荒雄川のほとり・他4編 佐左木俊郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)宮城県|玉造《たまつくり》郡 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)宮城県|玉造《たまつくり》郡 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定    (数字は、底本のページと行数) (例)[#ここより、新聞のようなレイアウト。最初の2行が見出しで、本文は2段組。全体に囲い線があり、1段目と2段目にも罫線がある] ------------------------------------------------------- 荒雄川のほとり   ――私の郷土を語る――  私の郷里は(宮城県|玉造《たまつくり》郡|一栗《いちくり》村|上野目天王寺《かみのめてんのうじ》)――奥羽山脈と北上山脈との余波に追い狭められた谷間《たにあい》の村落である。谷間の幅は僅かに二十町ばかり。悉《ことごと》く水田地帯で、陸羽国境の山巒《さんらん》地方から山襞《やまひだ》を辿《たど》って流れ出して来た荒雄川が、南方の丘陵に沿うて耕地を潤《うるお》し去っている。  南方の丘陵は、昔、田村麻呂将軍が玉造柵を築いたところ。荒雄川の急流を隔てて北方の蝦夷《えぞ》に備えたのであろう。後に、伊達正宗の最初の居城、臥牛《がぎゅう》の城閣がこの丘の上に組まれ、当時の城閣を偲ばせる本丸の地形や城郭の跡が今でも残っている。 「栗駒おろし吹きなびく  臥牛城下に生をうけ  残されたりし英雄の  ……」  私達は子供の時分、そんな歌を歌った。  併し、私の生まれた部落は、北方の丘陵に近く、南方の山脚を洗う荒雄の水音を、微《かす》かに聞く地点なのである。  南方の丘陵が武将の旧跡なら、北方の丘陵は宗教の丘である。即ち聖徳太子の四天王寺の一つが今の地名をなしている。豪壮な伽藍《がらん》は、幾度も兵火にあいながら、私達の子供の時分までは再建を続けられていたのだそうだが、坊主が養蚕で火を出してから、今では仮普請《かりふしん》の小さなものになってしまった。当時、聖徳太子が自ら刻んだという如意輪《にょいりん》観音の像だけは、寺院の近くに、今にその堂宇《どうう》を残しているのであるが、最近、それが聖徳太子の作ではなく運慶《うんけい》の作であることが鑑定され、近く国宝に編入されるという噂である。もう一つ、ここには守屋大臣の碑が雨ざらしにされている。十五六年前、楠木正成の筆らしいと騒がれたこともあったが、それはそのまま立ち消えになってしまった。  とにかく、私を十五の歳まで育てたこの部落は、背後に畑地の多い丘陵があり、前面に水田が開けていて、農民小説には寔《まこと》に都合のいい舞台を形成している。――私が農民小説を書き出した動機の一つは、この地形にあると思う。 ――昭和五年(一九三一年)『新文藝日記』(昭和六年版)―― 喫煙癖  札幌の場末の街、豊平《とよひら》を出た無蓋二輪の馬車が、北を指して走っている砂利道を、月寒《つきさっぷ》の部落に向けてがたごとと動いて行った。  馬車の上には二人の乗客が対《むか》い合って乗っていた。二人とも、いずれも身すぼらしい身装《みなり》で、一人は五十近い婆《ばあ》さんであった。一人はやはり、同じ年ごろの爺《じい》さんであった。  爺さんは引っ切りなしに、煙草を燻《くゆ》らしていた。その煙がどうかすると、風の具合で、婆さんの顔にかかった。婆さんはそのたびに横を向いて、その煙を避けようとした。 「これはどうも、貴女《あなた》の方へばかり、煙を吹きかけるようで……」  爺さんは軽く頭をさげながら言った。しかし、爺さんは、やはりそのまま煙草を吸い続けるのだった。 「煙がかかってようござんすよ。かまいませんよ。煙草の好きな方は仕方がございませんもの。」  婆さんは微笑をもって言うのだった。 「私はどうも、眼を開いている間は、煙草をどうしてもはなせませんのでなあ。」  爺さんはそう言って、今度は紺碧《こんぺき》の大空に向けて煙を吐《は》きあげた。 「煙草の好きな方は、夜中に眼を覚ましても、床の中で一服するそうですからね。」 