膏気もなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を抓んで、それを鄭寧に折った。  「こりゃ好い袴だね。近頃拵えたの」  「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」  細君は結婚のときこの袴を着けて勿体らしく坐った夫の姿を思いだした。遠い所で極簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。  「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも敗んでいないじゃないか」  「滅多に穿かないんですもの。それでも一人でいるうちに能くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。私今でも不思議だと思いますわ」  「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」  二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。  東京からわざわざ彼女を伴れて来た細君の父は、娘に振袖を着せながら、自分は一通りの礼装さえ調えていなかった。セルの単衣を着流しのままでしまいには胡坐さえ掻いた。婆さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってから貰うという約束があったので、媒酌人もその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた注意書のようなものを読んで見た。それは立派な紙に楷書で認められた厳めしいものには違なかったが、中には『東鑑』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。  「雌蝶も雄蝶もあったもんじゃないのよ貴方。だいち御盃の縁が欠けているんですもの」  「それで三々九度を遣ったのかね」  「ええ。だから夫婦中がこんなにがたぴしするんでしょう」  兄は苦笑した。  「健三もなかなかの気六ずかしやだから、御住さんも骨が折れるだろう」  細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う気色も見えなかった。  「もう帰りそうなものですがね」  「今日は待ってて例の事件を話して行かなくっちゃあ、……」  兄はまだその後をいおうとした。細君はふいと立って茶の間へ時計を見に這入った。其所から出て来た時、彼女はこの間の書類を手にしていた。  「これが要るんでしょう」  「いえそれはただ参考までに持って来たんだから、多分要るまい。もう健三に見せてくれたんでしょう」  「ええ見せました」  「何といってたかね」  細君は何とも答えようがなかった。  「随分沢山色々な書付が這入っていますわね。この中には」  「御父さんが、今に何か事があるといけないって、丹念に取って置いたんだから」  細君は夫から頼まれてその中の最も大切らしい一部分を彼のために代読した事はいわなかった。兄もそれぎり書類について語らなくなった。二人は健三の帰るまでの時間をただの雑談に費やした。その健三は約三十分ほどして帰って来た。 三十六  彼が何時もの通り服装を改めて座敷へ出た時、赤と白と撚り合せた細い糸で括られた例の書類は兄の膝の上にあった。  「先達ては」  兄は油気の抜けた指先で、一度解きかけた糸の結び目を元の通りに締めた。  「今ちょっと見たらこの中には君に不必要なものが紛れ込んでいるね」  「そうですか」  この大事そうにしまい込まれてあった書付に、兄が長い間眼を通さなかった事を健三は知った。兄はまた自分の弟がそれほど熱心にそれを調べていない事に気が付いた。  「御由の送籍願が這入ってるんだよ」  御由というのは兄の妻の名であった。彼がその人と結婚する当時に必要であった区長宛の願書が其所から出て来ようとは、二人とも思いがけなかった。  兄は最初の妻を離別した。次の妻に死なれた。その二度目の妻が病気の時、彼は大して心配の様子もなく能く出歩いた。病症が悪阻だから大丈夫という安心もあるらしく見えたが、容体が険悪になって後も、彼は依然としてその態度を改める様子がなかったので、人はそれを気に入らない妻に対する仕打とも解釈した。健三もあるいはそうだろうと思った。  三度目の妻を迎える時、彼は自分から望みの女を指名して父の許諾を求めた。しかし弟には一言の相談もしなかった。それがため我の強い健三の、兄に対する不平が、罪もない義姉の方にまで影響した。彼は教育も身分もない人を自分の姉と呼ぶのは厭だと主張して、気の弱い兄を苦しめた。  「なんて捌けない人だろう」  陰で批評の口に上るこうした言葉は、彼を反省させるよりもかえって頑固にした。習俗を重んずるために学問をしたような悪い結果に陥って自ら知らなかった彼には、とかく自分の不見識を認めて見識と誇りたがる弊があった。彼は慚愧の眼をもって当時の自分を回顧した。  「送籍願が紛れ込んでいるなら、それを御返しするから、持って行ったら好いでしょう」  「いいえ写しだから、僕も要らないんだ」  兄は紅白の糸に手も触れなかった。健三はふとその日附が知りたくなった。  「一体何時頃でしたかね。それを区役所へ出したのは」  「もう古い事さ」  兄はこれだけいったぎりであった。その唇には微笑の影が差した。最初も二返目も失敗って、最後にやっと自分の気に入った女と一所になった昔を忘れるほど、彼は耄碌していなかった。同時にそれを口へ出すほど若くもなかった。  「御幾年でしたかね」と細君が訊いた。  「御由ですか。御由は御住さんと一つ違ですよ」  「まだ御若いのね」  兄はそれには何とも答えずに、先刻から膝の上に置いた書類の帯を急に解き始めた。  「まだこんなものが這入っていたよ。これも君にゃ関係のないものだ。さっき見て僕もちょいと驚ろいたが、こら」  彼はごたごたした故紙の中から、何の雑作もなく一枚の書付を取り出した。それは喜代子という彼の長女の出産届の下書であった。「右者本月二十三日午前十一時五十分出生致し候」という文句の、「本月二十三日」だけに棒が引懸けて消してある上に、虫の食った不規則な線が筋違に入っていた。  「これも御父さんの手蹟だ。ねえ」  彼はその一枚の反故を大事らしく健三の方へ向け直して見せた。  「御覧、虫が食ってるよ。尤もそのはずだね。出産届ばかりじゃない、もう死亡届まで出ているんだから」  結核で死んだその子の生年月を、兄は口のうちで静かに読んでいた。 三十七  兄は過去の人であった。華美な前途はもう彼の前に横わっていなかった。何かに付けて後を振り返りがちな彼と対坐している健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。  「淋しいな」  健三は兄の道伴になるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに淋しいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。  兄はこの間の相談通り島田の要求を断った旨を健三に話した。しかしどんな手続きでそれを断ったのか、また先方がそれに対してどんな挨拶をしたのか、そういう細かい点になると、全く要領を得た返事をしなかった。  「何しろ比田からそういって来たんだから慥だろう」  その比田が島田に会いに行って話を付けたとも、または手紙で会見の始末を知らせて遣ったとも、健三には判明らなかった。  「多分行ったんだろうと思うがね。それともあの人の事だから、手紙だけで済ましてしまったのか。其所はつい聴いて来るのを忘れたよ。尤もあの後一返姉さんの見舞かたがた行った時にゃ、比田が相変らず留守だったので、つい会う事が出来なかったのさ。しかしその時姉さんの話じゃ、何でも忙がしいんで、まだそのままにしてあるようだっていってたがね。あの男も随分無責任だから、ことによると行かないのかも知れないよ」  健三の知っている比田も無責任の男に相違なかった。その代り頼むと何でも引き受ける性質であった。ただ他から頭を下げて頼まれるのが嬉しくって物を受合いたがる彼は、頼み方が気に入らないと容易に動かなかった。  「しかしこんだの事なんざあ、島田がじかに比田の所へ持ち込んだんだからねえ」  兄は暗に比田自身が先方へ出向いて話し合を付けなければ義理の悪いような事をいった。そのくせ彼はこんな場合に決して自分で懸合事などに出掛ける人ではなかった。少し気を遣わなければならない面倒が起ると必ず顔を背けた。そうして事情の許す限り凝と辛防して独り苦しんだ。健三にはこの矛盾が腹立たしくも可笑しくもない代りに何となく気の毒に見えた。  「自分も兄弟だから他から見たらどこか似ているのかも知れない」  こう思うと、兄を気の毒がるのは、つまり自分を気の毒がるのと同じ事にもなった。  「姉さんはもう好いんですか」  問題を変えた彼は、姉の病気について経過を訊ねた。  「ああ。どうも喘息ってものは不思議だねえ。あんなに苦しんでいても直癒るんだから」  「もう話が出来ますか」  「出来るどころか、なかなか能く喋舌ってね。例の調子で。――姉さんの考じゃ、島田は御縫さんの所へ行って、智慧を付けられて来たんだろうっていうんだがね」  「まさか。それよりあの男だからあんな非常識な事をいって来るのだと解釈する方が適当でしょう」  「そう」  兄は考えていた。健三は馬鹿らしいという顔付をした。  「でなければね。きっと年を取って皆なから邪魔にされるんだろうって」  健三はまだ黙っていた。  「何しろ淋しいには違ないんだね。それもあいつの事だから、人情で淋しいんじゃない、慾で淋しいんだ」  兄はお縫さんの所から毎月彼女の母の方へ手宛が届く事をどうしてか知っていた。  「何でも金鵄勲章の年金か何かを御藤さんが貰ってるんだとさ。だから島田もどこからか貰わなくっちゃ淋しくって堪らなくなったんだろうよ。何しろあの位慾張ってるんだから」  健三は慾で淋しがってる人に対して大した同情も起し得なかった。 三十八  事件のない日がまた少し続いた。事件のない日は、彼に取って沈黙の日に過ぎなかった。  彼はその間に時々己れの追憶を辿るべく余儀なくされた。自分の兄を気の毒がりつつも、彼は何時の間にか、その兄と同じく過去の人となった。  彼は自分の生命を両断しようと試みた。すると綺麗に切り棄てられべきはずの過去が、かえって自分を追掛けて来た。彼の眼は行手を望んだ。しかし彼の足は後へ歩きがちであった。  そうしてその行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。  不思議な事に、その広い宅には人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。  彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中馳け廻った。  彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路を隔てた真ん向うには大きな唐金の仏様があった。その仏様は胡坐をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖を担いでいた、それから頭に笠を被っていた。  健三は時々薄暗い土間へ下りて、其所からすぐ向側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀じ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。  彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路を二十間も折れ曲って這入った突き当りにあった。その奥は一面の高藪で蔽われていた。  この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹があった。石と石の罅隙からは青草が風に靡いた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は草履穿のままで、何度かその高い石段を上ったり下ったりした。  坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立が蒼黒く見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地の左側に、また一軒の萱葺があった。家は表から引込んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋のような雑な構が拵えられて、常には二、三脚の床几さえ体よく据えてあった。  葭簀の隙から覗くと、奥には石で囲んだ池が見えた。その池の上には藤棚が釣ってあった。水の上に差し出された両端を支える二本の棚柱は池の中に埋まっていた。周囲には躑躅が多かった。中には緋鯉の影があちこちと動いた。濁った水の底を幻影のように赤くするその魚を健三は是非捕りたいと思った。  或日彼は誰も宅にいない時を見計って、不細工な布袋竹の先へ一枚糸を着けて、餌と共に池の中に投げ込んだら、すぐ糸を引く気味の悪いものに脅かされた。彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝った時、彼は恐ろしくなって、すぐ竿を放り出した。そうして翌日静かに水面に浮いている一尺余りの緋鯉を見出した。彼は独り怖がった。……  「自分はその時分誰と共に住んでいたのだろう」  彼には何らの記憶もなかった。彼の頭はまるで白紙のようなものであった。けれども理解力の索引に訴えて考えれば、どうしても島田夫婦と共に暮したといわなければならなかった。 三十九  それから舞台が急に変った。淋しい田舎が突然彼の記憶から消えた。  すると表に櫺子窓の付いた小さな宅が朧気に彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。  彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。  彼は其所で疱瘡をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転げ廻った。惣身の肉を所嫌わず掻き※[#「てへん」に「劣」、109-4]って泣き叫んだ。  彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。空いた場所の畳だか薄縁だかが、黄色く光って、あたりを伽藍堂の如く淋しく見せた。彼は高い所にいた。其所で弁当を食った。そうして油揚の胴を干瓢で結えた稲荷鮨の恰好に似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄につらまって何度も下を覗いて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。伴の大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が潰れた。するとその潰れた屋根の間から、髭を生やした軍人が威張って出て来た。――その頃の健三はまだ芝居というものの観念を有っていなかったのである。  彼の頭にはこの芝居と外れ鷹とが何の意味なしに結び付けられていた。突然鷹が向うに見える青い竹藪の方へ筋違に飛んで行った時、誰だか彼の傍にいるものが、「外れた外れた」と叫けんだ。すると誰だかまた手を叩いてその鷹を呼び返そうとした。――健三の記憶は此所でぷつりと切れていた。芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には不分明であった。従って彼が田圃や藪ばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく判明らなかった。そうしてその時代の彼の記憶には、殆んど人というものの影が働らいていなかった。  しかし島田夫婦が彼の父母として明瞭に彼の意識に上ったのは、それから間もない後の事であった。  その時夫婦は変な宅にいた。門口から右へ折れると、他の塀際伝いに石段を三つほど上らなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地で、抜けると広くて賑やかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間も長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆を懸けた船が何艘となく往ったり来たりした。河岸には柵を結った中へ薪が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地は、だらだら下りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出した。  島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち退いたものか、それらは凡て健三の知識の外に横わる秘密であった。  一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の妻の御常は、化物と同居でもしているように気味を悪がった。尤もこの西洋人は上靴を穿いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を有っていた。御常が癪の気味だとかいって蒼い顔をして寐ていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。 四十  西洋人は何時の間にか去ってしまった。小さい健三がふと心付いて見ると、その広い室は既に扱所というものに変っていた。  扱所というのは今の区役所のようなものらしかった。みんなが低い机を一列に並べて事務を執っていた。テーブルや椅子が今日のように広く用いられない時分の事だったので、畳の上に長く坐るのが、それほどの不便でもなかったのだろう、呼び出されるものも、また自分から遣って来るものも、悉く自分の下駄を土間へ脱ぎ捨てて掛り掛りの机の前へ畏まった。  島田はこの扱所の頭であった。従って彼の席は入口からずっと遠い一番奥の突当りに設けられた。其所から直角に折れ曲って、河の見える櫺子窓の際までに、人の数が何人いたか、机の数が幾脚あったか、健三の記憶は慥かにそれを彼に語り得なかった。  島田の住居と扱所とは、もとより細長い一つ家を仕切ったまでの事なので、彼は出勤といわず退出といわず、少なからぬ便宜を有っていた。彼には天気の好い時でも土を踏む面倒がなかった。雨の降る日には傘を差す臆劫を省く事が出来た。彼は自宅から縁側伝いで勤めに出た。そうして同じ縁側を歩いて宅へ帰った。  こういう関係が、小さい健三を少なからず大胆にした。彼は時々公けの場所へ顔を出して、みんなから相手にされた。彼は好い気になって、書記の硯箱の中にある朱墨を弄ったり、小刀の鞘を払って見たり、他に蒼蠅がられるような悪戯を続けざまにした。島田はまた出来る限りの専横をもって、この小暴君の態度を是認した。  島田は吝嗇な男であった。妻の御常は島田よりもなお吝嗇であった。  「爪に火を点すってえのは、あの事だね」  彼が実家に帰ってから後、こんな評が時々彼の耳に入った。しかし当時の彼は、御常が長火鉢の傍へ坐って、下女に味噌汁をよそって遣るのを何の気もなく眺めていた。  「それじゃ何ぼ何でも下女が可哀そうだ」  彼の実家のものは苦笑した。  御常はまた飯櫃や御菜の這入っている戸棚に、いつでも錠を卸ろした。たまに実家の父が訪ねて来ると、きっと蕎麦を取り寄せて食わせた。その時は彼女も健三も同じものを食った。その代り飯時が来ても決して何時ものように膳を出さなかった。それを当然のように思っていた健三は、実家へ引き取られてから、間食の上に三度の食事が重なるのを見て、大いに驚ろいた。  しかし健三に対する夫婦は金の点に掛けてむしろ不思議な位寛大であった。外へ出る時は黄八丈の羽織を着せたり、縮緬の着物を買うために、わざわざ越後屋まで引っ張って行ったりした。その越後屋の店へ腰を掛けて、柄を択り分けている間に、夕暮の時間が逼ったので、大勢の小僧が広い間口の雨戸を、両側から一度に締め出した時、彼は急に恐ろしくなって、大きな声を揚げて泣き出した事もあった。  彼の望む玩具は無論彼の自由になった。その中には写し絵の道具も交っていた。彼はよく紙を継ぎ合わせた幕の上に、三番叟の影を映して、烏帽子姿に鈴を振らせたり足を動かさせたりして喜こんだ。彼は新らしい独楽を買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際の泥溝の中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場の柵と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹の穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕りにして袂へ入れた。……  要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰い受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。 四十一  しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。  彼らが長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。  「御前の御父ッさんは誰だい」  健三は島田の方を向いて彼を指した。  「じゃ御前の御母さんは」  健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。  これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。  「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」  健三は厭々ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故だか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。  或時はこんな光景が殆んど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃かった。  「御前はどこで生れたの」  こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪で蔽われた小さな赤い門の家を挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支なく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向頓着しなかった。  「健坊、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」  彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。  「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん?」  健三は彼女の意を迎えるために、向うの望むような返事をするのが厭で堪らなかった。 彼は無言のまま棒のように立ッていた。それをただ年歯の行かないためとのみ解釈した御常の観察は、むしろ簡単に過ぎた。彼は心のうちで彼女のこうした態度を忌み悪んだのである。  夫婦は全力を尽して健三を彼らの専有物にしようと力めた。また事実上健三は彼らの専有物に相違なかった。従って彼らから大事にされるのは、つまり彼らのために彼の自由を奪われるのと同じ結果に陥った。彼には既に身体の束縛があった。しかしそれよりもなお恐ろしい心の束縛が、何も解らない彼の胸に、ぼんやりした不満足の影を投げた。  夫婦は何かに付けて彼らの恩恵を健三に意識させようとした。それで或時は「御父ッさんが」という声を大きくした。或時はまた「御母さんが」という言葉に力を入れた。御父ッさんと御母さんを離れたただの菓子を食ったり、ただの着物を着たりする事は、自然健三には禁じられていた。  自分たちの親切を、無理にも子供の胸に外部から叩き込もうとする彼らの努力は、かえって反対の結果をその子供の上に引き起した。健三は蒼蠅がった。  「なんでそんなに世話を焼くのだろう」  「御父ッさんが」とか「御母さんが」とかが出るたびに、健三は己れ独りの自由を欲しがった。自分の買ってもらう玩具を喜んだり、錦絵を飽かず眺めたりする彼は、かえってそれらを買ってくれる人を嬉しがらなくなった。少なくとも両つのものを綺麗に切り離して、純粋な楽みに耽りたかった。  夫婦は健三を可愛がっていた。けれどもその愛情のうちには変な報酬が予期されていた。金の力で美くしい女を囲っている人が、その女の好きなものを、いうがままに買ってくれるのと同じように、彼らは自分たちの愛情そのものの発現を目的として行動する事が出来ずに、ただ健三の歓心を得るために親切を見せなければならなかった。そうして彼らは自然のために彼らの不純を罰せられた。しかも自から知らなかった。 四十二  同時に健三の気質も損われた。順良な彼の天性は次第に表面から落ち込んで行った。そうしてその陥欠を補うものは強情の二字に外ならなかった。  彼の我儘には日増に募った。自分の好きなものが手に入らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所へ坐り込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中から彼の髪の毛を力に任せて※[#「てへん」に「劣」、116-16]り取った。ある時は神社に放し飼の鳩をどうしても宅へ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の寵を欲しいままに専有し得る狭い世界の中に起きたり寐たりする事より外に何にも知らない彼には、凡ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。  やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。  ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦りながら縁側へ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を有っていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその後を知らなかった。  眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから河岸の方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。  驚ろいた養父母はすぐ彼を千住の名倉へ伴れて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は醋の臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが幾日続いたか彼は知らなかった。  「まだ立てないかい。立って御覧」  御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。  彼はしまいに立った。そうして平生と何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて嬉しがりようが、如何にも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。  彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶つ事も少なくはなかった。  御常は非常に嘘を吐く事の巧い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露して自から知らなかった。  或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上った甲という女を、傍で聴いていても聴きづらいほど罵った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変賞めていた所だというような不必要な嘘まで吐いた。健三は腹を立てた。  「あんな嘘を吐いてらあ」  彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝した。甲の帰ったあとで御常は大変に怒った。  「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」  健三は御常の顔から早く火が出れば好い位に感じた。  彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛がられても、それに酬いるだけの情合がこっちに出て来得ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中に蔵していたのである。そうしてその醜くいものを一番能く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々ッ子に外ならなかったのである。 四十三  その中変な現象が島田と御常との間に起った。  ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の傍ではげしく罵り合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。  その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。  こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩が、今では寐ようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。  幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴れないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。  やがて御常は健三に事実を話して聞かせた。その話によると、彼女は世の中で一番の善人であった。これに反して島田は大変な悪ものであった。しかし最も悪いのは御藤さんであった。「あいつが」とか「あの女が」とかいう言葉を使うとき、御常は口惜しくって堪まらないという顔付をした。眼から涙を流した。しかしそうした劇烈な表情はかえって健三の心持を悪くするだけで、外に何の効果もなかった。  「あいつは讐だよ。御母さんにも御前にも讐だよ。骨を粉にしても仇討をしなくっちゃ」  御常は歯をぎりぎり噛んだ。健三は早く彼女の傍を離れたくなった。  彼は始終自分の傍にいて、朝から晩まで彼を味方にしたがる御常よりも、むしろ島田の方を好いた。その島田は以前と違って、大抵は宅にいない事が多かった。彼の帰る時刻は何時も夜更らしかった。従って日中は滅多に顔を合せる機会がなかった。  しかし健三は毎晩暗い灯火の影で彼を見た。その険悪な眼と怒に顫える唇とを見た。咽喉から渦捲く烟のように洩れて出るその憤りの声を聞いた。  それでも彼は時々健三を伴れて以前の通り外へ出る事があった。彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜んだ。ある晩彼は健三と御藤さんの娘の御縫さんとを伴れて、賑かな通りを散歩した帰りに汁粉屋へ寄った。健三の御縫さんに会ったのはこの時が始めてであった。それで彼らは碌に顔さえ見合せなかった。口はまるで利かなかった。  宅へ帰った時、健三は御常から、まず島田にどこへ伴れて行かれたかを訊かれた。それから御藤さんの宅へ寄りはしないかと念を押された。最後に汁粉屋へは誰と一所に行ったという詰間を受けた。健三は島田の注意にかかわらず、事実をありのままに告げた。しかし御常の疑いはそれでもなかなか解けなかった。彼女はいろいろな鎌を掛けて、それ以上の事実を釣り出そうとした。  「あいつも一所なんだろう。本当を御いい。いえば御母さんが好いものを上げるから御いい。あの女も行ったんだろう。そうだろう」  彼女はどうしても行ったといわせようとした。同時に健三はどうしてもいうまいと決心した。彼女は健三を疑った。健三は彼女を卑しんだ。  「じゃあの子に御父ッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」  何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかし御常は其所で留まる女ではなかった。  「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」  嫉妬から出る質問は何時まで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なく露わして顧り見ない彼女は、十にも足りないわが養い子から、愛想を尽かされて毫も気が付かずにいた。 四十四  間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。河岸を向いた裏通りと賑かな表通りとの間に挟まっていた今までの住居も急にどこへか行ってしまった。御常とたった二人ぎりになった健三は、見馴れない変な宅の中に自分を見出だした。  その家の表には門口に縄暖簾を下げた米屋だか味噌屋だかがあった。彼の記憶はこの大きな店と、茹でた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。しかし自分の新らしく移った住居については何の影像も浮かべ得なかった。「時」は綺麗にこの佗びしい記念を彼のために払い去ってくれた。  御常は会う人ごとに島田の話をした。口惜しい口惜しいといって泣いた。  「死んで崇ってやる」  彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける媒介となるに過ぎなかった。  夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。また専有物だと信じていた。  「これからは御前一人が依怙だよ。好いかい。確かりしてくれなくっちゃいけないよ」  こう頼まれるたびに健三はいい渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。  健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ慾に押し出される邪気が常に働いていた。それが頑是ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。しかしその他の点について彼は全くの無我夢中であった。  二人の生活は僅かの間しか続かなかった。物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再縁が現状の変化を余儀なくしたのか、年歯の行かない彼にはまるで解らなかった。何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。  「考えるとまるで他の身の上のようだ。自分の事とは思えない」  健三の記憶に上せた事相は余りに今の彼と懸隔していた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。  「御常さんて人はその時にあの波多野とかいう宅へまた御嫁に行ったんでしょうか」  細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の上書をまだ覚えていた。  「そうだろうよ。己も能く知らないが」  「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」  健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。生死などは無論考えの中になかった。  「警部だっていうじゃありませんか」  「何んだか知らないね」  「あら、貴夫が自分でそう御仰ったくせに」  「何時」  「あの手紙を私に御見せになった時よ」  「そうかしら」  健三は長い手紙の内容を少し思い出した。その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。乳がないので最初からおじや[#「おじや」に傍点]だけで育てた事だの、下性が悪くって寐小便の始末に困った事だの、凡てそうした顛末を、飽きるほど委しく述べた中に、甲府とかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変仕合だと書いてあった。しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、其所になると健三には全く覚がなかった。  「ことによると、もう死んだかも知れないね」  「生きているかも分りませんわ」  二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。  「あの人が不意に遣って来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」  細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙っていた。 四十五  健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いくらかずつの送金をしてくれるのに、小さい時分あれほど世話になって置きながら、今更知らん顔をしていられた義理でもあるまいといった風の筆意が、一頁ごとに見透かされた。  その時彼はこの手紙を東京にいる兄の許に送った。勤先へこんなものを度々寄こされては迷惑するから、少し気を付けるように先方へ注意してくれと頼んだ。兄からはすぐ返事が来た。もともと養家先を離縁になって、他家へ嫁に行った以上は他人である、その上健三はその養家さえ既に出てしまった後なのだから、今になって直接本人へ文通などされては困るという理由を持ち出して、先方を承知させたから安心しろと、その返事には書いてあった。  御常の手紙はその後ふっつり来なくなった。健三は安心した。しかしどこかに心持の悪い所があった。彼は御常の世話を受けた昔を忘れる訳に行かなかった。同時に彼女を忌み嫌う念は昔の通り変らなかった。要するに彼の御常に対する態度は、彼の島田に対する態度と同じ事であった。そうして島田に対するよりも一層嫌悪の念が劇しかった。  「島田一人でもう沢山なところへ、また新らしくそんな女が遣って来られちゃ困るな」  健三は腹の中でこう思った。夫の過去について、それほど知識のない細君の腹の中はなおの事であった。細君の同情は今その生家の方にばかり注がれていた。もとかなりの地位にあった彼女の父は、久しく浪人生活を続けた結果、漸々経済上の苦境に陥いって来たのである。  健三は時々宅へ話しに来る青年と対坐して、晴々しい彼らの様子と自分の内面生活とを対照し始めるようになった。すると彼の眼に映ずる青年は、みんな前ばかり見詰めて、愉快に先へ先へと歩いて行くように見えた。  或日彼はその青年の一人に向ってこういった。  「君らは幸福だ。卒業したら何になろうとか、何をしようとか、そんな事ばかり考えているんだから」  青年は苦笑した。そうして答えた。  「それは貴方がた時代の事でしょう。今の青年はそれほど呑気でもありません。何になろうとか、何をしようとか思わない事は無論ないでしょうけれども、世の中が、そう自分の思い通りにならない事もまた能く承知していますから」  なるほど彼の卒業した時代に比べると、世間は十倍も世知辛くなっていた。しかしそれは衣食住に関する物質的の問題に過ぎなかった。従って青年の答には彼の思わくと多少喰い違った点があった。  「いや君らは僕のように過去に煩らわされないから仕合せだというのさ」  青年は解しがたいという顔をした。  「あなただって些とも過去に煩らわされているようには見えませんよ。やっぱり己の世界はこれからだという所があるようですね」  今度は健三の方が苦笑する番になった。彼はその青年に仏蘭西のある学者が唱え出した記憶に関する新説を話した。  人が溺れかかったり、または絶壁から落ようとする間際に、よく自分の過去全体を一瞬間の記憶として、その頭に描き出す事があるという事実に、この哲学者は一種の解釈を下したのである。  「人間は平生彼らの未来ばかり望んで生きているのに、その未来が咄嗟に起ったある危険のために突然塞がれて、もう己は駄目だと事が極ると、急に眼を転じて過去を振り向くから、そこで凡ての過去の経験が一度に意識に上るのだというんだね。その説によると」  青年は健三の紹介を面白そうに聴いた。けれども事状を一向知らない彼は、それを健三の身の上に引き直して見る事が出来なかった。健三も一刹那にわが全部の過去を思い出すような危険な境遇に置かれたものとして今の自分を考えるほどの馬鹿でもなかった。 四十六  健三の心を不愉快な過去に捲き込む端緒になった島田は、それから五、六日ほどして、ついにまた彼の座敷にあらわれた。  その時健三の眼に映じたこの老人は正しく過去の幽霊であった。また現在の人間でもあった。それから薄暗い未来の影にも相違なかった。  「どこまでこの影が己の身体に付いて回るだろう」  健三の胸は好奇心の刺戟に促されるよりもむしろ不安の漣※[#「さんずい」に「猗」、127-10]に揺れた。  「この間比田の所をちょっと訪ねて見ました」  島田の言葉遣はこの前と同じように鄭重であった。しかし彼が何で比田の家へ足を運んだのか、その点になると、彼は全く知らん顔をして澄ましていた。彼の口ぶりはまるで無沙汰見舞かたがたそっちへ用のあったついでに立ち寄った人の如くであった。  「あの辺も昔と違って大分変りましたね」  健三は自分の前に坐っている人の真面目さの程度を疑った。果してこの男が彼の復籍を比田まで頼み込んだのだろうか、また比田が自分たちと相談の結果通り、断然それを拒絶したのだろうか、健三はその明白な事実さえ疑わずにはいられなかった。  「もとはそら彼処に瀑があって、みんな夏になると能く出掛けたものですがね」  島田は相手に頓着なくただ世間話を進めて行った。健三の方では無論自分から進んで不愉快な問題に触れる必要を認めないので、ただ老人の迹に跟いて引っ張られて行くだけであった。すると何時の間にか島田の言葉遣が崩れて来た。しまいに彼は健三の姉を呼び捨てにし始めた。  「御夏も年を取ったね。尤ももう大分久しく会わないには違ないが。昔はあれでなかなか勝気な女で、能く私に喰って掛ったり何かしたものさ。その代り元々兄弟同様の間柄だから、いくら喧嘩をしたって、仲の直るのもまた早いには早いが。何しろ困ると助けてくれって能く泣き付いて来るんで、私ゃ可哀想だからその度びにいくらかずつ都合して遣ったよ」  島田のいう事は、姉が蔭で聴いていたらさぞ怒るだろうと思うように横柄であった。それから手前勝手な立場からばかり見た歪んだ事実を他に押し付けようとする邪気に充ちていた。  健三は次第に言葉少なになった。しまいには黙ったなり凝と島田の顔を見詰た。  島田は妙に鼻の下の長い男であった。その上往来などで物を見るときは必ず口を開けていた。だからちょっと馬鹿のようであった。けれども善良な馬鹿としては決して誰の眼にも映ずる男ではなかった。落ち込んだ彼の眼はその底で常に反対の何物かを語っていた。眉はむしろ険しかった。狭くて高い彼の額の上にある髪は、若い時分から左右に分けられた例がなかった。法印か何ぞのように常に後へ撫で付けられていた。  彼はふと健三の眼を見た。そうして相手の腹を読んだ。一旦横風の昔に返った彼の言葉遣がまた何時の間にか現在の鄭寧さに立ち戻って来た。健三に対して過去の己れに返ろう返ろうとする試みを遂に断念してしまった。  彼は室の内をきょろきょろ見廻し始めた。殺風景を極めたその室の中には生憎額も掛物も掛っていなかった。  「李鴻章の書は好きですか」  彼は突然こんな問を発した。健三は好きとも嫌ともいい兼た。  「好きなら上げても好ござんす。あれでも価値にしたら今じゃよっぽどするでしょう」  昔し島田は藤田東湖の偽筆に時代を着けるのだといって、白髪蒼顔万死余云々と書いた半切の唐紙を、台所の竈の上に釣るしていた事があった。彼の健三にくれるという李鴻章も、どこの誰が書いたものか頗る怪しかった。島田から物を貰う気の絶対になかった健三は取り合わずにいた。島田は漸く帰った。 四十七  「何しに来たんでしょう、あの人は」  目的なしにただ来るはずがないという感じが細君には強くあった。健三も丁度同じ感じに多少支配されていた。  「解らないね、どうも。一体魚と獣ほど違うんだから」  「何が」  「ああいう人と己などとはさ」  細君は突然自分の家族と夫との関係を思い出した。両者の間には自然の造った溝があって、御互を離隔していた。片意地な夫は決してそれを飛び超えてくれなかった。溝を拵えたものの方で、それを埋めるのが当然じゃないかといった風の気分で何時までも押し通していた。里ではまた反対に、夫が自分の勝手でこの溝を掘り始めたのだから、彼の方で其所を平にしたら好かろうという考えを有っていた。細君の同情は無論自分の家族の方にあった。彼女はわが夫を世の中と調和する事の出来ない偏窟な学者だと解釈していた。同時に夫が里と調和しなくなった源因の中に、自分が主な要素として這入っている事も認めていた。  細君は黙って話を切り上げようとした。しかし島田の方にばかり気を取られていた健三にはその意味が通じなかった。  「御前はそう思わないかね」  「そりゃあの人と貴夫となら魚と獣位違うでしょう」  「無論外の人と己と比較していやしない」  話はまた島田の方へ戻って来た。細君は笑いながら訊いた。  「李鴻章の掛物をどうとかいってたのね」  「己に遣ろうかっていうんだ」  「御止しなさいよ。そんな物を貰ってまた後からどんな無心を持ち懸けられるかも知れないわ。遣るっていうのは、大方口の先だけなんでしょう。本当は買ってくれっていう気なんですよ、きっと」  夫婦には李鴻章の掛物よりもまだ外に買いたいものが沢山あった。段々大きくなって来る女の子に、相当の着物を着せて表へ出す事の出来ないのも、細君からいえば、夫の気の付かない心配に違なかった。二円五十銭の月賦で、この間拵えた雨合羽の代を、月々洋服屋に払っている夫も、あまり長閑な心持になれようはずがなかった。  「復籍の事は何にもいい出さなかったようですね」  「うん何にもいわない。まるで狐に抓まれたようなものだ」  始めからこっちの気を引くためにわざとそんな突飛な要求を持ち出したものか、または真面目な懸合として、それを比田へ持ち込んだ後、比田からきっぱり断られたので、始めて駄目だと覚ったものか、健三にはまるで見当が付かなかった。  「どっちでしょう」  「到底解らないよ、ああいう人の考えは」  島田は実際どっちでも遣りかねない男であった。  彼は三日ほどしてまた健三の玄関を開けた。その時健三は書斎に灯火を点けて机の前に坐っていた。丁度彼の頭に思想上のある問題が一筋の端緒を見せかけた所であった。彼は一図にそれを手近まで手繰り寄せようとして骨を折った。彼の思索は突然截ち切られた。彼は苦い顔をして室の入口に手を突いた下女の方を顧みた。  「何もそう度々来て、他の邪魔をしなくっても好さそうなものだ」  彼は腹の中でこう呟やいた。断然面会を謝絶する勇気を有たない彼は、下女を見たなり少時黙っていた。  「御通し申しますか」  「うん」  彼は仕方なしに答えた。それから「御奥さんは」と訊ねた。  「少し御気分が悪いと仰しゃって先刻から伏せっていらっしゃいます」  細君の寐るときは歇私的里の起った時に限るように健三には思えてならなかった。彼は漸く立ち上った。 四十八  電気燈のまだ戸ごとに点されない頃だったので、客間には例もの通り暗い洋燈が点いていた。  その洋燈は細長い竹の台の上に油壺を篏め込むように拵えたもので、鼓の胴の恰形に似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。  健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心を出したり引っ込ましたりしながら灯火の具合を眺めていた。彼は改まった挨拶もせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。  なるほど火屋が薄黒く燻ぶっていた。丸心の切方が平に行かないところを、むやみに灯を高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。  「換えさせましょう」  家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は下女を呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。しかし島田は生返事をするぎりで、容易に煤で曇った火屋から眼を離さなかった。  「どういう加減だろう」  彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明に擦った丸い蓋の隙間を覗き込んだ。  健三の記憶にある彼は、こんな事を能く気にするという点において、頗る几帳面な男に相違なかった。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側の塵を気にした。彼は尻をからげて、拭掃除をした。跣足で庭へ出て要らざる所まで掃いたり水を打ったりした。  物が壊れると彼はきっと自分で修復した。あるいは修復そうとした。それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決して厭わなかった。そういう事が彼の性にあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。  「なにそんなものは宅で出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」  損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。  「宅の人はあんまり正直過ぎるんで」  御藤さんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、嘘と承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し慥な根底があるらしく思えた。  「必竟大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」  健三はただ金銭上の慾を満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうして凹んだ眼を今擦り硝子の蓋の傍へ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。  「彼はこうして老いた」  島田の一生を煎じ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が嫌であった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。  その時島田は洋燈の螺旋を急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火をなおの事暗くした。  「どうもどこか調子が狂ってますね」  健三は手を敲いて下女に新しい洋燈を持って来さした。 四十九  その晩の島田はこの前来た時と態度の上において何の異なる所もなかった。応対にはどこまでも健三を独立した人と認めるような言葉ばかり使った。  しかし彼はもう先達ての掛物についてはまるで忘れているかの如くに見えた。李鴻章の李の字も口にしなかった。復籍の事はなお更であった。噫にさえ出す様子を見せなかった。  彼はなるべくただの話をしようとした。しかし二人に共通した興味のある問題は、どこをどう探しても落ちているはずがなかった。彼のいう事の大部分は、健三に取って全くの無意味から余り遠く隔っているとも思えなかった。  健三は退屈した。しかしその退屈のうちには一種の注意が徹っていた。彼はこの老人が或日或物を持って、今より判明りした姿で、きっと自分の前に現れてくるに違ないという予覚に支配された。その或物がまた必ず自分に不愉快なもしくは不利益な形を具えているに違ないという推測にも支配された。  彼は退屈のうちに細いながらかなり鋭どい緊張を感じた。そのせいか、島田の自分を見る眼が、さっき擦硝子の蓋を通して油煙に燻ぶった洋燈の灯を眺めていた時とは全く変っていた。  「隙があったら飛び込もう」  落ち込んだ彼の眼は鈍いくせに明らかにこの意味を物語っていた。自然健三はそれに抵抗して身構えなければならなくなった。しかし時によると、その身構えをさらりと投げ出して、飢えたような相手の眼に、落付を与えて遣りたくなる場合もあった。  その時突然奥の間で細君の唸るような声がした。健三の神経はこの声に対して普通の人以上の敏感を有っていた。彼はすぐ耳を峙だてた。  「誰か病気ですか」と島田が訊いた。  「ええ妻が少し」  「そうですか、それはいけませんね。どこが悪いんです」  島田はまだ細君の顔を見た事がなかった。何時どこから嫁に来た女かさえ知らないらしかった。従って彼の言葉にはただ挨拶があるだけであった。健三もこの人から自分の妻に対する同情を求めようとは思っていなかった。  「近頃は時候が悪いから、能く気を付けないといけませんね」  子供は疾うに寐付いた後なので奥は寂としていた。下女は一番懸け離れた台所の傍の三畳にいるらしかった。こんな時に細君をたった一人で置くのが健三には何より苦しかった。彼は手を叩いて下女を呼んだ。  「ちょっと奥へ行って奥さんの傍に坐っててくれ」  「へええ」  下女は何のためだか解らないといった様子をして間の襖を締めた。健三はまた島田の方を向き直った。けれども彼の注意はむしろ老人を離れていた。腹の中で早く帰ってくれれば好いと思うので、その腹が言葉にも態度にもありありと現れた。  それでも島田は容易に立たなかった。話の接穂がなくなって、手持無沙汰で仕方なくなった時、始めて座蒲団から滑り落ちた。  「どうも御邪魔をしました。御忙がしいところを。いずれまたその内」  細君の病気については何事もいわなかった彼は、沓脱へ下りてからまた健三の方を振り向いた。  「夜分なら大抵御暇ですか」  健三は生返事をしたなり立っていた。  「実は少し御話ししたい事があるんですが」  健三は何の御用ですかとも聞き返さなかった。老人は健三の手に持った暗い灯影から、鈍い眼を光らしてまた彼を見上げた。その眼にはやっぱりどこかに隙があったら彼の懐に潜り込もうという人の悪い厭な色か動いていた。  「じゃ御免」  最後に格子を開けて外へ出た島田はこういってとうとう暗がりに消えた。健三の門には軒燈さえ点いていなかった。 五十  健三はすぐ奥へ来て細君の枕元に立った。  「どうかしたのか」  細君は眼を開けて天井を見た。健三は蒲団の横からまたその眼を見下した。  襖の影に置かれた洋燈の灯は客間のよりも暗かった。細君の眸がどこに向って注がれているのか能く分らない位暗かった。  「どうかしたのか」  健三は同じ問をまた繰り返さなければならなかった。それでも細君は答えなかった。  彼は結婚以来こういう現象に何度となく遭遇した。しかし彼の神経はそれに慣らされるには余りに鋭敏過ぎた。遭遇するたびに、同程度の不安を感ずるのが常であった。彼はすぐ枕元に腰を卸した。  「もうあっちへ行っても好い。此所には己がいるから」  ぼんやり浦団の裾に坐って、退屈そうに健三の様子を眺めていた下女は無言のまま立ち上った。そうして「御休みなさい」と敷居の所へ手を突いて御辞儀をしたなり襖を立て切った。後には赤い筋を引いた光るものが畳の上に残った。彼は眉を顰めながら下女の振り落して行った針を取り上げた。何時もなら婢を呼び返して小言をいって渡すところを、今の彼は黙って手に持ったまま、しばらく考えていた。彼はしまいにその針をぷつりと襖に立てた。そうしてまた細君の方へ向き直った。  細君の眼はもう天井を離れていた。しかし判然どこを見ているとも思えなかった。黒い大きな瞳子には生きた光があった。けれども生きた働きが欠けていた。彼女は魂と直接に繋がっていないような眼を一杯に開けて、漫然と瞳孔の向いた見当を眺めていた。  「おい」  健三は細君の肩を揺った。細君は返事をせずにただ首だけをそろりと動かして心持健三の方に顔を向けた。けれども其所に夫の存在を認める何らの輝きもなかった。  「おい、己だよ。分るかい」  こういう場合に彼の何時でも用いる陳腐で簡略でしかもぞんざい[#「ぞんさい」に傍点]なこの言葉のうちには、他に知れないで自分にばかり解っている憐憫と苦痛と悲哀があった。それから跪まずいて天に祷る時の誠と願もあった。  「どうぞ口を利いてくれ。後生だから己の顔を見てくれ」  彼は心のうちでこういって細君に頼むのである。しかしその痛切な頼みを決して口へ出していおうとはしなかった。感傷的な気分に支配されやすいくせに、彼は決して外表的になれない男であった。  細君の眼は突然平生の我に帰った。そうして夢から覚めた人のように健三を見た。  「貴夫?」  彼女の声は細くかつ長かった。彼女は微笑しかけた。しかしまだ緊張している健三の顔を認めた時、彼女はその笑を止めた。  「あの人はもう帰ったの」  「うん」  二人はしばらく黙っていた。細君はまた頸を曲げて、傍に寐ている子供の方を見た。  「能く寐ているのね」  子供は一つ床の中に小さな枕を並べてすやすや寐ていた。  健三は細君の額の上に自分の右の手を載せた。  「水で頭でも冷して遣ろうか」  「いいえ、もう好ござんす」  「大丈夫かい」  「ええ」  「本当に大丈夫かい」  「ええ。貴夫ももう御休みなさい」  「己はまだ寐る訳に行かないよ」  健三はもう一遍書斎へ入って静かな夜を一人更かさなければならなかった。 五十一  彼の眼が冴えている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。  彼は明日の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐れな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目に筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心を傷けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。  「明日の講義もまた纏まらないのかしら」  こう思うと彼は自分の努力が急に厭になった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動されて起る、「己の頭は悪くない」という自信も己惚も忽ち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを攪き乱す自分の周囲についての不平も常時よりは高まって来た。  彼はしまいに投げるように洋筆を放り出した。  「もうやめだ。どうでも構わない」  時計はもう一時過ぎていた。洋燈を消して暗闇を縁側伝いに廊下へ出ると、突当りの奥の間の障子二枚だけが灯に映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。  子供は犬ころのように塊まって寐ていた。細君も静かに眼を閉じて仰向に眠っていた。  音のしないように気を付けてその傍に坐った彼は、心持頸を延ばして、細君の顔を上から覗き込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔の上に翳した。彼女は口を閉じていた。彼の掌には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息が微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。  彼は漸く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝いて起った。けれども彼は直その衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺り起そうとしたが、それもやめた。  「大丈夫だろう」  彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。  細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛の鎖している奥を見るために、彼は正体なく寐入った細君を、わざわざ揺り起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれれば好いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な真似をしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。  やがて彼は寐衣を着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。  翌朝彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。  「貴夫もう時間ですよ」  まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計を眺めていた。下女が俎板の上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。  「婢はもう起きてるのか」  「ええ。先刻起しに行ったんです」  細君は下女を起して置いてまた床の中に這入ったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。  昨夜の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。 五十二  二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察も払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を有っている事を冥々の裡に自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能く呑み込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。  健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅へ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から迎が来るような心持になった。彼は広い室の片隅にいて真ん向うの突当りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて兜の鉢金を伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆で塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。  これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために崇られる恐れを抱かなかった。彼はこの老人を因業で強慾な男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊ってもいた。ただ要らぬ会談に惜い時間を潰されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。  「何をいって来る気かしら、この次は」  襲われる事を予期して、暗にそれを苦にするような健三の口振が、細君の言葉を促がした。  「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」  健三は心の裡で細君のいう事を肯がった。しかし口ではかえって反対な返事をした。  「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」  「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭いにゃ違いないでしょう、いくら貴夫だって」  「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」  多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、例よりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。  島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。