「私のは、それはそれは、それどころじゃないんです。とにかく、夜中だろうが、昼間だろうが、眼を開いている間はこうして煙草を口にしている始末なんで。何しろ、私あ、十五六の時から燻《ふ》かして来たんですから。」 「ではもう、三四十年も呑み続けていらっしゃるわけですね。」 「それさね、早三十五六年にもなりますかなあ?」  爺さんはそう言って、遠い記憶を思い出そうとするように、軽く眼を閉じた。 「何方《どちら》までおいでになりますかよ?」  婆さんは、話し相手の出来たのをよろこんでいるように、突然そんなことを訊いた。 「私かね? 私あ、月寒までです。前から知っている牧場で、汽罐《かま》を一つ据え付けたもんですて、そこのまあ火夫というようなわけで……」 「これから寒くなりますから、それは、結構な仕事でございますよ。」 「あまりどっとしないんですがね、何しろこれ。私あ、こうして無暗《むやみ》に煙草を燻かすもんですから、煙草銭だけでも自分で働かないと……」 「汽罐の方は手慣れておいでなのですかよ?」 「汽罐の方はそりゃ、私あ、十五六の時から、鉄道の方の、機関庫にいまして、最近までずうっと機関手をやって来ていますから。そりゃ慣れたもんでさあ。何しろ、私が鉄道に這入《はい》ったのは、札幌の停車場に、初めて売店というものが出来たころですからなあ。」 「ほう! その頃の札幌を御存じなのですか?」 「そりゃよく知ってまさあ。停車場に売店というものが出来て何かいろいろの物を売っていましたっけが、そこに可愛い娘が一人座ってましてなあ。私あ、その娘の顔を、一日として見ないじゃいられなくなりまして、毎日そこへ、煙草買いに行ったもんでさあ。何しろ子供のことですから、小遣い銭なんかろくろく持ってないんで。煙草なんかも贅沢《ぜいたく》なことでしたが、何しろその娘の顔を見ないじゃ、一日として凝《じ》っとしていられないもんですからなあ。しかし、その娘は、それから一年ばかりでいなくなってしまいましたがなあ。その時には私あもう、立派なはあ、喫煙家になっていましたよ。何度となく、煙草をよそうかと思ったこともありましたが、煙草を燻かしていると奇妙なことにその煙の中へ売店に座っていた娘の顔が浮かんで来ますのでなあ。なんかこう、煙草という煙草には、その娘の匂いまでついているような気がしましたんでなあ。こうして煙草を燻かしていると、今でも私あ、その娘の顔が、煙の中へ見えて来ますんですよ。何しろ、その娘のために毎日毎日一年あまりも煙草を買いに通ったんですからなあ。」 「それはそれは……実を申しますと、あの頃その売店に座っていたのは、私でござんすよ。」 「ははあ! それさね。」  爺さんは驚きの眼をみはって、婆さんの顔を、じっと視直《みなお》した。 「それさね。」 「これを覚えておいででしょうがね?」  婆さんは爺さんの前に片手を出して見せた。その指には真鍮の指輪が鈍く光っていた。 「思い出しました。貴女《あなた》でしたか? その指輪は、私が、機関車のパイプを切ってこしらえた指輪でしたがなあ。」 「銅貨の中へ混ぜて、貴方《あなた》がこれを私にくれて、顔を赤くしながら逃げるようにして走って行ったのを、今でも覚えていますよ。私はそれから、この指輪を片時もこの指から脱いたことがございませんよ。こんなに磨り減[#底本では「滅」と誤り]ってしまいました。」 「貴女でしたか? それで貴女は、今、どこで何をしておいでになりますね。」 「月寒で、ほんのつまらない店をもって、お茶屋をやっています。すぐですからどうぞお寄りになって、ゆっくり、お茶でもあがって行って下さいましよ。それはそれは、あの時の方は、貴方でございましたか?」  馬車はもう月寒の町並に這入っていた。 ――昭和六年(一九三一年)九月『北海タイムス』、十月『河北新報』―― 郷愁  私はよく、ホームシックに襲《おそ》われる少年であった。  八百屋の店頭に、水色のキャベツが積まれ、赤いトマトオが並べられ、雪のように白い夏大根が飾られる頃になると、私のホームシックは尚一入《なおひとしお》烈しくなるばかりであった。  