隙があったら飛び込もうとして、この間から覘を付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着なく、ついに健三に肉薄し始めた。  「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない私なんだから、是非一つ」  老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において傷め付けるほど強くも現われていなかった。  健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計を司どっていない彼の財嚢は無論軽かった。空のまま硯箱の傍に幾日も横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣を攫み出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。  「どうせ貴方の請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆上げたんですよ」  健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金を遣った事を一口もいわなかった。 五十三  翌日例刻に帰った健三は、机の前に坐って、大事らしく何時もの所に置かれた昨日の紙入に眼を付けた。革で拵らえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。彼はそれを倫敦の最も賑やかな町で買ったのである。  外国から持って帰った記念が、何の興味も惹かなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。細君が何故丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥を空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。  その内何かで金の要る日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。  「おい少し金を入れてくれ」  細君は右の手で物指を持ったまま夫の顔を下から見上げた。  「這入ってるはずですよ」  彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人に金を奪られたことも全く夫婦間の話題に上っていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。  「あれはもう遣っちゃったんだ。紙入は疾うから空っぽうになっているんだよ」  細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。  「ちょっと拝見」  健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。細君は中を検ためた。中からは四、五枚の紙幣が出た。  「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」  彼女は手垢の付いた皺だらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如く微かな笑に伴なった。  「何時入れたのか」  「あの人の帰った後でです」  健三は細君の心遣を嬉しく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。  「己が内所で島田に金を奪られたのを気の毒とでも思ったものかしら」  彼はこう考えた。しかし口へ出してその理由を彼女に訊き糺して見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んで己れを説明する面倒を敢てしなかった。彼女の填補した金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。  その内細君の御腹が段々大きくなって来た。起居に重苦しそうな呼息をし始めた。気分も能く変化した。  「妾今度はことによると助からないかも知れませんよ」  彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。  「何故だい」  「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」  質問も説明もこれ以上には上る事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。鈴の音が鼓膜の及ばない幽かな世界に潜り込むように。  彼女は悪阻で死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養灌腸をするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。  「女は詰らないものね」  「それが女の義務なんだから仕方がない」  健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目に過ぎなかった。彼は腹の中で苦笑した。 五十四  健三の気分にも上り下りがあった。出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。時によると、不快そうに寐ている彼女の体たらくが癪に障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと樫貪に要らざる用を命じて見たりした。  細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つとも蹴るとも勝手にしろという態度をとった。平生からあまり口数を利かない彼女は益沈黙を守って、それが夫の気を焦立たせるのを目の前に見ながら澄ましていた。  「つまりしぶといのだ」  健三の胸にはこんな言葉が細君の凡ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼は外の事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶとい[#「しぶとい」に傍点]という観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを真闇にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染みた癇癪持として評価されなければならなかった。  「貴夫がそう邪慳になさると、また歇私的里を起しますよ」  細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三は非道くその光を怖れた。同時に劇しくそれを悪んだ。我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部では強いて勝手にしろという風を装った。その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君は能く承知していた。  「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」  彼女は健三に聞えよがしに呟やいた。健三は死んじまえといいたくなった。  或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃があった。彼女が黒檀の鞘に折り込まれたその刃を真直に立てずに、ただ黒い柄だけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を※[#「てへん」に「劣」、150-11]ぎ取った。  「馬鹿な真似をするな」  こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子に篏め込んだ硝子に中ってその一部分を摧いて向う側の縁に落ちた。細君は茫然として夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。  彼女は本当に情に逼って刃物三昧をする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものを弄そぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を五条にも六条にも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死を衒う人のようであった。健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。  その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、全その解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前に己れを懺悔する人の誠を以て、彼は細君の膝下に跪ずいた。彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。  「今だってその源因が判然分りさえすれば」  彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼は昨夕の事について、ついに一言も細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。 五十五  こういう不愉快な場面の後には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入って来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。  けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して憚らなかった。  「じゃ当分子供を伴れて宅へ行っていましょう」  細君はこういって一旦里へ帰った事もあった。健三は彼らの食科を毎月送って遣るという条件の下に、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的広い屋敷に下女とたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも淋しいとは思わなかった。  「ああ晴々して好い心持だ」  彼は八畳の座敷の真中に小さな餉台を据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。丁度極暑の頃だったので、身体の強くない彼は、よく仰向になってばたりと畳の上に倒れた。何時替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の脊中を蒸すような黄色い古びが心まで透っていた。  彼のノートもまた暑苦しいほど細かな字で書き下された。蠅の頭というより外に形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計拵えるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。そして苦痛であった。また義務であった。  巣鴨の植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた。それを茶の間の縁に置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜こんだ。けれども彼女の盆栽を軽蔑した。それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物だったのである。  彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。彼女の里へ顔を出そうなどという気はまるで起らなかった。彼女の病気に対する懸念も悉く消えてしまった。  「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とかいって来るだろう」  彼の心は二人一所にいる時よりも遥に平静であった。  細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。その代り向うでも来なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継布のあたった青い蚊帳の中に入って寐た。  一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥していた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸の影から急に姿を現わした。  「貴夫故のようになって下さらなくって」  健三は細君の穿いている下駄の表が変にささくれて、その後の方が如何にも見苦しく擦り減らされているのに気が付いた。彼は憐れになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。  「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」  細君が帰ってから幾日目か経った後、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動であった。彼は一も二もなく承知した。細君はまた子供を連れて駒込へ帰って来た。しかし彼女の態度は里へ行く前と毫も違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母に騙されたような気がした。  こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。 五十六  同時に島田はちょいちょい健三の所へ顔を出す事を忘れなかった。利益の方面で一度手掛りを得た以上、放したらそれっきりだという懸念がなおさら彼を蒼蠅くした。健三は時々書斎に入って、例の紙入を老人の前に持ち出さなければならなかった。  「好い紙入ですね。へええ。外国のものはやっぱりどこか違いますね」  島田は大きな二つ折を手に取って、さも感服したらしく、裏表を打返して眺めたりした。  「失礼ながらこれでどの位します。あちらでは」  「たしか十志だったと思います。日本の金にすると、まあ五円位なものでしょう」  「五円?――五円は随分好い価ですね。浅草の黒船町に古くから私の知ってる袋物屋があるが、彼所ならもっとずっと安く拵えてくれますよ。こんだ要る時にゃ、私が頼んで上げましょう」  健三の紙入は何時も充実していなかった。全く空虚の時もあった。そういう場合には、仕方がないので何時まで経っても立ち上がらなかった。島田も何かに事寄せて尻を長くした。  「小遣を遣らないうちは帰らない。厭な奴だ」  健三は腹の内で憤った。しかしいくら迷惑を感じても細君の方から特別に金を取って老人に渡す事はしなかった。細君もその位な事ならといった風をして別に苦情を鳴らさなかった。  そうこうしているうちに、島田の態度が段々積極的になって来た。二十、三十と纏った金を、平気に向うから請求し始めた。  「どうか一つ。私もこの年になって倚かる子はなし、依怙にするのは貴方一人なんだから」  彼は自分の言葉遣いの横着さ加減にさえ気が付いていなかった。それでも健三がむっとして黙っていると、凹んだ鈍い眼を狡猾らしく動かして、じろじろ彼の様子を眺める事を忘れなかった。  「これだけの生活をしていて、十や二十の金の出来ないはずはない」  彼はこんな事まで口へ出していった。  彼が帰ると、健三は厭な顔をして細君に向った。  「ありゃ成し崩しに己を侵蝕する気なんだね。始め一度に攻め落そうとして断られたもんだから、今度は遠巻にしてじりじり寄って来ようってんだ。実に厭な奴だ」  健三は腹が立ちさえすれば、よく実に[#「実に」に傍点]とか一番[#「一番」に傍点]とか大[#「大」に傍点]とかいう最大級を使って欝憤の一端を洩らしたがる男であった。こんな点になると細君の方はしぶとい代りに大分落付いていた。  「貴夫が引っ掛るから悪いのよ。だから始めから用心して寄せ付けないようになされば好いのに」  健三はその位の事なら最初から心得ているといわぬばかりの様子を、むっとした頬と唇とに見せた。  「絶交しようと思えば何時だって出来るさ」  「しかし今まで付合っただけが損になるじゃありませんか」  「そりゃ何の関係もない御前から見ればそうさ。しかし己は御前とは違うんだ」  細君には健三の意味が能く通じなかった。  「どうせ貴夫の眼から見たら、妾なんぞは馬鹿でしょうよ」  健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。  二人の間に感情の行違でもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ凝と坐っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時までも構う気色を見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。 五十七  健三の心は紙屑を丸めたようにくしゃくしゃした。時によると肝癪の電流を何かの機会に応じて外へ洩らさなければ苦しくって居堪まれなくなった。彼は子供が母に強請って買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛ばして見たりした。赤ちゃけた素焼の鉢が彼の思い通りにがらがらと破るのさえ彼には多少の満足になった。けれども残酷たらしく摧かれたその花と茎の憐れな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢ない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかしその子供の前にわが非を自白する事は敢てし得なかった。  「己の責任じゃない。必竟こんな気違じみた真似を己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」  彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。  平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。彼は一人いて一人自分の熱で燻ぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女を叱った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度を恥た。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ない己れを怒った。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と心の裡で読み上げた。  「己が悪いのじゃない。己の悪くない事は、仮令あの男に解っていなくっても、己には能く解っている」  無信心な彼はどうしても、「神には能く解っている」という事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳は何時でも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。  彼は時々金の事を考えた。何故物質的の富を目標として今日まで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。  「己だって、専門にその方ばかり遣りゃ」  彼の心にはこんな己惚もあった。  彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。極めて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪しているような島田をさえ憐れに眺めた。  「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」  こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。  彼は元来儲ける事の下手な男であった。儲けられてもその方に使う時間を惜がる男であった。卒業したてに、悉く他の口を断って、ただ一つの学校から四十円貰って、それで満足していた。彼はその四十円の半分を阿爺に取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚ばかり食っていた。しかし彼はその間に遂に何事も仕出かさなかった。  その時分の彼と今の彼とは色々な点において大分変っていた。けれども経済に余裕のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。  彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。しかし今から金持になるのは迂闊な彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすればまた色々な塵労が邪魔をした。その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。どうして好いか解らない彼はしきりに焦れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入って来るにはまだ大分間があった。 五十八  健三は外国から帰って来た時、既に金の必要を感じた。久しぶりにわが生れ故郷の東京に新らしい世帯を持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。  彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にある小さな家を空けて彼らの住居に充てた。細君の祖父母が亡くなるまでいたその家は狭いながらさほど見苦しくもなかった。張交の襖には南湖の画だの鵬斎の書だの、すべて亡くなった人の趣味を偲ばせる記念と見るべきものさえ故の通り貼り付けてあった。  父は官吏であった。大して派出な暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせるほど窮してもいなかった。その上健三の細君へは月々いくらかの手当が公けから下りた。健三は安心してわが家族を後に遺した。  彼が外国にいるうち内閣が変った。その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出されて劇しく活動しなければならない或位置に就いた。不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。父は崩壊の渦の中に捲き込まれなければならなかった。  遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、殆んど心を悩ませなかった。  迂闊な彼は帰ってからも其所に注意を払わなかった。また気も付かなかった。彼は細君が月々貰う二十円だけでも子供二人に下女を使って充分遣って行ける位に考えていた。  「何しろ家賃が出ないんだから」  こんな呑気な想像が、実際を見た彼の眼を驚愕で丸くさせた。細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。仕方がないので、しまいには健三の置いて行った地味な男物を縫い直して身に纏った。同時に蒲団からは綿が出た。夜具は裂けた。それでも傍に見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。彼は自分の位地を失った後、相場に手を出して、多くもない貯蓄を悉く亡くしてしまったのである。  首の回らないほど高い襟を掛けて外国から帰って来た健三は、この惨澹な境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーのために手非道く打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえ有たなかった。  その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱の蓋さえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしい家を探し始めた。同時に金の工面もしなければならなかった。  彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、一時賜金を受取る事が出来た。一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれで漸と日常生活に必要な家具家財を調えた。  彼は僅ばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物の如何にかかわらずむやみに価切り倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、烟草盆、火鉢、丼鉢、眼に入るものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後を追懸なければならなかった。たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのか他の物を買うのか、その区別を弁えていないように猛烈な男であった。 五十九  健三はまた日常使用する家具の外に、本棚だの机だのを新調しなければならなかった。彼は洋風の指物を渡世にする男の店先に立って、しきりに算盤を弾く主人と談判をした。  彼の誂えた本棚には硝子戸も後部も着いていなかった。塵埃の積る位は懐中に余裕のない彼の意とする所ではなかった。木がよく枯れていないので、重い洋書を載せると、棚板が気の引けるほど撓った。  こんな粗末な道具ばかりを揃えるのにさえ彼は少からぬ時間を費やした。わざわざ辞職して貰った金は何時の間にかもうなくなっていた。迂闊な彼は不思議そうな眼を開いて、索然たる彼の新居を見廻した。そうして外国にいる時、衣服を作る必要に逼られて、同宿の男から借りた金はどうして返して好いか分らなくなってしまったように思い出した。  そこへその男からもし都合が付くなら算段してもらいたいという催促状が届いた。健三は新らしく拵えた高い机の前に坐って、少時彼の手紙を眺めていた。  僅の間とはいいながら、遠い国で一所に暮したその人の記憶は、健三に取って淡い新しさを帯びていた。その人は彼と同じ学校の出身であった。卒業の年もそう違わなかった。けれども立派な御役人として、ある重要な事項取調のためという名義の下に、官命で遣って来たその人の財力と健三の給費との間には、殆んど比較にならないほどの懸隔があった。  彼は寝室の外に応接間も借りていた。夜になると繻子で作った刺繍のある綺麗な寝衣を着て、暖かそうに暖炉の前で書物などを読んでいた。北向の狭苦しい部屋で押し込められたように凝と竦んでいる健三は、ひそかに彼の境遇を羨んだ。  その健三には昼食を節約した憐れな経験さえあった。ある時の彼は表へ出た帰掛に途中で買ったサンドウィッチを食いながら、広い公園の中を目的もなく歩いた。斜めに吹きかける雨を片々の手に持った傘で防けつつ、片々の手で薄く切った肉と麺麭を何度にも頬張るのが非常に苦しかった。彼は幾たびか其所にあるベンチへ腰を卸そうとしては躊躇した。ベンチは雨のために悉く濡れていたのである。  ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午になると開いた。そうして湯も水も呑まずに、硬くて脆いものをぼりぼり噛み摧いては、生唾の力で無理に嚥み下した。  ある時の彼はまた馭者や労働者と一所に如何わしい一膳飯屋で形ばかりの食事を済ました。其所の腰掛の後部は高い屏風のように切立っているので、普通の食堂の如く、広い室を一目に見渡す事は出来なかったが、自分と一列に並んでいるものの顔だけは自由に眺められた。それは皆な何時湯に入ったか分らない顔であった。  こんな生活をしている健三が、この同宿の男の眼にはさも気の毒に映ったと見えて、彼は能く健三を午餐に誘い出した。銭湯へも案内した。茶の時刻には向うから呼びに来た。健三が彼から金を借りたのはこうして彼と大分懇意になった時の事であった。  その時彼は反故でも棄てるように無雑作な態度を見せて、五磅のバンクノートを二枚健三の手に渡した。何時返してくれとは無論いわなかった。健三の方でも日本へ帰ったらどうにかなるだろう位に考えた。  日本へ帰った健三は能くこのバンクノートの事を覚えていた。けれども催促状を受取るまでは、それほど急に返す必要が出て来ようとは思わなかった。行き詰った彼は仕方なしに、一人の旧い友達の所へ出掛けて行った。彼はその友達の大した金持でない事を承知していた。しかし自分よりも少しは融通の利く地位にある事も呑み込んでいた。友達は果して彼の請求を容れて、要るだけの金を彼の前に揃えてくれた。彼は早速それを外国で恩を受けた人の許へ返しに行った。新らしく借りた友達へは月に十円ずつの割で成し崩しに取ってもらう事に極めた。 六十  こんな具合にして漸と東京に落付いた健三は、物質的に見た自分の、如何にも貧弱なのに気が付いた。それでも金力を離れた他の方面において自分が優者であるという自覚が絶えず彼の心に往来する間は幸福であった。その自覚が遂に金の問題で色々に攪き乱されてくる時、彼は始めて反省した。平生何心なく身に着けて外へ出る黒木綿の紋付さえ、無能力の証拠のように思われ出した。  「この己をまた強請りに来る奴がいるんだから非道い」  彼は最も質の悪いその種の代表者として島田の事を考えた。  今の自分がどの方角から眺めても島田より好い社会的地位を占めているのは明白な事実であった。それが彼の虚栄心に少しの反響も与えないのもまた明白な事実であった。昔し自分を呼び捨てにした人から今となって鄭寧な挨拶を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。  彼は念のために姉の意見を訊ねて見た。  「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」  「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう他にばかり貢いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」  「御金がそんなに取れるように見えますか」  「だって宅なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」  姉は自分の宅の活計を標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田が月々貰うものを満足に持って帰った例のない事や、俸給の少ない割に交際費の要る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額に上る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。  「その賞与だって、そっくり私の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を彦さんの方へ遣って賄なってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」  養子と経済を別々にしながら一所の家に住んでいた姉夫婦は、自分たちの搗いた餅だの、自分たちの買った砂糖だのという特別な食物を有っていた。自分たちの所へ来た客に出す御馳走などもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三は殆んど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。  「健ちゃんなんざ、こんな真似をしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」  彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた。  「まあ好いやね。面倒臭くなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも蒼蠅いなら留守を御遣いよ。構う事はないから」  この注意は如何にも姉らしく健三の耳に響いた。  姉から要領を得られなかった彼はまた比田を捉まえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。  「何しろ故の通りあの地面と家作を有ってるんだから、そう困っていない事は慥でさあ。それに御藤さんの方へは御縫さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」  比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない上っ調子のものには相違なかった。 六十一  しまいに健三は細君に向った。  「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇っていうのは。姉に訊いても比田に訊いても、本当の所が能く分らないが」  細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、朱塗の船底枕の上に乱れた頭を載せていた。  「そんなに気になさるなら、御自分で直に調べて御覧になるが好いじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。御姉えさんだって、今あの人と交際っていらっしゃらないんだから、そんな確な事の知れているはずがないと思いますわ」  「己にはそんな暇なんかないよ」  「それじゃ放って御置きになればそれまででしょう」  細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。腹で思っている事でもそうむやみに口へ出していわない性質に出来上った彼女は、自分の生家と夫との面白くない間柄についてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏窟な男であった。  「放って置け?」  健三は反問した。細君は答えなかった。  「今までだって放って置いてるじゃないか」  細君はなお答えなかった。健三はぷいと立って書斎へ入った。  島田の事に限らず二人の間にはこういう光景が能く繰り返された。その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。――  「御縫さんが脊髄病なんだそうだ」  「脊髄病じゃ六ずかしいでしょう」  「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと柴野と御藤さんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね」  「可哀想ね今から脊髄病なんぞに罹っちゃ。まだ若いんでしょう」  「己より一つ上だって話したじゃないか」  「子供はあるの」  「何でも沢山あるような様子だ。幾人だか能く訊いて見ないが」  細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十に充たない夫人の心持を想像に描いた。間近に逼ったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。重そうな腹を眼の前に見ながら、それほど心配もしてくれない男の気分が、情なくもありまた羨ましくもあった。夫はまるで気が付かなかった。  「島田がそんな心配をするのも必竟は平生が悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田にいわせると、その柴野という男が酒食いで喧嘩早くって、それで何時まで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。やっぱり島田の方が愛想を尽かされているに違ないんだ」  「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」  「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」  「一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――」  細君は少し躊躇した。健三には意味が解らなかった。細君はいい直した。  「どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう」  御藤さんがまだ若い未亡人であった頃、何かの用で扱所へ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をして遣ったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。しかし恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった。  「慾も手伝ったに違ないね」  細君は何ともいわなかった。 六十二  不治の病気に悩まされているという御縫さんについての報知が健三の心を和げた。何年ぶりにも顔を合せた事のない彼とその人とは、度々会わなければならなかった昔でさえ、殆んど親しく口を利いた例がなかった。席に着くときも座を立つときも、大抵は黙礼を取り換わせるだけで済ましていた。もし交際という文字をこんな間柄にも使い得るならば、二人の交際は極めて淡くそうして軽いものであった。強烈な好い印象のない代りに、少しも不快の記憶に濁されていないその人の面影は、島田や御常のそれよりも、今の彼に取って遥かに尊かった。人類に対する慈愛の心を、硬くなりかけた彼から唆り得る点において。また漠然として散漫な人類を、比較的判明した一人の代表者に縮めてくれる点において。――彼は死のうとしているその人の姿を、同情の眼を開いて遠くに眺めた。  それと共に彼の胸には一種の利害心が働いた。何時起るかも知れない御縫さんの死は、狡猾な島田にまた彼を強請る口実を与えるに違なかった。明らかにそれを予想した彼は、出来る限りそれを避けたいと思った。しかし彼はこの場合どうして避けるかの策略を講ずる男ではなかった。  「衝突して破裂するまで行くより外に仕方がない」  彼はこう観念した。彼は手を拱いで島田の来るのを待ち受けた。その島田の来る前に突然彼の敵の御常が訪ねて来ようとは、彼も思い掛けなかった。  細君は何時もの通り書斎に坐っている彼の前に出て、「あの波多野って御婆さんがとうとう遣って来ましたよ」といった。彼は驚ろくよりもむしろ迷惑そうな顔をした。細君にはその態度が愚図々々している臆病もののように見えた。  「御会いになりますか」  それは、会うなら会う、断るなら断る、早くどっちかに極めたら好かろうという言葉の遣い方であった。  「会うから上げろ」  彼は島田の来た時と同じ挨拶をした。細君は重苦しそうに身を起して奥へ立った。  座敷へ出た時、彼は粗末な衣服を身に纏って、丸まっちく坐っている一人の婆さんを見た。彼の心で想像していた御常とは全く変っているその質朴な風采が、島田よりも遥かに強く彼を驚ろかした。  彼女の態度も島田に比べるとむしろ反対であった。彼女はまるで身分の懸隔でもある人の前へ出たような様子で、鄭寧に頭を下げた。言葉遣も慇懃を極めたものであった。  健三は小供の時分能く聞かされた彼女の生家の話を思い出した。田舎にあったその住居も庭園も、彼女の叙述によると、善を尽し美を尽した立派なものであった。床の下を水が縦横に流れているという特色が、彼女の何時でも繰り返す重要な点であった。南天の柱――そういう言葉もまだ健三の耳に残っていた。しかし小さい健三はその宏大な屋敷がどこの田舎にあるのかまるで知らなかった。それから一度も其所へ連れて行かれた覚がなかった。彼女自身も、健三の知っている限り、一度も自分の生れたその大きな家へ帰った事がなかった。彼女の性格を朧気ながら見抜くように、彼の批評眼がだんだん肥えて来た時、彼はそれもまた彼女の空想から出る例の法螺ではないかと考え出した。  健三は自分を出来るだけ富有に、上品に、そして善良に、見せたがったその女と、今彼の前に畏まって坐っている白髪頭の御婆さんとを比較して、時間の齎した対照に不思議そうな眼を注いだ。  御常は昔から肥り肉の女であった。今見る御常も依然として肥っていた。どっちかというと、昔よりも今の方がかえって肥っていはしまいかと疑れる位であった。それにもかかわらず、彼女は全く変化していた。どこから見ても田舎育ちの御婆さんであった。多少誇張していえば、籠に入れた麦焦しを背中へ脊負って近在から出て来る御婆さんであった。 六十三  「ああ変った」  顔を見合せた刹那に双方は同じ事を一度に感じ合った。けれどもわざわざ訪ねて来た御常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。ところが健三にはそれが殆んど欠けていた。従って不意に打たれたものは客よりもむしろ主人であった。それでも健三は大して驚ろいた様子を見せなかった。彼の性質が彼にそうしろと命令する外に、彼は御常の技巧から溢れ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女の遣る芝居を事新らしく観せられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。  彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には人世と切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿しているらしく見えた。  島田と別れてから二度目に嫁づいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を貰って、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。  養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どの位な程度の活計をしていたものか能く分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口を洩れなかった。  その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或身縁を頼りに、ずっと辺鄙な所へ引越した。其所で娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ毎年下がる扶助料だけで活計を立てて行った。……  御常の物語りは健三の予期に反してむしろ平静であった。誇張した身ぶりだの、仰山な言葉遣だの、当込の台詞だのは、それほど多く出て来なかった。それにもかかわらず彼は自分とこの御婆さんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。  「ああそうですか、それはどうも」  健三の挨拶は簡単であった。普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。  「昔の因果が今でもやっぱり崇っているんだ」  こう思った彼はさすがに好い心持がしなかった。どっちかというと泣きたがらない質に生れながら、時々は何故本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。  「己の眼は何時でも涙が湧いて出るように出来ているのに」  彼は丸まっちくなって座蒲団の上に坐っている御婆さんの姿を熟視した。そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく観じた。  彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。  「失礼ですが、車へでも乗って御帰り下さい」  彼女はそういう意味で訪問したのではないといって一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。気の毒な事に、その贈り物の中には、疎い同情が入っているだけで、露わな真心は籠っていなかった。彼女はそれを能く承知しているように見えた。そうして何時の間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、諦らめるより外に仕方がないという風にふるまった。彼は玄関に立って、御常の帰って行く後姿を見送った。  「もしあの憐な御婆さんが善人であったなら、私は泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水を取って遣る事も出来たろう」  黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。 六十四  「とうとう遣って来たのね、御婆さんも。今までは御爺さんだけだったのが、御爺さんと御婆さんと二人になったのね。これからは二人に崇られるんですよ、貴夫は」  細君の言葉は珍らしく乾燥いでいた。笑談とも付かず、冷評とも付かないその態度が、感想に沈んだ健三の気分を不快に刺戟した。彼は何とも答えなかった。  「またあの事をいったでしょう」  細君は同じ調子で健三に訊いた。  「あの事た何だい」  「貴夫が小さいうち寐小便をして、あの御婆さんを困らしたって事よ」  健三は苦笑さえしなかった。  けれども彼の腹の中には、御常が何故それをいわなかったかの疑問が既に横わっていた。彼女の名前を聞いた刹那の健三は、すぐその弁口に思い到った位、御常は能く喋舌る女であった。ことに自分を護る事に巧みな技倆を有っていた。他の口車に乗せられやすい、また見え透いた御世辞を嬉しがりがちな健三の実父は、何時でも彼女を賞める事を忘れなかった。  「感心な女だよ。だいち身上持が好いからな」  島田の家庭に風波の起った時、彼女はあるだけの言葉を父の前に並べ立てた。そうしてその言葉の上にまた悲しい涙と口惜しい涙とを多量に振り掛けた。父は全く感動した。すぐ彼女の味方になってしまった。  御世辞が上手だという点において健三の父は彼の姉をも大変可愛がっていた。無心に来られるたんびに、「そうそうは己だって困るよ」とか何とかいいながら、いつか入用だけの金子は手文庫から取出されていた。  「比田はあんな奴だが、御夏が可愛想だから」  姉の帰った後で、父は何時でも弁解らしい言葉を傍のものに聞こえるようにいった。  しかしこれほど父を自由にした姉の口先は、御常に比べると遥かに下手であった。真しやかという点において遠く及ばなかった。実際十六、七になった時の健三は、彼女と接触した自分以外のもので、果してその性格を見抜いたものが何人あるだろうかと、一時疑って見た位、彼女の口は旨かった。  彼女に会うときの健三が、心中迷惑を感じたのは大部分この口にあった。  「御前を育てたものはこの私だよ」  この一句を二時間でも三時間でも布衍して、幼少の時分恩になった記憶をまた新らしく復習させられるのかと思うと、彼は辟易した。  「島田は御前の敵だよ」  彼女は自分の頭の中に残っているこの古い主観を、活動写真のように誇張して、また彼の前に露け出すに極っていた。彼はそれにも辟易しない訳に行かなかった。  どっちを聴くにしても涙が交るに違なかった。彼は装飾的に使用されるその涙を見るに堪えないような心持がした。彼女は話す時に姉のような大きな声を出す女ではなかった。けれども自分の必要と思う場合には、その言葉に厭らしい強い力を入れた。円朝の人情噺に出て来る女が、長い火箸を灰の中に突き刺し突き刺し、他に騙された恨を述べて、相手を困らせるのとほぼ同じ態度でまた同じ口調であった。  彼の予期が外れた時、彼はそれを仕合せと考えるよりもむしろ不思議に思う位、御常の性格が牢として崩すべからざる判明した一種の型になって、彼の頭のどこかに入っていたのである。  細君は彼のために説明した。  「三十年近くにもなる古い事じゃありませんか。向うだって今となりゃ少しは遠慮があるでしょう。それに大抵の人はもう忘れてしまいまさあね。それから人間の性質だって長い間には少しずつ変って行きますからね」  遠慮、忘却、性質の変化、それらのものを前に並べて考えて見ても、健三には少しも合点が行かなかった。  「そんな淡泊した女じゃない」  彼は腹の中でこういわなければどうしても承知が出来なかった。 六十五  御常を知らない細君はかえって夫の執拗を笑った。  「それが貴方の癖だから仕方がない」  平生彼女の眼に映る健三の一部分はたしかにこうなのであった。ことに彼と自分の生家との関係について、夫のこの悪い癖が著るしく出ているように彼女は思っていた。  「己が執拗なのじゃない、あの女が執拗なのだ。あの女と交際った事のない御前には、己の批評の正しさ加減が解らないからそんなあべこべ[#「あべこべ」に傍点]をいうのだ」  「だって現に貴夫の考えていた女とはまるで違った人になって貴夫の前へ出て来た以上は、貴夫の方で昔の考えを取り消すのが当然じゃありませんか」  「本当に違った人になったのなら何時でも取り消すが、そうじゃないんだ。違ったのは上部だけで腹の中は故の通りなんだ」  「それがどうして分るの。新らしい材料も何にもないのに」  「御前に分らないでも己にはちゃんと分ってるよ」  「随分独断的ね、貴夫も」  「批評が中ってさえいれば独断的で一向差支ないものだ」  「しかしもし中っていなければ迷惑する人が大分出て来るでしょう。あの御婆さんは私と関係のない人だから、どうでも構いませんけれども」  健三には細君の言葉が何を意味しているのか能く解った。しかし細君はそれ以上何もいわなかった。腹の中で自分の父母兄弟を弁護している彼女は、表向夫と遣り合って行ける所まで行く気はなかった。彼女は理智に富んだ性質ではなかった。  「面倒臭い」  少し込み入った議論の筋道を辿らなければならなくなると、彼女はきっとこういって当面の問題を投げた。そうして解決を付けるまで進まないために起る面倒臭さは何時までも辛抱した。しかしその辛抱は自分自身に取って決して快よいものではなかった。健三から見るとなおさら心持が悪かった。  「執拗だ」  「執拗だ」  二人は両方で同じ非難の言葉を御互の上に投げかけ合った。そうして御互に腹の中にある蟠まりを御互の素振から能く読んだ。しかもその非難に理由のある事もまた御互に認め合わなければならなかった。  我慢な健三は遂に細君の生家へ行かなくなった。何故行かないとも訊かず、また時々行ってくれとも頼まずにただ黙っていた細君は、依然として「面倒臭い」を心の中に繰り返すぎりで、少しもその態度を改めようとしなかった。  「これで沢山だ」  「己もこれで沢山だ」  また同じ言葉が双方の胸のうちでしばしば繰り返された。  それでも護謨紐のように弾力性のある二人の間柄には、時により日によって多少の伸縮があった。非常に緊張して何時切れるか分らないほどに行き詰ったかと思うと、それがまた自然の勢で徐々元へ戻って来た。そうした日和の好い精神状態が少し継続すると、細君の唇から暖かい言葉が洩れた。  「これは誰の子?」  健三の手を握って、自分の腹の上に載せた細君は、彼にこんな問を掛けたりした。その頃細君の腹はまだ今のように大きくはなかった。しかし彼女はこの時既に自分の胎内に蠢めき掛けていた生の脈搏を感じ始めたので、その微動を同情のある夫の指頭に伝えようとしたのである。  「喧嘩をするのはつまり両方が悪いからですね」  彼女はこんな事もいった。それほど自分が悪いと思っていない頑固な健三も、微笑するより外に仕方がなかった。  「離れればいくら親しくってもそれぎりになる代りに、一所にいさえすれば、たとい敵同志でもどうにかこうにかなるものだ。つまりそれが人間なんだろう」  健三は立派な哲理でも考え出したように首を捻った。 六十六  御常や島田の事以外に、兄と姉の消息も折々健三の耳に入った。  毎年時候が寒くなるときっと身体に故障の起る兄は、秋口からまた風邪を引いて一週間ほど局を休んだ揚句、気分の悪いのを押して出勤した結果、幾日経っても熱が除れないで苦しんでいた。  「つい無理をするもんだから」  無理をして月給の寿命を長くするか、養生をして免職の時期を早めるか、彼には二つの内どっちかを択ぶより外に仕方がないように見えたのである。  「どうも肋膜らしいっていうんだがね」  彼は心細い顔をした。彼は死を恐れた。肉の消滅について何人よりも強い畏怖の念を抱いていた。そうして何人よりも強い速度で、その肉塊を減らして行かなければならなかった。  健三は細君に向っていった。――  「もう少し平気で休んでいられないものかな。責めて熱の失くなるまででも好いから」  「そうしたいのは山々なんでしょうけれども、やッぱりそうは出来ないんでしょう」  健三は時々兄が死んだあとの家族を、ただ活計の方面からのみ眺める事があった。彼はそれを残酷ながら自然の眺め方として許していた。同時にそういう観察から逃れる事の出来ない自分に対して一種の不快を感じた。彼は苦い塩を嘗めた。  「死にやしまいな」  「まさか」  細君は取り合わなかった。彼女はただ自分の大きな腹を持て余してばかりいた。生家と縁故のある産婆が、遠い所から俥に乗って時々遣て来た。彼はその産婆が何をしに来て、また何をして帰って行くのか全く知らなかった。  「腹でも揉むのかい」  「まあそうです」  細君ははかばかしい返事さえしなかった。  その内兄の熱がころりと除れた。  「御祈祷をなすったんですって」  迷信家の細君は加持、祈祷、占い、神信心、大抵の事を好いていた。  「御前が勧めたんだろう」  「いいえそれが私なんぞの知らない妙な御祈祷なのよ。何でも髪剃を頭の上へ載せて遣るんですって」  健三には髪剃の御蔭で、しこじら[#「しこじら」に傍点]した体熱が除れようとも思えなかった。  「気のせいで熱が出るんだから、気のせいでそれがまた直除れるんだろうよ。髪剃でなくったって、杓子でも鍋蓋でも同じ事さ」  「しかしいくら御医者の薬を飲んでも癒らないもんだから、試しに遣って見たらどうだろうって勧められて、とうとう遣る気になったんですって、どうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」  健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内状を気の毒に思った。髪剃の御蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。  兄が癒ると共に姉がまた喘息で悩み出した。  「またかい」  健三は我知らずこういって、ふと女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。  「しかし今度は何時もより重いんですって。ことによると六ずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそういってくれって仰ゃいました」  兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分の尻を畳の上に着けた。  「少し立っていると御腹の具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません」  産が逼るほど妊婦は運動すべきものだ位に考えていた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに退儀であるかは全く彼の想像の外にあった。彼は活動を強いる勇気も自信も失なった。  「私とても御見舞には参れませんよ」  「無論御前は行かなくっても好い。己が行くから」 六十七  その頃の健三は宅へ帰ると甚しい倦怠を感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく昼寐をした。机に倚って書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。愕然として仮寐の夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺撃した。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。括り付けられた人のように書斎に凝としていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝と坐っていろと彼に命令するのである。  かくして四、五日は徒らに過ぎた。健三が漸く津の守坂へ出掛けた時は六ずかしいかも知れないといった姉が、もう回復期に向っていた。  「まあ結構です」  彼は尋常の挨拶をした。けれども腹の中では狐にでも抓まれたような気がした。  「ああ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きていたってどうせ他の厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、やっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」  姉は自分のいう裏を健三から聴きたい様子であった。しかし彼は黙って烟草を吹かしていた。こんな些細の点にも姉弟の気風の相違は現われた。  「でも比田のいるうちは、いくら病身でも無能でも私が生きていて遣らないと困るからね」  親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。それは女房の心尽しなどに対して余りに無頓着過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、むしろ気の毒な位親切だったからである。  「私ゃ本当に損な生れ付でね。良人とはまるであべこべ[#「あべこべ」に傍点]なんだから」  姉の夫思いは全く天性に違なかった。けれども比田が時として理の徹らない我儘をいい募るように、彼女は訳の解らない実意立をしてかえって夫を厭がらせる事があった。それに彼女は縫針の道を心得ていなかった。手習をさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てから今日まで、ついぞ夫の着物一枚縫った例がなかった。それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、小用に行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかといって、網戸の内外で母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。  そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、その実どこか似通った所のあるこの腹違の姉の前に、彼は反省を強いられた。  「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥けば己だって大した変りはないんだ」  平生の彼は教育の力を信じ過ぎていた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。かく事実の上において突然人間を平等に視た彼は、不断から軽蔑していた姉に対して多少極りの悪い思をしなければならなかった。しかし姉は何にも気が付かなかった。  「御住さんはどうです。もう直生れるんだろう」  「ええ落こちそうな腹をして苦しがっています」  「御産は苦しいもんだからね。私も覚があるが」  久しく不妊性と思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。年歯を取ってからの初産だったので、当人も傍のものも大分心配した割に、それほどの危険もなく胎児を分娩したが、その子はすぐ死んでしまった。  「軽はずみをしないように用心おしよ。――宅でも彼子がいると少しは依怙になるんだがね」 六十八  姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。  「彦ちゃんがもう少し確乎していてくれると好いんだけれども」  彼女は時々傍のものにこんな述懐を洩らした。彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、至極穏やかな好人物であった。朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だという噂を耳にした事はあるが、その他の点について深い交渉を有たない健三には、どこが不足なのか能く解らなかった。  「もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね」  無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。しかし比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな贅沢のいえた義理でもなかった。彼らは彦ちゃんをどこの学校へも入れて遣らなかった。僅ばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取ってむしろ僥倖といわなければならなかった。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。昔し死んだ赤ん坊については、なおの事同情が起らなかった。彼はその生顔を見た事がなかった。その死顔も知らなかった。名前さえ忘れてしまった。  「何とかいいましたね、あの子は」  「作太郎さ。あすこに位牌があるよ」  姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いて拵えた小さい仏壇を指し示した。薄暗いばかりでなく小汚ないその中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。  「あの小さい奴がそうですか」  「ああ、赤ん坊のだからね、わざと小さく拵えたんだよ」  立って行って戒名を読む気にもならなかった健三は、やはり故の所に坐ったまま、黒塗の上に金字で書いた小形の札のようなものを遠くから眺めていた。  彼の顔には何の表情もなかった。自分の二番目の娘が赤痢に罹って、もう少しで命を奪られるところだった時の心配と苦痛さえ聯想し得なかった。  「姉さんもこんなじゃ何時ああなるか分らないよ、健ちゃん」  彼女は仏壇から眼を放して健三を見た。健三はわざとその視線を避けた。  心細い事を口にしながら腹の中では決して死ぬと思っていない彼女のいい草には、世間並の年寄と少し趣を異にしている所があった。慢性の病気が何時までも継続するように、慢性の寿命がまた何時までも継続するだろうと彼女には見えたのである。  其所へ彼女の癇性が手伝った。彼女はどんなに気息苦しくっても、いくら他から忠告されても、どうしても居ながら用を足そうといわなかった。這うようにしてでも厠まで行った。それから子供の時からの習慣で、朝はきっと肌抜になって手水を遣った。寒い風が吹こうが冷たい雨が降ろうが決してやめなかった。  「そんな心細い事をいわずに、出来るだけ養生をしたら好いでしょう」  「養生はしているよ。健ちゃんから貰う御小遣の中で牛乳だけはきっと飲む事に極めているんだから」  田舎ものが米の飯を食うように、彼女は牛乳を飲むのが凡ての養生ででもあるかのような事をいった。日に日に損なわれて行くわが健康を意識しつつ、この姉に養生を勧める健三の心の中にも、「他事じゃない」という馬鹿らしさが遠くに働らいていた。  「私も近頃は具合が悪くってね。ことによると貴方より早く位牌になるかも知れませんよ」  彼の言葉は無論根のない笑談として姉の耳に響いた。彼もそれを承知の上でわざと笑った。しかし自ら健康を損いつつあると確に心得ながら、それをどうする事も出来ない境遇に置かれた彼は、姉よりもかえって自分の方を憐んだ。  「己のは黙って成し崩しに自殺するのだ。気の毒だといってくれるものは一人もありゃしない」  彼はそう思って姉の凹み込んだ眼と、痩けた頬と、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。 六十九  姉は細かい所に気の付く女であった。従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。一面において馬鹿正直な彼女は、一面においてまた変な廻り気を出す癖を有っていた。  健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の生計について、他の同情に訴え得るような憐れっぽい事実を彼の前に並べた。しまいに兄の口を借りて、いくらでも好いから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知してもらう事にした。すると姉から手紙が来た。長さんの話では御前さんが月々いくらいくら私に遣るという事だが、実際御前さんの、呉れるといった金高はどの位なのか、長さんに内所でちょっと知らせてくれないかと書いてあった。