そんなとき、私は憂鬱《ゆううつ》な心を抱いて、街上の撒水《うちみず》が淡い灯を映した宵《よい》の街々を、微《かす》かな風鈴《ふうりん》の音をききながら、よくふらふらと逍遙《さまよい》あるいたものであった。  店の上に吊《つる》された、五十|燭《しょく》ぐらいの電燈が、蒼白《あおじろ》い、そしてみずみずしい光をふりまき、その光に濡れそぼっている果物屋の店や、八百屋の店は、ますます私の心を、憂鬱に、感傷的にしてしまうばかりであった。併し私は、馬鹿馬鹿しいほど淋しく、物哀れな気分になりながらも、こうして八百屋の店や果物屋の店頭を覗いて歩くのが好きだった。  そうして逍遙《さまよ》うた揚句《あげく》には、屹度《きっと》上野の停車場《ていしゃば》へやって行ったものであった。  停車場の待合室にはどこの停車場にも掛かっているような、全国の、国有鉄道の地図が掲《かか》げられていた。  その地図の下に立ってみすぼらしい身装《みなり》の青年が、その地図の上の距離を計ったり、凝《じ》っと凝視《みつめ》ていたりして、淋しい表情で帰って行くのを、私は幾度《いくど》見かけたか知れなかった。  私はそういう人々を、殆んど毎晩のように見かけた。なかには、眼を潤《うる》ませて帰る青年もあったし、ちかちかと睫毛《まつげ》を光らせて戻る少年もあった。  併し私は、そういう人々を、ただ単に、見たとばかり言い得ないような気がする。  その人々の姿こそ、当時の私の姿ではなかったろうか? 歩いてでも郷里にかえりたかった。当時の私の心ではなかったろうか?  或る夜のことであった。私は停車場で、偶然一人の友人と落ち合った。彼は非常に沈んでいたようであった。 「誰か送って来たの? それとも誰か来るの?」と私は訊《き》いた。 「ううん。」  彼は神経質な眼をして頭を振った。 「君は?」と彼は訊いた。 「僕も、ただ散歩に。――ここへ来ると、田舎の言葉が聞けるもんだから……」 「僕もそうなんだよ。ただそれだけで、僕は小石川からわざわざ出掛けて来るんだよ。」  彼はこう言って、深い深い溜め息を一つついた。  私と彼とは、黙々として目を伏せて公園前の方へ歩いて行った。そうして歩きながら、彼は低声《バス》に、哀れっぽい調子をつけて歌ったのであった。   停車場《ていしゃば》の、地図に指あて故里《ふるさと》と   都の距離をはかり見るかな。  私も彼も、大望を抱いて東京へ出て来たのであった。故里を去る時には、その意志を貫かないうちは、石に噛りついても帰らないはずであった。  併し、私も彼も、もう……。  その月の末に、私は彼が郷里に帰ったということを聞いた。もう再び東京には出て来ないつもりだということをも聞いた。  併し、彼の意志の弱かったことを誰が嘲《わら》い得よう? 故郷を持っている人々、そして都会の無産者の生活を知っている人々は、誰も嘲うことは出来ないはずだ。  私はその後も、折々停車場へ出掛けて行った。その帰り途、私はきっと、あの時彼が歌ったあの歌を、低声《バス》で歌って見たものであった。   停車場の、地図に指あて故里と   都の距離をはかり見るかな。  この歌を私は幾度も繰り返した。繰り返しているうちに、私の歌はいつか、泣き声になっていた。そして、睫毛《まつげ》に涙のちかと光っているのを意識したものであった。  今では、もう停車場へ出掛けるようなことはなくなった。  けれども、夏が来て、八百屋の店頭に赤いトマトオが積みあげられ、水色のキャベツが並べられ、白い夏大根が飾られる頃になると、私は今でも、彼のあの歌を思い出すのである。 ――大正十五年(一九二六年)『若草』十二月号―― 指     一  彼女は銀座裏で一匹のすっぽんを買った。彼女のそれを大型の鰐《わに》皮製のオペラ・バッグに落とし込んで、銀座のペーヴメントに出た。  宵の銀座は賑《にぎわ》っていた。彼女は人の肩を押し分けるようにしながら、尾張町の停留所の方へ歩いた。店を開きかけた露店商人が客を集めようとあせっている。赤、青、薄紫の燈光が揺れる。足音が乱れる。 「もしもし! 奥さん。」  彼女は誰かに呼びかけられたような気がして立ち止まった。彼女の肩に、無数の肩が突き当たり、擦り合って行った。鼠色の夏外套、鮮緑の錦紗《きんしゃ》。薄茶のスプリング・コオト。清新な麦藁帽子。ドルセイの濃厚な香気。