姉はこれから毎月中取次をする役に当るかも知れない兄の心事を疑ぐったのである。  健三は馬鹿々々しく思った。腹立しくも感じた。しかし何より先に浅間しかった。「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。彼の姉に宛てた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分を能く現わしていた。姉はそれぎり何ともいって来なかった。無筆な彼女は最初の手紙さえ他に頼んで書いてもらったのである。  この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何でも蚊でも訊きたがる彼女も、健三の家庭については、当り障りのない事の外、多く口を開かなかった。健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかつて想い到らなかった。  「近頃御住さんはどうだい」  「まあ相変らずです」  会話はこの位で切り上げられる場合が多かった。  間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も大分交っていた。しかしその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。従って彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい無愛想な変人に過ぎなかった。  淋しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へと歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能く弁えていた。けれども其所には彼の追憶を誘う何物も残っていなかった。過去の記念が悉く彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。  彼は昔あった青田と、その青田の間を走る真直な径とを思い出した。田の尽る所には三、四軒の藁葺屋根が見えた。菅笠を脱いで床几に腰を掛けながら、心太を食っている男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のように広い紙漉場があった。其所を折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見下す水の流れには存外の距離があった。橋の袂にある古風な銭湯の暖簾や、その隣の八百屋の店先に並んでいる唐茄子などが、若い時の健三によく広重の風景画を聯想させた。  しかし今では凡てのものが夢のように悉く消え失せていた。残っているのはただ大地ばかりであった。  「何時こんなに変ったんだろう」  人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層劇しい自然の変り方に驚ろかされた。  彼は子供の時分比田と将棋を差した事を偶然思いだした。比田は盤に向うと、これでも所沢の藤吉さんの御弟子だからなというのが癖であった。今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じ事をいいそうな男であった。  「己自身は必竟どうなるのだろう」  衰ろえるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。 七十  元気のない顔をして宅へ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を惹いた。  「御病人はどうなの」  あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。  「何もう好いんだ。寐てはいるが危篤でも何でもないんだ。まあ兄貴に騙されたようなものだね」  馬鹿らしいという気が幾分か彼の口振に出た。  「騙されてもその方がいくら好いか知れやしませんわ、貴夫。もしもの事でもあって御覧なさい、それこそ……」  「兄貴が悪いんじゃない。兄貴は姉に騙されたんだから。その姉はまた病気に騙されたんだ。つまり皆な騙されているようなものさ、世の中は。一番利口なのは比田かも知れないよ。いくら女房が煩らったって、決して騙されないんだからね」  「やっぱり宅にいないの」  「いるもんか。尤も非道く悪かった時はどうだか知らないが」  健三は比田の振下げている金時計と金鎖の事を思い出した。兄はそれを天麩羅だろうといって陰で評していたが、当人はどこまでも本物らしく見せびらかしたがった。金着せにせよ、本物にせよ、彼がどこでいくらで買ったのか知るものは誰もなかった。こういう点に掛けては無頓着でいられない性分の姉も、ただ好い加減にその出処を推察するに過ぎなかった。  「月賦で買ったに違ないよ」  「ことによると質の流れかも知れない」  姉は聴かれもしないのに、兄に向って色々な説明をした。健三には殆ど問題にならない事が、彼らの間に想像の種を幾個でも卸した。そうされればされるほどまた比田は得意らしく見えた。健三が毎月送る小遣さえ時々借りられてしまうくせに、姉はついに夫の手元に入る、または現在手元にある、金高を決して知る事が出来なかった。  「近頃は何でも債券を二、三枚持っているようだよ」  姉の言葉はまるで隣の宅の財産でもいい中てるように夫から遠ざかっていた。  姉をこういう地位に立たせて平気でいる比田は、健三から見ると領解しがたい人間に違なかった。それがやむをえない夫婦関係のように心得て辛抱している姉自身も健三には分らなかった。しかし金銭上あくまで秘密主義を守りながら、時々姉の予期に釣り合わないようなものを買い込んだり着込んだりして、妄りに彼女を驚ろかせたがる料簡に至っては想像さえ及ばなかった。妻に対する虚栄心の発現、焦らされながらも夫を腕利と思う妻の満足。――この二つのものだけでは到底充分な説明にならなかった。  「金の要る時も他人、病気の時も他人、それじゃただ一所にいるだけじゃないか」  健三の謎は容易に解けなかった。考える事の嫌な細君はまた何という評も加えなかった。  「しかし己たち夫婦も世間から見れば随分変ってるんだから、そう他の事ばかりとやかくいっちゃいられないかも知れない」  「やっぱり同なじ事ですわ。みんな自分だけは好いと思ってるんだから」  健三はすぐ癪に障った。  「御前でも自分じゃ好いつもりでいるのかい」  「いますとも。貴夫が好いと思っていらっしゃる通りに」  彼らの争いは能くこういう所から起った。そうして折角穏やかに静まっている双方の心を攪き乱した。健三はそれを慎みの足りない細君の責に帰した。細君はまた偏窟で強情な夫のせいだとばかり解釈した。  「字が書けなくっても、裁縫が出来なくっても、やっぱり姉のような亭主孝行な女の方が己は好きだ」  「今時そんな女がどこの国にいるもんですか」  細君の言葉の奥には、男ほど手前勝手なものはないという大きな反感が横わっていた。 七十一  筋道の通った頭を有っていない彼女には存外新らしい点があった。彼女は形式的な昔風の倫理観に囚われるほど厳重な家庭に人とならなかった。政治家を以て任じていた彼女の父は、教育に関して殆んど無定見であった。母はまた普通の女のように八釜しく子供を育て上る性質でなかった。彼女は宅にいて比較的自由な空気を呼吸した。そうして学校は小学校を卒業しただけであった。彼女は考えなかった。けれども考えた結果を野性的に能く感じていた。  「単に夫という名前が付いているからというだけの意味で、その人を尊敬しなくてはならないと強いられても自分には出来ない。もし尊敬を受けたければ、受けられるだけの実質を有った人間になって自分の前に出て来るが好い。夫という肩書などはなくっても構わないから」  不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚からなかった。  「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」  二人が衝突する大根は此所にあった。  夫と独立した自己の存在を主張しようとする細君を見ると健三はすぐ不快を感じた。ややともすると、「女のくせに」という気になった。それが一段劇しくなると忽ち「何を生意気な」という言葉に変化した。細君の腹には「いくら女だって」という挨拶が何時でも貯えてあった。  「いくら女だって、そう踏み付にされて堪るものか」  健三は時として細君の顔に出るこれだけの表情を明かに読んだ。  「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ、尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがいい」  健三の論理は何時の間にか、細君が彼に向って投げる論理と同じものになってしまった。  彼らはかくして円い輪の上をぐるぐる廻って歩いた。そうしていくら疲れても気が付かなかった。  健三はその輪の上にはたりと立ち留る事があった。彼の留る時は彼の激昂が静まる時に外ならなかった。細君はその輪の上でふと動かなくなる事があった。しかし細君の動かなくなる時は彼女の沈滞が融け出す時に限っていた。その時健三は漸く怒号をやめた。細君は始めて口を利き出した。二人は手を携えて談笑しながら、やはり円い輪の上を離れる訳に行かなかった。  細君が産をする十日ばかり前に、彼女の父が突然健三を訪問した。生憎留守だった彼は、夕暮に帰ってから細君にその話を聞いて首を傾むけた。  「何か用でもあったのかい」  「ええ少し御話ししたい事があるんですって」  「何だい」  細君は答えなかった。  「知らないのかい」  「ええ。また二、三日うちに上って能く御話をするからって帰りましたから、今度参ったら直に聞いて下さい」  健三はそれより以上何もいう事が出来なかった。  久しく細君の父を訪ねないでいた彼は、用事のあるなしにかかわらず、向うがわざわざこっちへ出掛けて来ようなどとは夢にも予期しなかった。その不審が例より彼の口数を多くする源因になった。それとは反対に細君の言葉はかえって常よりも少なかった。しかしそれは彼がよく彼女において発見する不平や無愛嬌から来る寡言とも違っていた。  夜は何時の間にやら全くの冬に変化していた。細い燈火の影を凝と見詰めていると、灯は動かないで風の音だけが烈しく雨戸に当った。ひゅうひゅうと樹木の鳴るなかに、夫婦は静かな洋燈を間に置いて、しばらく森と坐っていた。 七十二  「今日父が来ました時、外套がなくって寒そうでしたから、貴方の古いのを出して遣りました」  田舎の洋服屋で拵えたその二重廻しは、殆んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。  「あんな汚ならしいもの」  彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。  「いいえ。喜こんで着て行きました」  「御父さんは外套を有っていないのかい」  「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」  健三は驚ろいた。細い灯に照らされた細君の顔が急に憐れに見えた。  「そんなに窮っているのかなあ」  「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」  口数の寡ない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。  彼は絹帽にフロックコートで勇ましく官邸の石門を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木を久の字形に切り組んで作ったその玄関の床は、つるつる光って、時によると馴れない健三の足を滑らせた。前に広い芝生を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと接続いて長方形の食堂があった。結婚する前健三は其所で細君の家族のものと一緒に晩餐の卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多に招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の裡に更した記憶もあった。  西洋館に続いて日本建も一棟付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の下女と二人の書生が住んでいた。職務柄客の出入の多いこの家の用事には、それだけの召仕が必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要も充たされるはずはなかった。  健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさほど困っているようには見えなかった。彼が駒込の奥に住居を構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこういった。――  「まあ自分の宅を有つという事が人間にはどうしても必要ですね。しかしそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々貯蓄を心掛けたら好いでしょう。二、三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それを私に預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」  貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。  「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」  彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、驚愕の念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力を眺めた。しかし千円拵えて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を訊く気にもならずについ今日まで過ぎたのである。  「そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。何ぼ何だって」  「でも仕方がありませんわ、廻り合せだから」  産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の気息遣はただでさえ重々しかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と光沢の悪いその頬とを眺めた。  昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人を描いた下等な団扇を四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ情なくなった。  「でもよく着られるね」  「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」  細君は淋しそうに笑った。 七十三  中一日置いて彼が来た時、健三は久しぶりで細君の父に会った。  年輩からいっても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、何時も自分の娘婿に対して鄭寧であった。或時は不自然に陥る位鄭寧過ぎた。しかしそれが彼を現わす凡てではなかった。裏側には反対のものが所々に起伏していた。  官僚式に出来上った彼の眼には、健三の態度が最初から頗る横着に見えた。超えてはならない階段を無躾に飛び越すようにも思われた。その上彼はむやみに自ら任じているらしい健三の高慢ちきな所を喜こばなかった。頭にある事を何でも口外して憚らない健三の無作法も気に入らなかった。乱暴とより外に取りようのない一徹一図な点も非難の標的になった。  健三の稚気を軽蔑した彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて来ようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。すると二人は其所で留まったなり動けなくなった。二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。だから相手の長所も判明と理解する事が出来悪くなった。そうして二人とも自分の有っている欠点の大部分には決して気が付かなかった。  しかし今の彼は健三に対して疑もなく一時的の弱者であった。他に頭を下げる事の嫌な健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。  「如何にも苦しいだろう」  健三はこの一念に制せられた。そうして彼の持ち来した金策談に耳を傾むけた。けれども好い顔はし得なかった。心のうちでは好い顔をし得ないその自分を呪っていた。  「金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。誤解してはいけません。私はこんな場合に敵討をするような卑怯な人間とは違ます」  細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すより外に仕方がなかった。  このぶっきら[#「ぶっきら」に傍点]棒な健三に比べると、細君の父はよほど鄭寧であった。また落付いていた。傍から見れば遥に紳土らしかった。  彼は或人の名を挙げた。  「向うでは貴方を知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」  「知っています」  健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深い交際はなかった。卒業して独乙へ行って帰って来たら、急に職業がえをして或大きな銀行へ入ったとか人の噂に聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。  「まだ銀行にいるんですか」  細君の父は点頭いた。しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。またそれを詳しく訊いて見たところが仕方がなかった。要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。  「で当人のいうには、貸しても好い、好いが慥な人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」  「なるほど」  「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」  健三は自分自身を慥なものと認めるには躊躇しなかった。しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上他に知れていなければならないはずだと考えた。その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。平生彼の口にする知合のうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。  「何故私の判が必要なんでしょう」  「貴方なら貸そうというのです」  健三は考えた。 七十四  彼は今日まで証書を入れて他から金を借りた経験のない男であった。つい義理で判を捺いて遣ったのが本で、立派な腕を有ちながら、生涯社会の底に沈んだまま、藻掻き通しに藻掻いている人の話は、いくら迂闊な彼の耳にもしばしば伝えられていた。彼は出来るなら自分の未来に関わるような所作を避けたいと思った。しかし頑固な彼の半面にはいたって気の弱い煮え切らない或物が能く働らきたがった。この場合断然連印を拒絶するのは、彼に取って如何にも無情で、冷刻で、心苦しかった。  「私でなくっちゃいけないのでしょうか」  「貴方なら好いというんです」  彼は同じ事を二度訊いて同じ答えを二度受けた。  「どうも変ですね」  世事に疎い彼は、細君の父がどこへ頼んでも、もう判を押してくれるものがないので、しまいに仕方なしに彼の所へ持って来たのだという明白な事情さえ推察し得なかった。彼は親しく交際った事もないその銀行家からそれほど信用されるのがかえって怖くなった。  「どんな目に逢わされるか分りゃしない」  彼の心には未来における自己の安全という懸念が充分に働らいた。同時にただそれだけの利害心でこの問題を片付けてしまうほど彼の性格は単純に出来ていなかった。彼の頭が彼に適当な解決を与えるまで彼は逡巡しなければならなかった。その解決が最後に来た時ですら、彼はそれを細君の父の前に持ち出すのに多大の努力を払った。  「印を捺す事はどうも危険ですからやめたいと思います。しかしその代り私の手で出来るだけの金を調えて上げましょう。無論貯蓄のない私の事だから、調えるにしたところで、どうせどこからか借りるより外に仕方がないのですが、出来るなら証文を書いたり判を押したりするような形式上の手続きを踏む金は借りたくないのです。私の有っている狭い交際の方面で安全な金を工面した方が私には心持が好いのですから、まずそっちの方を一つ中って見ましょう。無論御入用だけの額は駄目です。私の手で調のえる以上、私の手で返さなければならないのは無論の事ですから、身分不相当の借金は出来ません」  いくらでも融通が付けば付いただけ助かるといった風の苦しい境遇に置かれた細君の父は、それより以上健三を強いなかった。  「どうぞそれじゃ何分」  彼は健三の着古した外套に身を包んで、寒い日の下を歩いて帰って行った。書斎で話を済せた健三は、玄関からまた同じ書斎に戻ったなり細君の顔を見なかった。細君も父を玄関に送り出した時、夫と並んで沓脱の上に立っただけで、遂に書斎へは入って来なかった。金策の事は黙々のうちに二人に了解されていながら、遂に二人の間の話題に上らずにしまった。  けれども健三の心には既に責任の荷があった。彼はそれを果すために動かなければならなかった。彼は世帯を持つときに、火鉢や烟草盆を一所に買って歩いてもらった友達の宅へまた出掛けた。  「金を貸してくれないかね」  彼は藪から棒に質問を掛けた。金などを有っていない友達は驚ろいた顔をして彼を見た。彼は火鉢に手を翳しながら友達の前に逐一事情を話した。  「どうだろう」  三年間支那のある学堂で教鞭を取っていた頃に蓄えた友達の金は、みんな電鉄か何かの株に変形していた。  「じゃ清水に頼んで見てくれないか」  友達の妹婿に当る清水は、下町のかなり繁華な場所で、病院を開いていた。  「さあどうかなあ。あいつもその位な金はあるだろうが、動かせるようになっているかしら。まあ訊いて見てやろう」  友達の好意は幸い徒労にならずに済んだ。健三の借り受けた四百円の金が、細君の父の手に入ったのは、それから四、五日経って後の事であった。 七十五  「己は精一杯の事をしたのだ」  健三の腹にはこういう安心があった。従って彼は自分の調達した金の価値について余り考えなかった。さぞ嬉しがるだろうとも思わない代りに、これ位の補助が何の役に立つものかという気も起さなかった。それがどの方面にどう消費されたかの問題になると、全くの無知識で澄ましていた。細君の父も其所まで内状を打ち明けるほど彼に接近して来なかった。  従来の牆壁を取り払うにはこの機会があまりに脆弱過ぎた。もしくは二人の性格があまりに固着し過ぎていた。  父は健三よりも世間的に虚栄心の強い男であった。なるべく自分を他に能く了解させようと力めるよりも、出来るだけ自分の価値を明るい光線に触てさせたがる性質であった。従って彼を囲繞する妻子近親に対する彼の様子は幾分か誇大に傾むきがちであった。  境遇が急に失意の方面に一転した時、彼は自分の平生を顧みない訳に行かなかった。彼はそれを糊塗するため、健三に向って能う限りさあらぬ態度を装った。それで遂に押し通せなくなった揚句、彼はとうとう健三に連印を求めたのである。けれども彼がどの位の負債にどう苦しめられているかという巨細の事実は、遂に健三の耳に入らなかった。健三も訊かなかった。  二人は今までの距離を保ったままで互に手を出し合った。一人が渡す金を一人が受け取った時、二人は出した手をまた引き込めた。傍でそれを見ていた細君は黙って何ともいわなかった。  健三が外国から帰った当座の二人は、まだこれほどに離れていなかった。彼が新宅を構えて間もない頃、彼は細君の父がある鉱山事業に手を出したという話を聞いて驚ろいた事があった。  「山を掘るんだって?」  「ええ、何でも新らしく会社を拵えるんだそうです」  彼は眉を顰めた。同時に彼は父の怪力に幾分かの信用を置いていた。  「旨く行くのかね」  「どうですか」  健三と細君との間にこんな簡単な会話が取り換わされた後、彼はその用事を帯びて北国のある都会へ向けて出発したという父の報知を細君から受け取った。すると一週間ばかりして彼女の母が突然健三の所へ遣って来た。父が旅先で急に病気に罹ったので、これから自分も行かなければならないと思うが、それについて旅費の都合は出来まいかというのが母の用向であった。  「ええええ旅費位どうでもして上ますから、すぐ行って御上なさい」  宿屋に寐ている苦しい人と、汽車で立って行く寒い人とを心から気の毒に思った健三は、自分のまだ見た事もない遠くの空の佗びしさまで想像の眼に浮べた。  「何しろ電報が来ただけで、詳しい事はまるで分りませんのですから」  「じゃなお御心配でしょう。なるべく早く御立ちになる方が好いでしょう」  幸いにして父の病気は軽かった。しかし彼の手を着けかけたという鉱山事業はそれぎり立消になってしまった。  「まだ何にも見付からないのかね、口は」  「あるにはあるようですけれども旨く纏らないんですって」  細君は父がある大きな都会の市長の候補者になった話をして聞かせた。その運動費は財力のある彼の旧友の一人が負担してくれているようであった。しかし市の有志家が何名か打ち揃って上京した時に、有名な政治家のある伯爵に会って、父の適不適を問い訊したら、その伯爵がどうも不向だろうと答えたので、話はそれぎりでやめになったのだそうである。  「どうも困るね」  「今に何とかなるでしょう」  細君は健三よりも自分の父の方を遥かに余計信用していた。健三も例の怪力を知らないではなかった。  「ただ気の毒だからそういうだけさ」  彼の言葉に嘘はなかった。 七十六  けれどもその次に細君の父が健三を訪問した時には、二人の関係がもう変っていた。自ら進んで母に旅費を用立った女婿は、一歩退ぞかなければならなかった。彼は比較的遠い距離に立って細君の父を眺めた。しかし彼の眼に漂よう色は冷淡でも無頓着でもなかった。むしろ黒い瞳から閃めこうとする反感の稲妻であった。力めてその稲妻を隠そうとした彼は、やむをえずこの鋭どく光るものに冷淡と無頓着の仮装を着せた。  父は悲境にいた。まのあたり見る父は鄭寧であった。この二つのものが健三の自然に圧迫を加えた。積極的に突掛る事の出来ない彼は控えなければならなかった。単なる無愛想の程度で我慢すべく余儀なくされた彼には、相手の苦しい現状と慇懃な態度とが、かえってわが天真の流露を妨げる邪魔物になった。彼からいえば、父はこういう意味において彼を苦しめに来たと同じ事であった。父からいえば、普通の人としてさえ不都合に近い愚劣な応対ぶりを、自分の女婿に見出すのは、堪えがたい馬鹿らしさに違なかった。前後と関係のないこの場だけの光景を眺める傍観者の眼にも健三はやはり馬鹿であった。それを承知している細君にすら、夫は決して賢こい男ではなかった。  「私も今度という今度は困りました」  最初にこういった父は健三からはかばかしい返事すら得なかった。  父はやがて財界で有名な或人の名を挙げた。その人は銀行家でもあり、また実業家でもあった。  「実はこの間ある人の周旋で会って見ましたが、どうか旨く出来そうですよ。三井と三菱を除けば日本ではまあ彼所位なもんですから、使用人になったからといって、別に私の体面に関わる事もありませんし、それに仕事をする区域も広いようですから、面白く働けるだろうと思うんです」  この財力家によって細君の父に予約された位地というのは、関西にある或私立の鉄道会社の社長であった。会社の株の大部分を一人で所有しているその人は、自分の意志のままに、其所の社長を選ぶ特権を有していたのである。しかし何十株か何百株かの持主として、予じめ資格を作って置かなければならない父は、どうして金の工面をするだろう。事状に通じない健三にはこの疑問さえ解けなかった。  「一時必要な株数だけを私の名儀に書換てもらうんです」  健三は父の言葉に疑を挟むほど、彼の才能を見縊っていなかった。彼と彼の家族とを目下の苦境から解脱させるという意味においても、その成功を希望しない訳に行かなかった。しかし依然として元の立場に立っている事も改める訳に行かなかった。彼の挨拶は形式的であった。そうして幾分か彼の心の柔らかい部分をわざと堅苦しくした。老巧な父はまるで其所に注意を払わないように見えた。  「しかし困る事に、これは今が今という訳に行かないのです。時機があるものですからな」  彼は懐からまた一枚の辞令見たようなものを出して健三に見せた。それには或保険会社が彼に顧問を嘱託するという文句と、その報酬として月々彼に百円を贈与するという条件が書いてあった。  「今御話した一方の方が出来たらこれはやめるか、または出来ても続けてやるか、その辺はまだ分らないんですが、とにかく百円でも当座の凌ぎにはなりますから」  昔し彼が政府の内意で或官職を抛った時、当路の人は山陰道筋のある地方の知事なら転任させても好いという条件を付けた事があった。しかし彼は断然それを斥ぞけた。彼が今大して隆盛でもない保険会社から百円の金を貰って、別に厭な顔をしないのも、やはり境遇の変化が彼の性格に及ぼす影響に相違なかった。  こうした懸け隔てのない父の態度は、ややともすると健三を自分の立場から前へ押し出そうとした。その傾向を意識するや否や彼はまた後戻りをしなければならなかった。彼の自然は不自然らしく見える彼の態度を倫理的に認可したのである。 七十七  細君の父は事務家であった。ややともすると仕事本位の立場からばかり人を評価したがった。乃木将軍が一時台湾総督になって間もなくそれをやめた時、彼は健三に向ってこんな事をいった。――  「個人としての乃木さんは義に堅く情に篤く実に立派なものです。しかし総督としての乃木さんが果して適任であるかどうかという問題になると、議論の余地がまだ大分あるように思います。個人の徳は自分に親しく接触する左右のものには能く及ぶかも知れませんが、遠く離れた被治者に利益を与えようとするには不充分です。其所へ行くとやっぱり手腕ですね。手腕がなくっちゃ、どんな善人でもただ坐っているより外に仕方がありませんからね」  彼は在職中の関係から或会の事務一切を管理していた。侯爵を会頭に頂くその会は、彼の力で設立の主意を綺麗に事業の上で完成した後、彼の手元に二万円ほどの剰余金を委ねた。官途に縁がなくなってから、不如意に不如意の続いた彼は、ついその委託金に手を付けた。そうして何時の間にか全部を消費してしまった。しかし彼は自家の信用を維持するために誰にもそれを打ち明けなかった。従って彼はこの預金から当然生まれて来る百円近くの利子を毎月調達して、体面を繕ろわなければならなかった。自家の経済よりもかえってこの方を苦に病んでいた彼が、公生涯の持続に絶対に必要なその百円を、月々保険会社から貰うようになったのは、当時の彼の心中に立入って考えて見ると、全く嬉しいに違なかった。  よほど後になって始めてこの話を細君から聴いた健三は、彼女の父に対して新たな同情を感じただけで、不徳義漢として彼を悪む気は更に起らなかった。そういう男の娘と夫婦になっているのが恥ずかしいなどとは更に思わなかった。しかし細君に対しての健三は、この点に関して殆んど無言であった。細君は時々彼に向っていった。――  「妾、どんな夫でも構いませんわ、ただ自分に好くしてくれさえすれば」  「泥棒でも構わないのかい」  「ええええ、泥棒だろうが、詐欺師だろうが何でも好いわ。ただ女房を大事にしてくれれば、それで沢山なのよ。いくら偉い男だって、立派な人間だって、宅で不親切じゃ妾にゃ何にもならないんですもの」  実際細君はこの言葉通りの女であった。健三もその意見には賛成であった。けれども彼の推察は月の暈のように細君の言外まで滲み出した。学問ばかりに屈託している自分を、彼女がこういう言葉でよそながら非難するのだという臭がどこやらでした。しかしそれよりも遥かに強く、夫の心を知らない彼女がこんな態度で暗に自分の父を弁護するのではないかという感じが健三の胸を打った。  「己はそんな事で人と離れる人間じゃない」  自分を細君に説明しようと力めなかった彼も、独りで弁解の言葉を繰り返す事は忘れなかった。  しかし細君の父と彼との交情に、自然の溝渠が出来たのは、やはり父の重きを置き過ぎている手腕の結果としか彼には思えなかった。  健三は正月に父の所へ礼に行かなかった。恭賀新年という端書だけを出した。父はそれを寛仮さなかった。表向それを咎める事もしなかった。彼は十二、三になる末の子に、同じく恭賀新年という曲りくねった字を書かして、その子の名前で健三に賀状の返しをした。こういう手腕で彼に返報する事を巨細に心得ていた彼は、何故健三が細君の父たる彼に、賀正を口ずから述べなかったかの源因については全く無反省であった。  一事は万事に通じた。利が利を生み、子に子が出来た。二人は次第に遠ざかった。やむをえないで犯す罪と、遣らんでも済むのにわざと遂行する過失との間に、大変な区別を立てている健三は、性質の宜しくないこの余裕を非常に悪み出した。 七十八  「与しやすい男だ」  実際において与しやすい或物を多量に有っていると自覚しながらも、健三は他からこう思われるのが癪に障った。  彼の神経はこの肝癪を乗り超えた人に向って鋭どい懐しみを感じた。彼は群衆のうちにあって直そういう人を物色する事の出来る眼を有っていた。けれども彼自身はどうしてもその域に達せられなかった。だからなおそういう人が眼に着いた。またそういう人を余計尊敬したくなった。  同時に彼は自分を罵った。しかし自分を罵らせるようにする相手をば更に烈しく罵った。  かくして細君の父と彼との間には自然の造った溝渠が次第に出来上った。彼に対する細君の態度も暗にそれを手伝ったには相違なかった。  二人の間柄がすれすれになると、細君の心は段々生家の方へ傾いて行った。生家でも同情の結果、冥々の裡に細君の肩を持たなければならなくなった。しかし細君の肩を持つという事は、或場合において、健三を敵とするという意味に外ならなかった。二人は益離れるだけであった。  幸にして自然は緩和剤としての歇私的里を細君に与えた。発作は都合好く二人の関係が緊張した間際に起った。健三は時々便所へ通う廊下に俯伏になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端に蹲踞っている彼女を、後から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。  そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧として夢よりも分別がなかった。瞳孔が大きく開いていた。外界はただ幻影のように映るらしかった。  枕辺に坐って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃めいた。時としては不憫の念が凡てに打ち勝った。彼は能く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛を入れて遣った。汗ばんだ額を濡れ手拭で拭いて遣った。たまには気を確にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。  発作の今よりも劇しかった昔の様も健三の記憶を刺戟した。  或時の彼は毎夜細い紐で自分の帯と細君の帯とを繋いで寐た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。  或時の彼は細君の鳩尾へ茶碗の糸底を宛がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。  或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。  「御天道さまが来ました。五色の雲へ乗って来ました。大変よ、貴夫」  「妾の赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら其所にいるじゃありませんか。桔槹の中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」  流産してから間もない彼女は、抱き竦めにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。……  細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆いていた。彼は心配よりも可哀想になった。弱い憐れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉しそうな顔をした。  だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。  不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君が本で出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した後でも、ちょっと埋める訳に行かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。 七十九  不合理な事の嫌な健三は心の中でそれを苦に病んだ。けれども別にどうする了簡も出さなかった。彼の性質はむき[#「むき」に傍点]でもあり一図でもあったと共に頗る消極的な傾向を帯びていた。  「己にそんな義務はない」  自分に訊いて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。彼は何時までも不愉快の中で起臥する決心をした。成行が自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。  不幸にして細君もまたこの点においてどこまでも消極的な態度を離れなかった。彼女は何か事件があれば動く女であった。他から頼まれて男より邁進する場合もあった。しかしそれは眼前に手で触れられるだけの明瞭な或物を捉まえた時に限っていた。ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。自分の父と健三の間にもこれというほどの破綻は認められなかった。大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はその他を閑却した。自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだと観じていた。  「だって何にもないじゃありませんか」  裏面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。しまいにどうなっても構わないという投げ遣りの気分が、単に消極的な彼女をなおの事消極的に練り堅めて行った。  かくして夫婦の態度は悪い所で一致した。相互の不調和を永続するためにと評されても仕方のないこの一致は、根強い彼らの性格から割り出されていた。偶然というよりもむしろ必然の結果であった。互に顔を見合せた彼らは、相手の人相で自分の運命を判断した。  細君の父が健三の手で調達された金を受取って帰ってから、それを特別の問題ともしなかった夫婦は、かえって余事を話し合った。  「産婆は何時頃生れるというのかい」  「何時って判然いいもしませんが、もう直ですわ」  「用意は出来てるのかい」  「ええ奥の戸棚の中に入っています」  健三には何が這入っているのか分らなかった。細君は苦しそうに大きな溜息を吐いた。  「何しろこう重苦しくっちゃ堪らない。早く生れてくれなくっちゃ」  「今度は死ぬかも知れないっていってたじゃないか」  「ええ、死んでも何でも構わないから、早く生んじまいたいわ」  「どうも御気の毒さまだな」  「好いわ、死ねば貴夫のせいだから」  健三は遠い田舎で細君が長女を生んだ時の光景を憶い出した。不安そうに苦い顔をしていた彼が、産婆から少し手を貸してくれといわれて産室へ入った時、彼女は骨に応えるような恐ろしい力でいきなり健三の腕に獅噛み付いた。そうして拷問でもされる人のように唸った。彼は自分の細君が身体の上に受けつつある苦痛を精神的に感じた。自分が罪人ではないかという気さえした。  「産をするのも苦しいだろうが、それを見ているのも辛いものだぜ」  「じゃどこかへ遊びにでもいらっしゃいな」  「一人で生めるかい」  細君は何とも答えなかった。夫が外国へ行っている留守に、次の娘を生んだ時の事などはまるで口にしなかった。健三も訊いて見ようとは思わなかった。生れ付心配性な彼は、細君の唸り声を余所にして、ぶらぶら外を歩いていられるような男ではなかった。  産婆が次に顔を出した時、彼は念を押した。  「一週間以内かね」  「いえもう少し後でしょう」  健三も細君もその気でいた。 八十  日取が狂って予期より早く産気づいた細君は、苦しそうな声を出して、傍に寐ている夫の夢を驚ろかした。  「先刻から急に御腹が痛み出して……」  「もう出そうなのかい」  健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。  「少し撫って遣ろうか」  起き上る事の臆劫な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか有っていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。  「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切痛んではまた一仕切治まるんだろう」  「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」  細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。凝と蒲団の上に落付いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。  「産婆を呼ぼうか」  「ええ、早く」  職業柄産婆の宅には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳け付けるのを例にしていた。  初冬の暗い夜はまだ明け離れるのに大分間があった。彼はその人とその人の門を敲く下女の迷惑を察した。しかし夜明まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の襖を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急き立てて暗い夜の中へ追い遣った。  彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは益劇しくなった。彼の神経は一分ごとに門前で停る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。  産婆は容易に来なかった。細君の唸る声が絶間なく静かな夜の室を不安に攪き乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩した。  「確かりしろ」  すぐ立って蒲団の裾の方に廻った健三は、どうして好いか分らなかった。その時例の洋燈は細長い火蓋の中で、死のように静かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している辺は、夜具の縞柄さえ判明しないぼんやりした陰で一面に裹まれていた。  彼は狼狽した。けれども洋燈を移して其所を輝すのは、男子の見るべからざるものを強いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は忽ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好の判然しない何かの塊に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込めた。  「しかしこのままにして放って置いたら、風邪を引くだろう、寒さで凍えてしまうだろう」  死んでいるか生きているかさえ弁別のつかない彼にもこういう懸念が湧いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の中に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の後部にある唐紙を開けた。彼は其所から多量の綿を引き摺り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切って、柔かい塊の上に載せた。 八十一  その内待に待った産婆が来たので、健三は漸く安心して自分の室へ引き取った。  夜は間もなく明けた。赤子の泣く声が家の中の寒い空気を顫わせた。  「御安産で御目出とう御座います」  「男かね女かね」  「女の御子さんで」  産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。  「また女か」  健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思い到らなかった。  田舎で生まれた長女は肌理の濃やかな美くしい子であった。健三はよくその子を乳母車に乗せて町の中を後から押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながら宅へ帰って来た。しかし当にならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人に伴れられて彼を新橋に迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと好い御父さまかと思ったと傍のものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々丈が詰って来た。輪廓に角が立った。健三はこの娘の容貌の中にいつか成長しつつある自分の相好の悪い所を明らかに認めなければならなかった。  次女は年が年中腫物だらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのが本で、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに剪ってしまった。顋の短かい眼の大きなその子は、海坊主の化物のような風をして、其所いらをうろうろしていた。  三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。  「ああいうものが続々生れて来て、必竟どうするんだろう」  彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気に交っていた。  彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏かに寐ていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具蒲団に包まれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。昨夜暗闇で彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。  一切も綺麗に始末されていた。其所いらには汚れ物の影さえ見えなかった。夜来の記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。  「蒲団は換えて遣ったのかい」  「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」  「よくこう早く片付けられるもんだね」  産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。  「貴夫がむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」  「そうだろう。随分驚ろいたからね」  こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なって蒼い顔をしている細君の方が懸念の種になった。  「どうだ」  細君は微かに眼を開けて、枕の上で軽く肯ずいた。健三はそのまま外へ出た。  例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に坐った。  「どうだ」  しかし細君はもう肯ずかなかった。  「何だか変なようです」  彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照っていた。  「心持が悪いのかい」  「ええ」  「産婆を呼びに遣ろうか」  「もう来るでしょう」  産婆は来るはずになっていた。 八十二  やがて細君の腋の下に験温器が宛がわれた。  「熱が少し出ましたね」  産婆はこういって度盛の柱の中に上った水銀を振り落した。彼女は比較的言葉寡なであった。用心のため産科の医者を呼んで診てもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。  「大丈夫なのかな」  「どうですか」  健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ産褥熱じゃなかろうかという危惧の念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。  「どうですかって、御前の身体じゃないか」  細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。  「人がこんなに心配して遣るのに」  この感じを翌る日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう退めている事に気が付いた。  「やっぱり何でもなかったのかな」  「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」  「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」  健三は真面目であった。細君は淋しい頬に微笑を洩らした。  熱は幸にしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当に行った。健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら坐った。  「今度は死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」  「死んだ方が好ければ何時でも死にます」  「それは御随意だ」  夫の言葉を笑談半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。  「実際今度は死ぬと思ったんですもの」  「どういう訳で」  「訳はないわ、ただ思うのに」  死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。  「御前は呑気だね」  「貴夫こそ呑気よ」  細君は嬉しそうに自分の傍に寐ている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さい頬片を突ついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻を有っているとはいえないほど変な顔をしていた。  「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」  「今に大きくなりますよ」  健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。  「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」  細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。  「何ですって」  健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。  「それがどうしたの」  「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」  「詰らないわ。他に解らない事さえいいや、好いかと思って」  細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭な顔もせずに書斎へ入った。  彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息で斃れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手に入るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他島田の事も御常の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。 八十三  子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑さえあると、新らしい妹の傍に寄りたがった。その妹の瞬き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏でも欠でも何でもかでも不可思議な現象と見えた。  「今にどんなになるだろう」  当面に忙殺される彼らの胸にはかつてこうした問題が浮かばなかった。自分たち自身の今にどんなになる[#「なる」に傍点]かをすら領解し得ない子供らは、無論今にどうするだろうなどと考えるはずがなかった。  この意味で見た彼らは細君よりもなお遠く健三を離れていた。外から帰った彼は、時々洋服も脱がずに、敷居の上に立ちながら、ぼんやりこれらの一団を眺めた。  「また塊っているな」  彼はすぐ踵を回らして部屋の外へ出る事があった。  時によると彼は服も改めずにすぐ其所へ胡坐をかいた。  「こう始終湯婆ばかり入れていちゃ子供の健康に悪い。出してしまえ。第一いくつ入れるんだ」  彼は何にも解らないくせに好い加減な小言をいってかえって細君から笑われたりした。  日が重なっても彼は赤ん坊を抱いて見る気にならなかった。それでいて一つ室に塊っている子供と細君とを見ると、時々別な心持を起した。  「女は子供を専領してしまうものだね」  細君は驚ろいた顔をして夫を見返した。其所には自分が今まで無自覚で実行して来た事を、夫の言葉で突然悟らされたような趣もあった。  「何で藪から棒にそんな事を仰ゃるの」  「だってそうじゃないか。女はそれで気に入らない亭主に敵討をするつもりなんだろう」  「馬鹿を仰ゃい。子供が私の傍へばかり寄り付くのは、貴夫が構い付けて御遣りなさらないからです」  「己を構い付けなくさせたものは、取も直さず御前だろう」  「どうでも勝手になさい。何ぞというと僻みばかりいって。どうせ口の達者な貴夫には敵いませんから」  健三はむしろ真面目であった。僻みとも口巧者とも思わなかった。  「女は策略が好きだからいけない」  細君は床の上で寐返りをしてあちらを向いた。そうして涙をぽたぽたと枕の上に落した。  「そんなに何も私を虐めなくっても……」  細君の様子を見ていた子供はすぐ泣き出しそうにした。健三の胸は重苦しくなった。彼は征服されると知りながらも、まだ産褥を離れ得ない彼女の前に慰藉の言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を拭いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。  次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。  「貴夫何故その子を抱いて御遣りにならないの」  「何だか抱くと険呑だからさ。頸でも折ると大変だからね」  「嘘を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合が欠けているんですよ」  「だって御覧な、ぐたぐたして抱き慣けない男に手なんか出せやしないじゃないか」  実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡の出来た時、健三の態度が俄かに一変した実例を証拠に挙げた。  「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」  健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。 「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」  彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡ての技巧から解放された自由の人であるかのように。 八十四  退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能く床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を惹く時、彼は細君に向って訊いた。  「こんなものが面白いのかい」  細君は自分の文学趣味の低い事を嘲けられるような気がした。  「いいじゃありませんか、貴夫に面白くなくったって、私にさえ面白けりゃ」  色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。  健三の所へ嫁ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入する二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは異った意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の代表者の如くに見えた。彼女の考えは単純であった。今にこの夫が世間から教育されて、自分の父のように、型が変って行くに違ないという確信を有っていた。  案に相違して健三は頑強であった。同時に細君の膠着力も固かった。二人は二人同志で軽蔑し合った。自分の父を何かにつけて標準に置きたがる細君は、ややともすると心の中で夫に反抗した。健三はまた自分を認めない細君を忌々しく感じた。一刻な彼は遠慮なく彼女を眼下に見下す態度を公けにして憚らなかった。  「じゃ貴夫が教えて下されば好いのに。そんなに他を馬鹿にばかりなさらないで」  「御前の方に教えてもらおうという気がないからさ。自分はもうこれで一人前だという腹があっちゃ、己にゃどうする事も出来ないよ」  誰が盲従するものかという気が細君の胸にあると同時に、到底啓発しようがないではないかという弁解が夫の心に潜んでいた。二人の間に繰り返されるこうした言葉争いは古いものであった。しかし古いだけで埓は一向開かなかった。  健三はもう飽きたという風をして、手摺のした貸本を投げ出した。  「読むなというんじゃない。それは御前の随意だ。しかし余まり眼を使わないようにしたら好いだろう」  細君は裁縫が一番好きであった。夜眼が冴えて寐られない時などは、一時でも二時でも構わずに、細い針の目を洋燈の下に運ばせていた。長女か次女が生れた時、若い元気に任せて、相当の時期が経過しないうちに、縫物を取上げたのが本で、大変視力を悪くした経験もあった。  「ええ、針を持つのは毒ですけれども、本位構わないでしょう。それも始終読んでいるんじゃありませんから」  「しかし疲れるまで読み続けない方が好かろう。でないと後で困る」  「なに大丈夫です」  まだ三十に足りない細君には過労の意味が能く解らなかった。彼女は笑って取り合わなかった。  「御前が困らなくっても己が困る」  健三はわざと手前勝手らしい事をいった。自分の注意を無にする細君を見ると、健三はよくこんな言葉遣いをしたがった。それがまた夫の悪い癖の一つとして細君には数えられていた。  同時に彼のノートは益細かくなって行った。最初蠅の頭位であった字が次第に蟻の頭ほどに縮まって来た。何故そんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、殆んど無意味に洋筆を走らせてやまなかった。日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈から出る薄い灯火の影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費して顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。 八十五  細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の錐を立てようとしていた。  「大変荒れた事、今年は例より寒いようね」  「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」  「そうでしょうかしら」  細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢の上に翳して、自分の爪の色を見た。  「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」  「ええ、そりゃ分ってますわ」  彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白い頬を二、三度撫でた。  「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」  健三には自分の説明を聴かない細君が可笑しく見えた。  「そりゃ冬だから寒いに極まっているさ」  細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の身体に厳しく中った。彼はやむをえず書斎に炬燵を入れて、両膝から腰のあたりに浸み込む冷を防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と異る所がなかった。  毎朝夫を送り出してから髪に櫛を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は梳くたびに櫛の歯に絡まるその抜毛を残り惜気に眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。  「新らしく生きたものを拵え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」  彼女の胸には微かにこういう感じが湧いた。しかし彼女はその微かな感じを言葉に纏めるほどの頭を有っていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、が交っていた。いずれにしても、新らしく生れた子が可愛くなるばかりであった。  彼女はぐたぐたして手応えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬へ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。  彼女は自分の傍にその子を置いて、また裁もの板の前に坐った。そうして時々針の手をやめては、暖かそうに寐ているその顔を、心配そうに上から覗き込んだ。  「そりゃ誰の着物だい」  「やっぱりこの子のです」  「そんなにいくつも要るのかい」  「ええ」  細君は黙って手を運ばしていた。  健三は漸と気が付いたように、細君の膝の上に置かれた大きな模様のある切地を眺めた。  「それは姉から祝ってくれたんだろう」  「そうです」  「下らない話だな。金もないのに止せば好いのに」  健三から貰った小遣の中を割いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。  「つまり己の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」  「でも貴夫に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」  姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。  「どうも困るね、そう義埋々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」  こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。  