そして爽かな夜気が冷え冷えと、濁って沈澱した昼の空気を澄まして行った。  錯覚だったのだ。誰も呼んではいなかった。鼠色のハンチングを眼深《まぶか》に冠った蒼白く長い顔の男が、薄茶の夏外套に包んだ身体《からだ》を、彼女の右肩に擦り寄せるようにして立っているだけだった。  彼女はその男から逃《のが》れるようにして、車道を越えて向こう側の舗石道《ペーヴメント》に渡ろうとした。電車がピストン・ロットのように、右から左へ、左から右へと、矢継ぎ早に掠《かす》めて行った。青バスが唸って行く。円タクの行列だ。彼女は急に省線で帰ることにした。円タクをやめて。  省線電車は割に混んでいた。併し彼女はどうにか腰をおろして、その左脇にオペラ・バッグを置くことが出来た。  神田駅に近付いたとき、彼女は、自分の左脇に腰をおろしている男が、顔全体で痛さを堪えながら指先を握っているのに気がついた。その指の間からはだらだらと血が滴っていた。 「まあ! どうなさったんです?」  彼女は、眉を寄せて、自分のハンカチを出してやった。 「あ、済みません。どうも、あの扉で……」  彼は礼を言いながら血に染まった指先をハンカチで包んだ。食指の一節はぐしゃぐしゃに切れて無くなっていた。 「まあ、もげたんで御座いますか。」 「え。あの扉でもって…… 神田ですね。や、どうも……」  男は戸口へ駈けて行った。鰐皮製のオペラ・バッグがその男の席に倒れた。彼女も、それを取って乗り換えのために戸口へ立って行った。エンジン装置の自働開閉扉が、するするっと開いた。     二  彼女は、すっぽんを洗面器に入れて、自分の室に這入《はい》って行った。  彼女は洗面器の中の、すっぽんを視詰《みつ》めながら、首を出すのを待った。すっぽんの生血《なまち》を取るのには、その首を出すのを待っていて、鋭利な刃物でそれを切るのだと教えられていたからであった。  彼女は電車の中での、自働扉に指を噛まれた男のことを思い出した。あの男の指のように、このすっぽんの首がぐしゃぐしゃに切断されるのだ。彼女はそれを考えると厭《いや》な気がした。  併し彼女は、右手に、鋭利な大型の木鋏を握って、すっぽんが首を出すのを待たなければならなかった。これだけは他人に頼むわけにはいかないような気がしたし、女中達へ命ずるのにも彼女は気がさした。彼女は秘密にこれを処理したかったのだ。  彼女の血液の衷《うち》の若さは、近頃ひどく涸《か》れて来ていた。この血液の衷から渇《かわ》いて行くものを補うために、彼女はいろいろなものを試みた。例えば「精壮」とか「トツカピン」とか。併し、そんなものでは間に合わないのだ。が、彼女は涸れるものを涸れるままに、渇《つ》きるものを渇きるままに快楽を忘れることは出来なかった。日常の生活の上ではなんの心配もいらない有閑階級の、没落の途上で想像を許された唯一の快楽のために、彼女は、すっぽんの首を切ってその生血を啜《すす》らねばならなかったのだ。  首を出した。すっぽんが首を出した。  彼女はその首を木鋏で切断した。と、その首は銜《くわ》えていたものを吐き出した。白い指の一節だった。生爪の付いている繊細な指の一節だった。     三  彼女はベッドの上で朝刊を拡げた。  彼女は或る記事に眼を惹き付けられた。 [#ここより、新聞のようなレイアウト。最初の2行が見出しで、本文は2段組。全体に囲い線があり、1段目と2段目にも罫線がある]   省線荒しの掏摸捕わる    犯人は食指の無い男 二十日午後七時三十分、桜木町発東京行省線電車が新橋有楽町間を進行中、鼠色の鳥打を冠り、薄茶の夏外套を纏《まと》った四十前後の男が乗客婦人のオペラ・バッグより蟇口《がまぐち》を抜き取ろうとしたのを発見され、有楽町駅にて警官に引き渡された。  犯人は右手の食指が無い男で、その語るところによれば、この男は、最近頻々として京浜間の省線電車を荒らしていたスリの常習犯らしい。 「私だって生まれた時は普通の人間でした。私は仕立屋だったのですが。だんだんと世の中が、手先が器用だというだけでは食って行けなくなって来て、女房が病気しても医者にかける金もない有様で、女房はとうとう死んでしまいました。私はそれからスリをやり出したんです。