「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」  他を訪問する時に殆んど土産ものを持参した例のない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんす[#「めりんす」に傍点]を見詰めていた。 八十六  「だから元は御姉さんの所へ皆なが色んな物を持って来たんですって」  細君は健三の顔を見て突然こんな事をいい出した。――  「十のものには十五の返しをなさる御姉さんの気性を知ってるもんだから、皆なその御礼を目的に何か呉れるんだそうですよ」  「十のものに十五の返しをするったって、高が五十銭が七十五銭になるだけじゃないか」  「それで沢山なんでしょう。そういう人たちは」  他から見ると酔興としか思われないほど細かなノートばかり拵えている健三には、世の中にそんな人間が生きていようとさえ思えなかった。  「随分厄介な交際だね。だいち馬鹿々々しいじゃないか」  「傍から見れば馬鹿々々しいようですけれども、その中に入ると、やっぱり仕方がないんでしょう」  健三はこの間よそから臨時に受取った三十円を、自分がどう消費してしまったかの問題について考えさせられた。  今から一カ月余り前、彼はある知人に頼まれてその男の経営する雑誌に長い原稿を書いた。それまで細かいノートより外に何も作る必要のなかった彼に取ってのこの文章は、違った方面に働いた彼の頭脳の最初の試みに過ぎなかった。彼はただ筆の先に滴る面白い気分に駆られた。彼の心は全く報酬を予期していなかった。依頼者が原稿科を彼の前に置いた時、彼は意外なものを拾ったように喜んだ。  兼てからわが座敷の如何にも殺風景なのを苦に病んでいた彼は、すぐ団子坂にある唐木の指物師の所へ行って、紫檀の懸額を一枚作らせた。彼はその中に、支那から帰った友達に貰った北魏の二十品という石摺のうちにある一つを択り出して入れた。それからその額を環の着いた細長い胡麻竹の下へ振ら下げて、床の間の釘へ懸けた。竹に丸味があるので壁に落付かないせいか、額は静かな時でも斜に傾いた。  彼はまた団子坂を下りて谷中の方へ上って行った。そうして其所にある陶器店から一個の花瓶を買って来た。花瓶は朱色であった。中に薄い黄で大きな草花が描かれていた。高さは一尺余りであった。彼はすぐそれを床の間の上へ載せた。大きな花瓶とふらふらする比較的小さい懸額とはどうしても釣合が取れなかった。彼は少し失望したような眼をしてこの不調和な配合を眺めた。けれどもまるで何にもないよりは増しだと考えた。趣味に贅沢をいう余裕のない彼は、不満足のうちに満足しなければならなかった。  彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物を買った。織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好い加減な選択をした。それはむやみに光る絣であった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭に揃いの羽織と着物を拵えるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙を抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。  これらの物を買い調えた彼は毫も他人について考えなかった。新らしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を過重する姉に比べて見ると、彼は憐れなものに対する好意すら失なっていた。  「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての見栄坊なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」  「親切気はまるでないんでしょうか」  「そうさな」  健三はちょっと考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。  「ことによると己の方が不人情に出来ているのかも知れない」 八十七  この会話がまだ健三の記憶を新しく彩っていた頃、彼は御常から第二回の訪問を受けた。  先達て見た時とほぼ同じように粗末な服装をしている彼女の恰好は、寒さと共に襦袢胴着の類でも重ねたのだろう、前よりは益丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢をすぐその人の方へ押し遣った。  「いえもう御構い下さいますな。今日は大分御暖かで御座いますから」  外部には穏やかな日が、障子に篏めた硝子越に薄く光っていた。  「あなたは年を取って段々御肥りになるようですね」  「ええ御蔭さまで身体の方はまことに丈夫で御座います」  「そりゃ結構です」  「その代り身上の方はただ痩せる一方で」  健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えるところもあった。  「酒でも飲むんじゃなかろうか」  こんな推察さえ彼の胸を横切った。  御常の肌身に着けているものは悉とく古びていた。幾度水を潜ったか分らないその着物なり羽織なりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗に洗張が出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。  「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」  「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」  健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。  「この人は己を自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」  近頃の健三は実際健康を損なっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも診てもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]した。或時は他が自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。  「年が若くって起居に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構の宅に住んで下女さえ使っていれば金でもあると考えるように」  健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしく床の間に飾られた花瓶とその後に懸っている懸額とを眺めた。近いうちに袖を通すべきぴかぴかする反物も彼の心のうちにあった。彼は何故この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。  「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」  彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。  御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕がすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つも見当らないらしかった。  「何しろ取高が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼いでくれると好いのですけれども」  彼女は自分の娘婿を捉まえて愚図だとも無能だともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも物指で反物の寸法さえ計れば、縞柄だの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。  生憎健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。 八十八  好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。  「失礼ですがこれで俥へでも乗って行って下さい」  「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで上ったのでは御座いませんから」  彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐へ入れた。  小遣を遣る時の健三がこの前と同じ挨拶を用いたように、それを貰う御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という金高さえ一致していた。  「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」  健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。  「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要らざる義理立をするのと同じ事なのかしら」  自分の関係した事じゃないといった風に熨斗を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――  「ないときは遣らないでも好いじゃありませんか。何もそう見栄を張る必要はないんだから」  「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」  二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗から火鉢へ移す音がその間に聞こえた。  「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫の紙入に」  健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶を買うのに四円いくらか払った。懸額を誂らえるとき五円なにがしか取られた。指物師が百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀の書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢の付いた五円札がたった一枚残ったのである。  「実はまだ買いたいものがあるんだがな」  「何を御買いになるつもりだったの」  健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。  「沢山あるんだ」  慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚を有っている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。  「あの御婆さんは御姉さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と宅で落ち合っても、そう喧嘩もしないでしょう」  「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」  「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」  「喧嘩はとにかく、己の方が厭じゃないか」  「二人ともまだ知らないようね。片っ方が宅へ来る事を」  「どうだか」  島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。  「あの御婆さんの方がまだあの人より好いでしょう」  「どうして」  「五円貰うと黙って帰って行くから」  島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。 八十九  日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を聯想した。  彼らだって生れ付いての敵同志でない以上、仲の好い昔もあったに違ない。他から爪に灯を点すようだといわれるのも構わずに、金ばかり溜めた当時は、どんなに楽しかったろう。どんな未来の希望に支配されていただろう。彼らに取って睦ましさの唯一の記念とも見るべきその金がどこかへ飛んで行ってしまった後、彼らは夢のような自分たちの過去を、果してどう眺めているだろう。  健三はもう少しで御常の話を島田にするところであった。しかし過去に無感覚な表情しか有たない島田の顔は、何事も覚えていないように鈍かった。昔の憎悪、古い愛執、そんなものは当時の金と共に彼の心から消え失せてしまったとしか思われなかった。  彼は腰から烟草入を出して、刻み烟草を雁首へ詰めた。吸殻を落すときには、左の掌で烟管を受けて、火鉢の縁を敲かなかった。脂が溜っていると見えて、吸う時にじゅじゅ音がした。彼は無言で懐中を探った。それから健三の方を向いた。  「少し紙はありませんか、生憎烟管が詰って」  彼は健三から受取った半紙を割いて小撚を拵えた。それで二返も三返も羅宇の中を掃除した。彼はこういう事をするのに最も馴れた人であった。健三は黙ってその手際を見ていた。  「段々暮になるんでさぞ御忙がしいでしょう」  彼は疎通の好くなった烟管をぷっぷっと心持好さそうに吹きながらこういった。  「我々の家業は暮も正月もありません。年が年中同じ事です」  「そりゃ結構だ。大抵の人はそうは行きませんよ」  島田がまだ何かいおうとしているうちに、奥で子供が泣き出した。  「おや赤ん坊のようですね」  「ええ、つい此間生れたばかりです」  「そりゃどうも。些とも知りませんでした。男ですか女ですか」  「女です」  「へええ、失礼だがこれで幾人目ですか」  島田は色々な事を訊いた。それに相当な受応をしている健三の胸にどんな考えが浮かんでいるかまるで気が付かなかった。  出産率が殖えると死亡率も増すという統計上の議論を、つい四、五日前ある外国の雑誌で読んだ健三は、その時赤ん坊がどこかで一人生れれば、年寄が一人どこかで死ぬものだというような理窟とも空想とも付かない変な事を考えていた。  「つまり身代りに誰かが死ななければならないのだ」  彼の観念は夢のようにぼんやりしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと明瞭になるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三は其所まで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のある眼を注いだ。何のために生きているか殆んど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。  「どういう訳でこう丈夫なのだろう」  健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態については、毫も責任がないものの如き忌々しさを感じた。その時島田は彼に向って突然こういった。――  「御縫もとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」  とても助からないという事だけは、脊髄病という名前から推して、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。  「そうですか。可愛想に」  「なに病気が病気だからとても癒りっこないんです」  島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。 九十  しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも遥に重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。  「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」  此所まで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からその後を推察する事が出来た。  「また金でしょう」  「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」  島田の言葉は変にぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]になったり、また鄭寧になったりした。  「今までは金鵄勲章の年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで目的が外れるような始末で、私も困るんです」  彼はまた調子を改めた。  「とにかくこうなっちゃ、御前を措いてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどうかしてくれなくっちゃ困る」  「そう他にのし懸って来たって仕方がありません。今の私にはそれだけの事をしなければならない因縁も何もないんだから」  島田は凝と健三の顔を見た。半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼付は、単に相手の心を激昂させるだけであった。健三の態度から深入の危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。  「永い間の事はまた緩々御話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」  健三にはどういう急場が彼らの間に持ち上っているのか解らなかった。  「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこの宅だって暮になりゃ百と二百と纏った金の要るのは当り前だろう」  健三は勝手にしろという気になった。  「私にそんな金はありませんよ」  「笑談いっちゃいけない。これだけの構をしていて、その位の融通が利かないなんて、そんなはずがあるもんか」  「あってもなくっても、ないからないというだけの話です」  「じゃいうが、御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」  健三はこの無茶苦茶な言掛りに怒らされるよりはむしろ驚ろかされた。  「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方の関係した事じゃありません」  島田は其所まで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。  「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」  「ええ、もう一文も上ません」  島田は立ち上った。沓脱へ下りて、開けた格子を締める時に、彼はまた振り返った。  「もう参上りませんから」  最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗い中に輝やいた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見下した。しかし彼はその輝きのうちに何らの凄さも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。彼自身の眸から出る怒りと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。  細君は遠くから暗に健三の気色を窺った。  「一体どうしたんです」  「勝手にするが好いや」  「また御金でも呉れろって来たんですか」  「誰が遣るもんか」  細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。  「あの御婆さんの方が細く長く続くからまだ安全ね」  「島田の方だって、これで片付くもんかね」  健三は吐き出すようにこういって、来るべき次の幕さえ頭の中に予想した。 九十一  同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭どい眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔を鮮明かに眺めた。  実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損いが舞い込んで来たかという顔付をした父は、殆んど子としての待遇を彼に与えなかった。今までと打って変った父のこの態度が、生の父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を背負い込んでからすぐ慳貪に調子を改めた父とを比較して一度は驚ろいた。次には愛想をつかした。しかし彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育に伴なう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡げた。彼は遂に憂欝にならずに済んだ。  子供を沢山有っていた彼の父は、毫も健三に依怙る気がなかった。今に世話になろうという下心のないのに、金を掛けるのは一銭でも惜しかった。繋がる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見て遣るのは、ただ損になるだけであった。  その上肝心の本人は帰って来ても籍は復らなかった。いくら実家で丹精して育て上たにしたところで、いざという時に、また伴れて行かれればそれまでであった。  「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。しかしその外の事はこっちじゃ構えない。先方でするのが当然だ」  父の理窟はこうであった。  島田はまた島田で自分に都合の好い方からばかり事件の成行を観望していた。  「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時表沙汰にしてでもこっちへ奪還くってしまえばそれまでだ」  健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものも食い、時には山のものにも手を出した。  実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。むしろ物品であった。ただ実父が我楽多として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった。  「もうこっちへ引き取って、給仕でも何でもさせるからそう思うがいい」  健三が或日養家を訪問した時に、島田は何かのついでにこんな事をいった。健三は驚ろいて逃げ帰った。酷薄という感じが子供心に淡い恐ろしさを与えた。その時の彼は幾歳だったか能く覚えていないけれども、何でも長い間の修業をして立派な人間になって世間に出なければならないという慾が、もう充分萌している頃であった。  「給仕になんぞされては大変だ」  彼は心のうちで何遍も同じ言葉を繰り返した。幸にしてその言葉は徒労に繰り返されなかった。彼はどうかこうか給仕にならずに済んだ。  「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」  彼はこう考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲と能く闘い終せたものだという誇りも大分交っていた。そうしてまだ出来上らないものを、既に出来上ったように見る得意も無論含まれていた。  彼は過去と現在との対照を見た。過去がどうしてこの現在に発展して来たかを疑がった。しかもその現在のために苦しんでいる自分にはまるで気が付かなかった。  彼と島田との関係が破裂したのは、この現在の御蔭であった。彼が御常を忌むのも、姉や兄と同化し得ないのもこの現在の御蔭であった。細君の父と段々離れて行くのもまたこの現在の御蔭に違なかった。一方から見ると、他と反が合わなくなるように、現在の自分を作り上げた彼は気の毒なものであった。 九十二  細君は健三に向っていった。――  「貴夫に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」  健三の心はこうした諷刺を笑って受けるほど落付いていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を益窮屈にした。  「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好いと思っているんだろう」  「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」  生憎細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。  彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手をしたなり澄ましていた。行李一つ絡げるにさえ、彼は細紐をどう渡すべきものやら分らなかった。  「男のくせに」  動かない彼は、傍のものの眼に、如何にも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を益反対の方面に移して行った。  彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎へ伴れて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐をかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。  「あれじゃ仕方がない。私に御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」  健三の申出は細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を恣まにする我子を見て、何という未来の心配も抱いていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。  「もし田舎へ遣って貴夫と衝突したり何かすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」  細君の弁解を聞いた時、健三は満更の嘘とも思わなかった。けれどもその他にまだ意味が残っているようにも考えた。  「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」  周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所にあるのではなかろうかと推察した。  なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、今日に至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。  「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」  健三の言葉は勢い権柄ずくであった。傷けられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。  機嫌の直った時細君はまた健三に向った。――  「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら好いでしょう」  「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり捏ね返すっていうじゃないか」  「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六ずかしい理窟はやめにして」  「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」  「だって貴夫の理窟は、他を捻じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」  「御前の頭が悪いからそう思うんだ」  「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌ですよ」  二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。 九十三  面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。そうして其所に寐ている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。  章魚のようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別の牆もなかった。自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻した。  「貴夫が私のものでなくっても、この子は私の物よ」  彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。  その赤ん坊はまだ眼鼻立さえ判明していなかった。頭には何時まで待っても殆んど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。  「変な子が出来たものだなあ」  健三は正直な所をいった。  「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」  「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」  「今に御覧なさい」  細君はさも自信のあるような事をいった。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために夜中何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ逢着した。  四、五日前少し強い地震のあった時、臆病な彼はすぐ縁から庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へ上って来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。  「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」  何故子供の安危を自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。咄嗟の衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。  「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」  「当り前ですわ」  健三は自分が如何にも不人情のような気がした。  しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえって冷かに眺めた。  「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」  しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。  「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るに極っている。御前は己と離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」  書斎に落付いた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。  「芭蕉に実が結ると翌年からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」  彼は母の立場をこう考え尽した後、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い到った時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。  