ところが私は、死んだ女房のことを考えると、綺麗な着物を着ている金持ちの女が憎らしくて仕方がないんで、大抵そういう女のものを取っていたんですが、或る時、私は或る女のオペラ・バッグの中で、どういう仕掛があったもんか、この指を切り取られたんです。それっきりスリなど廃《よ》そうかと思いましたが、金持ちの女がああして、綺麗な着物を着ていることを考えると、そして死んだ私の女房なんか、毎日綺麗な着物を縫っていながらそれを着られもせず、ばかりではなく、結局は飯さえ食えなくなったんだと、それが一体どんな奴のためだと、思うと私は廃《よ》さなかったのです。 [#新聞のようなレイアウトはここまで]  彼女は朝刊から眼を離して部屋の隅を視詰《みつ》めていた。そして、彼女は二三カ月以前に、電車の中で、自働扉に指を噛まれたと言って血を流していた男のことを思い出していた。 ――昭和四年(一九二九年)『文学時代』六月号―― 簡略自伝  明治三十三年(1900)宮城県|岩出山《いわでやま》町|在《ざい》の中農の家に生まる。当時既にこの層の没落は、全農民階級中最も甚しく、私の家もまたその例にもれず只管《ひたすら》に没落への途を急いでいたのであった。それを知って父は急に足掻《あが》き出し、奪還策として、山林田畑を売り払っていろいろの事業に手をつけ、失敗に失敗を重ね、却《かえ》って加速度を与えるの結果となったのであった。――その間、僅かに七八年、私は、どん底の中で小学校を卒業した。  随って、中等の学校教育を受けることが出来ず、悶々の日を送るうちに、機関車に対する憧憬止み難く、十六の夏北海道に走り、その秋、池田機関庫に就職。――この頃より、文学書に親しむ機会多く、文学に対して漫然とした興味を抱く。  併し父は機関車の危険を怖れ、翌十七の晩春、母危篤の虚を構えて郷家へ呼び戻された。――再び鬱々《うつうつ》の日来たり、約一年半、父や叔父の読み古した軍記、文学、講談などの雑誌に埋れて夢を見続けていた。  十八の秋に上京。今村力三郎法律事務所に寄食。私《ひそか》に文学を志していたのであったが、一日も早く父母の生活を支えねばならぬという立場から、奨められて電機学校に籍を置く。電機学校にはアドバンス・コピーというものがあり、教師の講義を直接に聴くの必要はなく、通学の時間を毎日一ツ橋図書館に利用し、学校の方は試験だけを受けて進級していた。  約二ヵ年にして卒業に近く、電機技術師になってしまうことを怖れていたころ、偶然にも父の危篤に接して郷家に戻り、父母の生活を助くべく、郷里の小学校に代用教員として通う。  この頃から、文学への熱望甚しく、再び今村力三郎氏に寄食し、国民英学会、国漢文研究所、日本大学などを転々して、比較的文学の道に直接とする学科の聴講に努めた。――するうち、肋膜炎にやられ、医師から、約二ヵ年間の座食を命ぜられ、徹底的に文学書を熟読するの機会を得た。健康恢復と同時に、自らの働きをもって生活するの必要に迫られ、中央局通信事務員、河口鉄工場職工、東京地方裁判|所雇《やとい》、その他二三を転々として、東京市水道拡張課の土木監督となり、震災と同時に失職。二ヵ月ほど土工をして旅費をつくり、郷家に転がり込む。  帰郷中、妻の出産と共に、座食を抬《よろこ》ばれず、百姓仕事を手伝っては見たが、圧迫の感に堪え得ずして上京。建築人夫、土工人夫等の、全く筋肉労働者の群に投じて約一ヵ年を送る。筋肉労働中、「文章倶楽部」への投書に依って加藤武雄氏を知り、拾われて訪問記者となり、大正十四年の秋頃から「文章倶楽部」の編輯を手伝うことになって、今日に及んでいる。――併し、編輯に於いては原稿の計算方法から教え導かれ、小説に於いては、処女作以来今日もなお面倒を見てもらっている加藤武雄氏への恩義を思わずしては、私はいつも自分の過去を顧《かえりみ》ることが出来ない。 ――昭和五年(一九三〇年)三月一日執筆―― 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社    1984(昭和59)年4月14日初版 入力:大野晋 校正:鈴木伸吾 1999年9月24日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。