「子供を有った御前は仕合せである。しかしその仕合を享ける前に御前は既に多大な儀牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」 九十四  年は段々暮れて行った。寒い風の吹く中に細かい雪片がちらちらと見え出した。子供は日に何度となく「もういくつ寐ると御正月」という唄をうたった。彼らの心は彼らの口にする唱歌の通りであった。来るべき新年の希望に充ちていた。  書斎にいる健三は時々手に洋筆を持ったまま、彼らの声に耳を傾けた。自分にもああいう時代があったのかしらなどと考えた。  子供はまた「旦那の嫌な大晦日」という毬歌をうたった。健三は苦笑した。しかしそれも今の自分の身の上には痛切に的中らなかった。彼はただ厚い四つ折の半紙の束を、十も二十も机の上に重ねて、それを一枚ごとに読んで行く努力に悩まされていた。彼は読みながらその紙へ赤い印気で棒を引いたり丸を書いたり三角を附けたりした。それから細かい数字を並べて面倒な勘定もした。  半紙に認ためられたものは悉く鉛筆の走り書なので、光線の暗い所では字画さえ判然しないのが多かった。乱暴で読めないのも時々出て来た。疲れた眼を上げて、積み重ねた束を見る健三は落胆した。「ペネロピーの仕事」という英語の俚諺が何遍となく彼の口に上った。  「何時まで経ったって片付きゃしない」  彼は折々筆を擱いて溜息をついた。  しかし片付かないものは、彼の周囲前後にまだいくらでもあった。彼は不審な顔をしてまた細君の持って来た一枚の名刺に眼を注がなければならなかった。  「何だい」  「島田の事についてちょっと御目に掛りたいっていうんです」  「今差支るからって返してくれ」  一度立った細君はすぐまた戻って来た。  「何時伺ったら好いか御都合を聞かして頂きたいんですって」  健三はそれどころじゃないという顔をしながら、自分の傍に高く積み重ねた半紙の束を眺めた。細君は仕方なしに催促した。  「何といいましょう」  「明後日の午後に来て下さいといってくれ」  健三も仕方なしに時日を指定した。  仕事を中絶された彼はぼんやり烟草を吹かし始めた。ところへ細君がまた入って来た。  「帰ったかい」  「ええ」  細君は夫の前に広げてある赤い印の附いた汚ならしい書きものを眺めた。夜中に何度となく赤ん坊のために起こされる彼女の面倒が健三に解らないように、この半紙の山を綿密に読み通す夫の困難も細君には想像出来なかった。――  調べ物を度外に置いた彼女は、坐るとすぐ夫に訊ねた。――  「また何かそういって来る気でしょうね。執ッ濃い」  「暮のうちにどうかしようというんだろう。馬鹿らしいや」  細君はもう島田を相手にする必要がないと思った。健三の心はかえって昔の関係上多少の金を彼に遣る方に傾いていた。しかし話は其所まで発展する機会を得ずによそへ外れてしまった。  「御前の宅の方はどうだい」  「相変らず困るんでしょう」  「あの鉄道会社の社長の口はまだ出来ないのかい」  「あれは出来るんですって。けれどもそうこっちの都合の好いように、ちょっくらちょいとという訳には行かないんでしょう」  「この暮のうちには六ずかしいのかね」  「とても」  「困るだろうね」  「困っても仕方がありませんわ。何もかもみんな運命なんだから」  細君は割合に落付いていた。何事も諦らめているらしく見えた。 九十五  見知らない名刺の持参者が、健三の指定した通り、中一日置いて再び彼の玄関に現れた時、彼はまだささくれた洋筆先で、粗末な半紙の上に、丸だの三角だのと色々な符徴を附けるのに忙がしかった。彼の指頭は赤い印気で所々汚れていた。彼は手も洗わずにそのまま座敷へ出た。  島田のために来たその男は、前の吉田に比べると少し型を異にしていたが、健三からいえば、双方とも殆んど差別のない位懸け離れた人間であった。  彼は縞の羽織に角帯を締めて白足袋を穿いていた。商人とも紳土とも片の付かない彼の様子なり言葉遣なりは、健三に差配という一種の人柄を思い起させた。彼は自分の身分や職業を打ら明ける前に、卒然として健三に訊いた。――  「貴方は私の顔を覚えて御出ですか」  健三は驚ろいてその人を見た。彼の顔には何らの特徴もなかった。強いていえば、今日までただ世帯染みて生きて来たという位のものであった。  「どうも分りませんね」  彼は勝ち誇った人のように笑った。  「そうでしょう。もう忘れても好い時分ですから」  彼は区切を置いてまた附け加えた。  「しかし私ゃこれでも貴方の坊ちゃん坊ちゃんていわれた昔をまだ覚えていますよ」  「そうですか」  健三は素ッ気ない挨拶をしたなり、その人の顔を凝と見守った。  「どうしても思い出せませんかね。じゃ御話ししましょう。私ゃ昔し島田さんが扱所を遣っていなすった頃、あすこに勤めていたものです。ほら貴方が悪戯をして、小刀で指を切って、大騒ぎをした事があるでしょう。あの小刀は私の硯箱の中にあったんでさあ。あの時金盥に水を取って、貴方の指を冷したのも私ですぜ」  健三の頭にはそうした事実が明らかにまだ保存されていた。しかし今自分の前に坐っている人のその時の姿などは夢にも憶い出せなかった。  「その縁故で今度また私が頼まれて、島田さんのために上ったような訳合なんです」  彼は直本題に入った。そうして健三の予期していた通り金の請求をし始めた。  「もう再び御宅へは伺わないといってますから」  「この間帰る時既にそういって行ったんです」  「で、どうでしょう、此所いらで綺麗に片を付ける事にしたら。それでないと何時まで経っても貴方が迷惑するぎりですよ」  健三は迷惑を省いてやるから金を出せといった風な相手の口気を快よく思わなかった。  「いくら引っ懸っていたって、迷惑じゃありません。どうせ世の中の事は引っ懸りだらけなんですから。よし迷惑だとしても、出すまじき金を出す位なら、出さないで迷惑を我慢していた方が、私にはよッぽど心持が好いんです」  その人はしばらく考えていた。少し困ったという様子も見えた。しかしやがて口を開いた時は思いも寄らない事をいい出した。  「それに貴方も御承知でしょうが、離縁の際貴方から島田へ入れた書付がまだ向うの手にありますから、この際いくらでも纏めたものを渡して、あの書付と引き易えになすった方が好くはありませんか」  健三はその書付を慥に覚えていた。彼が実家へ復籍する事になった時、島田は当人の彼から一札入れてもらいたいと主張したので、健三の父もやむをえず、何でも好いから書いて遣れと彼に注意した。何も書く材科のない彼は仕方なしに筆を執った。そうして今度離縁になったについては、向後御互に不義理不人情な事はしたくないものだという意味を僅二行余に綴って先方へ渡した。  「あんなものは反故同然ですよ。向で持っていても役に立たず、私が貰っても仕方がないんだ。もし利用出来る気ならいくらでも利用したら好いでしょう」  健三にはそんな書付を売り付けに掛るその人の態度がなお気に入らなかった。 九十六  話が行き詰るとその人は休んだ。それから好い加減な時分にまた同じ問題を取り上げた。いう事は散漫であった。理で押せなければ情に訴えるという風でもなかった。ただ物にさえすれば好いという料簡が露骨に見透かされた。収束するところなく共に動いていた健三はしまいに飽きた。  「書付を買えの、今に迷惑するのが厭なら金を出せのといわれるとこっちでも断るより外に仕方がありませんが、困るからどうかしてもらいたい、その代り向後一切無心がましい事はいって来ないと保証するなら、昔の情義上少しの工面はして上げても構いません」  「ええそれがつまり私の来た主意なんですから、出来るならどうかそう願いたいもんで」  健三はそんなら何故早くそういわないのかと思った。同時に相手も、何故もっと早くそういってくれないのかという顔付をした。  「じゃどの位出して下さいます」  健三は黙って考えた。しかしどの位が相当のところだか判明した目安の出て来ようはずはなかった。その上なるべく少ない方が彼の便宜であった。  「まあ百円位なものですね」  「百円」  その人はこう繰り返した。  「どうでしょう、責めて三百円位にして遣る訳には行きますまいか」  「出すべき理由さえあれば何百円でも出します」  「御尤もだが、島田さんもああして困ってるもんだから」  「そんな事をいやあ、私だって困っています」  「そうですか」  彼の語気はむしろ皮肉であった。  「元来一文も出さないといったって、貴方の方じゃどうする事も出来ないんでしょう。百円で悪けりゃ御止しなさい」  相手は漸く懸引をやめた。  「じゃともかくも本人によくそう話して見ます。その上でまた上る事にしますから、どうぞ何分」  その人が帰った後で健三は細君に向った。  「とうとう来た」  「どうしたっていうんです」  「また金を取られるんだ。人さえ来れば金を取られるに極ってるから厭だ」  「馬鹿らしい」  細君は別に同情のある言葉を口へ出さなかった。  「だって仕方がないよ」  健三の返事も簡単であった。彼は其所へ落付くまでの筋道を委しく細君に話してやるのさえ面倒だった。  「そりゃ貴夫の御金を貴夫が御遣りになるんだから、私何もいう訳はありませんわ」  「金なんかあるもんか」  健三は擲き付けるようにこういって、また書斎へ入った。其所には鉛筆で一面に汚された紙が所々赤く染ったまま机の上で彼を待っていた。彼はすぐ洋筆を取り上げた。そうして既に汚れたものをなおさら赤く汚さなければならなかった。  客に会う前と会った後との気分の相違が、彼を不公平にしはしまいかとの恐れが彼の心に起った時、彼は一旦読みおわったものを念のためまた読んだ。それですら三時間前の彼の標準が今の標準であるかどうか、彼には全く分らなかった。  「神でない以上公平は保てない」  彼はあやふや[#「あやふや」に傍点]な自分を弁護しながら、ずんずん眼を通し始めた。しかし積重ねた半紙の束は、いくら速力を増しても尽きる期がなかった。漸く一組を元のように折るとまた新らしく一組を開かなければならなかった。  「神でない以上辛抱だってし切れない」  彼はまた洋筆を放り出した。赤い印気が血のように半紙の上に滲んだ。彼は帽子を被って寒い往来へ飛び出した。 九十七  人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。  「御前は必竟何をしに世の中に生れて来たのだ」  彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。  「分らない」  その声は忽ちせせら笑った。  「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」  「己のせいじゃない。己のせいじゃない」  健三は逃げるようにずんずん歩いた。  賑やかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を刺撃した。彼の気分は漸く変った。  彼は客の注意を惹くために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店頭を、それからそれと覗き込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹の根懸だの、蒔絵の櫛笄だのを、硝子越に何の意味もなく長い間眺めていた。  「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」  少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君も殆んど何にも買わないといってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる連中ばかりであった。中にも細君の父は一番非道そうに思われた。  「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」  借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。  それは内閣の瓦解した当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの退ぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。しかし多数の候補者の中から、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選に洩れた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門に逼った。官邸を引き払った時に召仕の数を減らした彼は、少時くして自用俥を廃した。しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追って益悲境に沈んで行った。  「相場に手を出したのが悪いんですよ」  細君はこんな事もいった。  「御役人をしている間は相場師の方で儲けさせてくれるんですって。だから好いけれども、一旦役を退くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」  「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」  「貴方に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」  「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極っちまうじゃないか。馬鹿な女だな」  健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶い出した。  彼はふと気が付いた。彼と擦れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的を有っているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。  或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥を与えた。  「御前は馬鹿だよ」  稀にはこんな顔付をするものさえあった。  彼はまた宅へ帰って赤い印気を汚ない半紙へなすくり始めた。 九十八  二、三日すると島田に頼まれた男がまた刺を通じて面会を求めに来た。行掛り上断る訳に行かなかった健三は、座敷へ出て差配じみたその人の前に、再び坐るべく余儀なくされた。  「どうも御忙がしいところを度々出まして」  彼は世事慣れた男であった。口で気の毒そうな事をいう割に、それほど殊勝な様子を彼の態度のどこにも現わさなかった。  「実はこの間の事を島田によく話しましたところ、そういう訳なら致し方がないから、金額はそれで宜しい、その代りどうか年内に頂戴致したい、とこういうんですがね」  健三にはそんな見込がなかった。  「年内たってもう僅かの日数しかないじゃありませんか」  「だから向うでも急ぐような訳でしてね」  「あれば今すぐ上げても好いんです。しかしないんだから仕方がないじゃありませんか」  「そうですか」  二人は少時無言のままでいた。  「どうでしょう、其所のところを一つ御奮発は願われますまいか。私も折角こうして忙がしい中を、島田さんのために、わざわざ遣って来たもんですから」  それは彼の勝手であった。健三の心を動かすに足るほどの手数でも面倒でもなかった。  「御気の毒ですが出来ませんね」  二人はまた沈黙を間に置いて相対した。  「じゃ何時頃頂けるんでしょう」  健三には何時という目的もなかった。  「いずれ来年にでもなったらどうにかしましょう」  「私もこうして頼まれて上った以上、何とか向へ返事をしなくっちゃなりませんから、せめて日限でも一つ御取極を願いたいと思いますが」  「御尤もです。じゃ正月一杯とでもして置きましょう」  健三はそれより外にいいようがなかった。相手は仕方なしに帰って行った。  その晩寒さと倦怠を凌ぐために蕎麦湯を拵えてもらった健三は、どろどろした鼠色のものを啜りながら、盆を膝の上に置いて傍に坐っている細君と話し合った。  「また百円どうかしなくっちゃならない」  「貴夫が遣らないでも好いものを遣るって約束なんぞなさるから後で困るんですよ」  「遣らないでもいいのだけれども、己は遣るんだ」  言葉の矛盾がすぐ細君を不快にした。  「そう依故地を仰しゃればそれまでです」  「御前は人を理窟ぽいとか何とかいって攻撃するくせに、自分にゃ大変形式ばった所のある女だね」  「貴夫こそ形式が御好きなんです。何事にも理窟が先に立つんだから」  「理窟と形式とは違うさ」  「貴夫のは同なじですよ」  「じゃいって聞かせるがね、己は口にだけ論理を有っている男じゃない。口にある論理は己の手にも足にも、身体全体にもあるんだ」  「そんなら貴夫の理窟がそう空っぽうに見えるはずがないじゃありませんか」  「空っぽうじゃないんだもの。丁度ころ柿の粉のようなもので、理窟が中から白く吹き出すだけなんだ。外部から喰付けた砂糖とは違うさ」  こんな説明が既に細君には空っぽうな理窟であった。何でも眼に見えるものを、しっかと手に掴まなくっては承知出来ない彼女は、この上夫と議論する事を好まなかった。またしようと思っても出来なかった。  「御前が形式張るというのはね。人間の内側はどうでも、外部へ出た所だけを捉まえさえすれば、それでその人間が、すぐ片付けられるものと思っているからさ。丁度御前の御父さんが法律家だもんだから、証拠さえなければ文句を付けられる因縁がないと考えているようなもので……」  「父はそんな事をいった事なんぞありゃしません。私だってそう外部ばかり飾って生きてる人間じゃありません。貴夫が不断からそんな僻んだ眠で他を見ていらっしゃるから……」  細君の瞼から涙がぽたぽた落ちた。いう事がその間に断絶した。島田に遣る百円の話しが、飛んだ方角へ外れた。そうして段々こんがらか[「こんがらか」に傍点]って来た。 九十九  また二、三日して細君は久しぶりに外出した。  「無沙汰見舞かたがた少し歳暮に廻って来ました」  乳呑児を抱いたまま健三の前へ出た彼女は、寒い頬を赤くして、暖かい空気の裡に尻を落付た。  「御前の宅はどうだい」  「別に変った事もありません。ああなると心配を通り越して、かえって平気になるのかも知れませんね」  健三は挨拶の仕様もなかった。  「あの紫檀の机を買わないかっていうんですけれども、縁起が悪いから止しました」  舞葡萄とかいう木の一枚板で中を張り詰めたその大きな唐机は、百円以上もする見事なものであった。かつて親類の破産者からそれを借金の抵当に取った細君の父は、同じ運命の下に、早晩それをまた誰かに持って行かれなければならなかったのである。  「縁起はどうでも好いが、そんな高価いものを買う勇気は当分こっちにもなさそうだ」  健三は苦笑しながら烟草を吹かした。  「そういえば貴夫、あの人に遣る御金を比田さんから借りなくって」  細君は藪から棒にこんな事をいった。  「比田にそれだけの余裕があるのかい」  「あるのよ。比田さんは今年限り株式の方をやめられたんですって」  健三はこの新らしい報知を当然とも思った。また異様にも感じた。  「もう老朽だろうからね。しかしやめられれば、なお困るだろうじゃないか」  「追ってはどうなるか知れないでしょうけれども、差当り困るような事はないんですって」  彼の辞職は自分を引き立ててくれた重役の一人が、社と関係を絶った事に起因しているらしかった。けれども永年勤続して来た結果、権利として彼の手に入るべき金は、一時彼の経済状態を潤おすには充分であった。  「居食をしていても詰らないから、確かな人があったら貸したいからどうか世話をしてくれって、今日頼まれて来たんです」  「へえ、とうとう金貸を遣るようになったのかい」  健三は平生から島田の因業を嗤っていた比田だの姉だのを憶い浮べた。自分たちの境遇が変ると、昨日まで軽蔑していた人の真似をして恬として気の付かない姉夫婦は、反省の足りない点においてむしろ子供染みていた。  「どうせ高利なんだろう」  細君は高利だか低利だかまるで知らなかった。  「何でも旨く運転すると月に三、四十円の利子になるから、それを二人の小遣にして、これから先細く長く遣って行くつもりだって、御姉えさんがそう仰ゃいましたよ」  健三は姉のいう利子の高から胸算用で元金を勘定して見た。  「悪くすると、またみんな損っちまうだけだ。それよりそう慾張ないで、銀行へでも預けて置いて相当の利子を取る方が安全だがな」  「だから確な人に貸したいっていうんでしょう」  「確な人はそんな金は借りないさ。怖いからね」  「だけど普通の利子じゃ遣って行けないんでしょう」  「それじゃ己だって借りるのは厭ださ」  「御兄いさんも困っていらしってよ」  比田は今後の方針を兄に打ち明けると同時に、先ずその手始として、兄に金を借りてくれと頼んだのだそうである。  「馬鹿だな。金を借りてくれ、借りてくれって、こっちから頼む奴もないじゃないか。兄貴だって金は欲しいだろうが、そんな剣呑な思いまでして借りる必要もあるまいからね」  健三は苦々しいうちにも滑稽を感じた。比田の手前勝手な気性がこの一事でも能く窺われた。それを傍で見て澄ましている姉の料簡も彼には不可思議であった。血が続いていても姉弟という心持は全くしなかった。  「御前己が借りるとでもいったのかい」  「そんな余計な事いやしません」 百  利子の安い高いは別問題として、比田から融通してもらうという事が、健三にはとても真面目に考えられなかった。彼は毎月いくらかずつの小遣を姉に送る身分であった。その姉の亭主から今度はこっちで金を借りるとなると、矛盾は誰の眼にも映る位明白であった。  「辻褄の合わない事は世の中にいくらでもあるにはあるが」  こういい掛けた彼は突然笑いたくなった。  「何だか変だな。考えると可笑しくなるだけだ。まあ好いや己が借りて遣らなくってもどうにかなるんだろうから」  「ええ、そりゃ借手はいくらでもあるんでしょう。現にもう一口ばかり貸したんですって。彼所いらの待合か何かへ」  待合という言葉が健三の耳になおさら滑稽に響いた。彼は我を忘れたように笑った。細君にも夫の姉の亭主が待合へ小金を貸したという事実が不調和に見えた。けれども彼女はそれを夫の名前に関わると思うような性質ではなかった。ただ夫と一所になって面白そうに笑っていた。  滑稽の感じが去った後で反動が来た。健三は比田について不愉快な昔まで思い出させられた。  それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であった。病人は平生から自分の持っている両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「これを今に御前に遣ろう」と殆んど口癖のようにいっていた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らないその装飾品が、何時になったら自分の帯に巻き付けられるのだろうかと想像して、暗に未来の得意を予算に組み込みながら、一、二カ月を暮した。  病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなった人の記念とも見るべきこの品物は、不幸にして質に入れてあった。無論健三にはそれを受出す力がなかった。彼は義姉から所有権だけを譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。  或日皆なが一つ所に落合った。するとその席上で比田が問題の時計を懐中から出した。時計は見違えるように磨かれて光っていた。新らしい紐に珊瑚樹の珠が装飾として付け加えられた。彼はそれを勿体らしく兄の前に置いた。  「それではこれは貴方に上げる事にしますから」  傍にいた姉も殆んど比田と同じような口上を述べた。  「どうも色々御手数を掛けまして、有難う。じゃ頂戴します」  兄は礼をいってそれを受取った。  健三は黙って三人の様子を見ていた。三人は殆んど彼の其所にいる事さえ眼中に置いていなかった。しまいまで一言も発しなかった彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたような心持がした。しかし彼らは平気であった。彼らの仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故彼らがそんな面中がましい事をしたのか、どうしても考え出せなかった。  彼は自分の権利も主張しなかった。また説明も求めなかった。ただ無言のうちに愛想を尽かした。そうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼らに取って一番非道い刑罰に違なかろうと判断した。  「そんな事をまだ覚えていらっしゃるんですか。貴夫も随分執念深いわね。御兄いさんが御聴きになったらさぞ御驚ろきなさるでしょう」  細君は健三の顔を見て暗にその気色を伺った。健三はちっとも動かなかった。  「執念深かろうが、男らしくなかろうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたって、感情を打ち殺す訳には行かないからね。その時の感情はまだ生きているんだ。生きて今でもどこかで働いているんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」  「御金なんか借りさえしなきゃあ、それで好いじゃありませんか」  こういった細君の胸には、比田たちばかりでなく、自分の事も、自分の生家の事も勘定に入れてあった。 百一  歳が改たまった時、健三は一夜のうちに変った世間の外観を、気のなさそうな顔をして眺めた。  「すべて余計な事だ。人間の小刀細工だ。」  実際彼の周囲には大晦日も元日もなかった。悉く前の年の引続きばかりであった。彼は人の顔を見て御目出とうというのさえ厭になった。そんな殊更な言葉を口にするよりも誰にも会わずに黙っている方がまだ心持が好かった。  彼は普通の服装をしてぶらりと表へ出た。なるべく新年の空気の通わない方へ足を向けた。冬木立と荒た畠、藁葺屋根と細い流、そんなものが盆槍した彼の眼に入った。しかし彼はこの可憐な自然に対してももう感興を失っていた。  幸い天気は穏かであった。空風の吹き捲らない野面には春に似た靄が遠く懸っていた。その間から落ちる薄い日影もおっとりと彼の身体を包んだ。彼は人もなく路もない所へわざわざ迷い込んだ。そうして融けかかった霜で泥だらけになった靴の重いのに気が付いて、しばらく足を動かさずにいた。彼は一つ所に佇立んでいる間に、気分を紛らそうとして絵を描いた。しかしその絵があまり不味いので、写生はかえって彼を自暴にするだけであった。彼は重たい足を引き摺ってまた宅へ帰って来た。途中で島田に遣るべき金の事を考えて、ふと何か書いて見ようという気を起した。  赤い印気で汚ない半紙をなすくる業は漸く済んだ。新らしい仕事の始まるまでにはまだ十日の間があった。彼はその十日を利用しようとした。彼はまた洋筆を執って原稿紙に向った。  健康の次第に衰えつつある不快な事実を認めながら、それに注意を払わなかった彼は、猛烈に働らいた。あたかも自分で自分の身体に反抗でもするように、あたかもわが衛生を虐待するように、また己れの病気に敵討でもしたいように。彼は血に餓えた。しかも他を屠る事が出来ないのでやむをえず自分の血を啜って満足した。  予定の枚数を書きおえた時、彼は筆を投げて畳の上に倒れた。  「ああ、ああ」  彼は獣と同じような声を揚げた。  書いたものを金に換える段になって、彼は大した困難にも遭遇せずに済んだ。ただどんな手続きでそれを島田に渡して好いかちょっと迷った。直接の会見は彼も好まなかった。向うももう参上りませんといい放った最後の言葉に対して、彼の前へ出て来る気のない事は知れていた。どうしても中へ入って取り次ぐ人の必要があった。  「やっぱり御兄さんか比田さんに御頼みなさるより外に仕方がないでしょう。今までの行掛りもあるんだから」  「まあそうでもするのが、一番適当なところだろう。あんまり有難くはないが。公けな他人を頼むほどの事でもないから」  健三は津守坂へ出掛て行った。  「百円遣るの」  驚ろいた姉は勿体なさそうな眼を丸くして健三を見た。  「でも健ちゃんなんぞは顔が顔だからね。そうしみったれ[#「しみったれ」に傍点]た真似も出来まいし、それにあの島田って爺さんが、ただの爺さんと違って、あの通りの悪党だから、百円位仕方がないだろうよ」  姉は健三の腹にない事まで一人合点でべらべら喋舌った。  「だけど御正月早々御前さんも随分好い面の皮さね」  「好い面の皮鯉の滝登りか」  先刻から傍に胡坐をかいて新聞を見ていた比田は、この時始めて口を利いた。しかしその言葉は姉に通じなかった。健三にも解らなかった。それをさも心得顔にあははと笑う姉の方が、健三にはかえって可笑しかった。  「でも健ちゃんは好いね。御金を取ろうとすればいくらでも取れるんだから」  「こちとらとは少し頭の寸法が違うんだ。右大将頼朝公の髑髏と来ているんだから」  比田は変梃な事ばかりいった。しかし頼んだ事は一も二もなく引き受けてくれた。 百二  比田と兄が揃って健三の宅を訪問れたのは月の半ば頃であつた。松飾の取り払われた往来にはまだどことなく新年の香がした。暮も春もない健三の座敷の中に坐った二人は、落付かないように其所いらを見廻した。  比田は懐から書付を二枚出して健三の前に置いた。  「まあこれで漸く片が付きました」  その一枚には百円受取った事と、向後一切の関係を断つという事が古風な文句で書いてあった。手蹟は誰のとも判断が付かなかったが、島田の印は確かに捺してあった。  健三は「しかる上は後日に至り」とか、「后日のため誓約件の如し」とかいう言葉を馬鹿にしながら黙読した。  「どうも御手数でした、ありがとう」  「こういう証文さえ入れさせて置けばもう大丈夫だからね。それでないと何時まで蒼蠅く付け纏わられるか分ったもんじゃないよ。ねえ長さん」  「そうさ。これで漸く一安心出来たようなものだ」  比田と兄の会話は少しの感銘も健三に与えなかった。彼には遣らないでもいい百円を好意的に遣ったのだという気ばかり強く起った。面倒を避けるために金の力を藉りたとはどうしても思えなかった。  彼は無言のままもう一枚の書付を開いて、其所に自分が復籍する時島田に送った文言を見出した。  「私儀今般貴家御離縁に相成、実父より養育料差出候については、今後とも互に不実不人情に相成ざるよう心掛たくと存候」  健三には意味も論理も能く解らなかった。  「それを売り付けようというのが向うの腹さね」  「つまり百円で買って遣ったようなものだね」  比田と兄はまた話し合った。健三はその間に言葉を挟むのさえ厭だった。  二人が帰ったあとで、細君は夫の前に置いてある二通の書付を開いて見た。  「こっちの方は虫が食ってますね」  「反故だよ。何にもならないもんだ。破いて紙屑籠へ入れてしまえ」  「わざわざ破かなくっても好いでしょう」  健三はそのまま席を立った。再び顔を合わせた時、彼は細君に向って訊いた。――  「先刻の書付はどうしたい」  「箪笥の抽斗にしまって置きました。」  彼女は大事なものでも保存するような口振でこう答えた。健三は彼女の所置を咎めもしない代りに、賞める気にもならなかった。  「まあ好かった。あの人だけはこれで片が付いて」  細君は安心したといわぬばかりの表情を見せた。  「何が片付いたって」  「でも、ああして証文を取って置けば、それで大丈夫でしょう。もう来る事も出来ないし、来たって構い付けなければそれまでじゃありませんか」  「そりゃ今までだって同じ事だよ。そうしようと思えば何時でも出来たんだから」  「だけど、ああして書いたものをこっちの手に入れて置くと大変違いますわ」  「安心するかね」  「ええ安心よ。すっかり片付いちゃったんですもの」  「まだなかなか片付きゃしないよ」  「どうして」  「片付いたのは上部だけじゃないか。だから御前は形式張った女だというんだ」  細君の顔には不審と反抗の色が見えた。  「じゃどうすれば本当に片付くんです」  「世の中に片付くなんてものは殆んどありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」  健三の口調は吐き出すように苦々しかった。細君は黙って赤ん坊を抱き上げた。  「おお好い子だ好い子だ。御父さまの仰ゃる事は何だかちっとも分りゃしないわね」  細君はこういいいい、幾度か赤い頬に接吻した。 底本:「漱石文明論集」岩波文庫、岩波書店    1942(昭和17)年8月25日第1刷発行    1990(平成2)年4月16日第43刷改版発行    1995(平成7)年2月15日第49刷発行 底本の親本:「漱石全集 第6巻」岩波書店 入力:らんむろ・さてぃ 校正:細渕紀子 1999年1月22日公開 1999年8月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。