マグノリアの木 宮澤賢治 [表記について] ●底本に従い、ルビは小学校1・2年の学習配当漢字を除き、すべての漢字につけた。ただし、本テキスト中では、初出のみにつける方法とした。 ●ルビは「《ルビ》」の形式で処理した。 ●[※1〜9]は、入力者の補注を示す。注はファイルの末尾にまとめた。 ------------------------------------------------------------------  霧《きり》がじめじめ降《ふ》っていた。  諒安《りょうあん》は、その霧の底《そこ》をひとり、険《けわ》しい山谷の、刻《きざ》みを渉《わた》って行きました。  沓《くつ》の底を半分|踏《ふ》み抜《ぬ》いてしまいながらそのいちばん高い処《ところ》からいちばん暗《くら》い深《ふか》いところへまたその谷の底から霧に吸《す》いこまれた次《つぎ》の峯《みね》へと一生けんめい伝《つた》って行きました。  もしもほんの少しのはり合で霧を泳《およ》いで行くことができたら一つの峯から次の巌《いわ》へずいぶん雑作《ぞうさ》もなく行けるのだが私はやっぱりこの意地悪《いじわる》い大きな彫刻《ちょうこく》の表面《ひょうめん》に沿《そ》ってけわしい処ではからだが燃《も》えるようになり少しの平《たい》らなところではほっと息《いき》をつきながら地面《じめん》を這《は》わなければならないと諒安は思いました。  全《まった》く峯にはまっ黒のガツガツした巌が冷《つめ》たい霧を吹《ふ》いてそらうそぶき折角《せっかく》いっしんに登《のぼ》って行ってもまるでよるべもなくさびしいのでした。  それから谷の深い処には細《こま》かなうすぐろい潅木《かんぼく》がぎっしり生えて光を通すことさえも慳貪《けんどん》[※1]そうに見えました。  それでも諒安は次から次へとそのひどい刻みをひとりわたって行きました。  何べんも何べんも霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりました。  けれども光は淡《あわ》く白く痛《いた》く、いつまでたっても夜にならないようでした。  つやつや光る竜《りゅう》の髯《ひげ》[※2]のいちめん生えた少しのなだらに来たとき諒安はからだを投《な》げるようにしてとろとろ睡《ねむ》ってしまいました。 (これがお前の世界《せかい》なのだよ、お前に丁度《ちょうど》あたり前の世界なのだよ。それよりもっとほんとうはこれがお前の中の景色《けしき》なのだよ。)  誰《たれ》かが、或《ある》いは諒安|自身《じしん》が、耳の近くで何べんも斯《こ》う叫《さけ》んでいました。 (そうです。そうです。そうですとも。いかにも私の景色です。私なのです。だから仕方《しかた》がないのです。)諒安はうとうと斯う返事《へんじ》しました。 (これはこれ  惑《まど》う木立《こだち》の  中ならず  しのびをならう  春の道場)  どこからかこんな声がはっきり聞《きこ》えて来ました。諒安は眼《め》をひらきました。霧がからだにつめたく浸《し》み込《こ》むのでした。  全く霧は白く痛く竜の髯の青い傾斜《けいしゃ》はその中にぼんやりかすんで行きました。諒安はとっととかけ下りました。  そしてたちまち一本の潅木《かんぼく》に足をつかまれて投げ出すように倒《たお》れました。  諒安はにが笑《わら》いをしながら起《お》きあがりました。  いきなり険しい潅木の崖《がけ》が目の前に出ました。  諒安はそのくろもじの枝《えだ》にとりついてのぼりました。くろもじはかすかな匂《におい》を霧に送《おく》り霧は俄《にわ》かに乳《ちち》いろの柔《やわ》らかなやさしいものを諒安によこしました。  諒安はよじのぼりながら笑いました。  その時霧は大へん陰気《いんき》になりました。そこで諒安は霧にそのかすかな笑いを投げました。そこで霧はさっと明るくなりました。  そして諒安はとうとう一つの平らな枯草《かれくさ》の頂上《ちょうじょう》に立ちました。  そこは少し黄金《きん》いろ[※3]でほっとあたたかなような気がしました。  諒安は自分のからだから少しの汗《あせ》の匂いが細《ほそ》い糸のようになって霧の中へ騰《のぼ》って行くのを思いました。その汗という考《かんがえ》から一|疋《ぴき》の立派《りっぱ》な黒い馬がひらっと躍《おど》り出して霧の中へ消《き》えて行きました。  霧が俄《にわ》かにゆれました。そして諒安はそらいっぱいにきんきん光って漂う琥珀《こはく》[※4]の分子のようなものを見ました。それはさっと琥珀から黄金《きん》に変りまた新鮮《しんせん》な緑《みどり》に遷《うつ》ってまるで雨よりも滋《しげ》く降《ふ》って来るのでした。  いつか諒安の影《かげ》がうすくかれ草の上に落《お》ちていました。一きれのいいかおりがきらっと光って霧とその琥珀との浮遊《ふゆう》の中を過《す》ぎて行きました。  と思うと俄かにぱっとあたりが黄金《きん》に変《かわ》りました。  霧が融《と》けたのでした。太陽《たいよう》は磨《みが》きたての藍銅鉱《らんどうこう》[※5]のそらに液体《えきたい》のようにゆらめいてかかり融けのこりの霧はまぶしく蝋《ろう》のように谷のあちこちに澱《よど》みます。 (ああこんなけわしいひどいところを私は渡《わた》って来たのだな。けれども何というこの立派さだろう。そしてはてな、あれは。)  諒安は眼を疑《うたが》いました。そのいちめんの山谷の刻みにいちめんまっ白にマグノリア[※6]の木の花が咲《さ》いているのでした。その日のあたるところは銀《ぎん》と見え陰《かげ》になるところは雪のきれと思われたのです。 (けわしくも刻むこころの峯々に いま咲きそむるマグノリアかも。)斯う云《い》う声がどこからかはっきり聞えて来ました。諒安は心も明るくあたりを見まわしました。  すぐ向《むこ》うに一本の大きなほおの木がありました。その下に二人の子供《こども》が幹《みき》を間にして立っているのでした。 (ああさっきから歌っていたのはあの子供らだ。けれどもあれはどうもただの子供らではないぞ。)諒安はよくそっちを見ました。  その子供らは羅《うすもの》[※7]をつけ瓔珞《ようらく》[※8]をかざり日光に光り、すべて断食《だんじき》のあけがたの夢《ゆめ》のようでした。ところがさっきの歌はその子供らでもないようでした。それは一人の子供がさっきよりずうっと細い声でマグノリアの木の梢《こずえ》を見あげながら歌い出したからです。   「サンタ、マグノリア、    枝にいっぱいひかるはなんぞ。」  向う側の子が答えました。   「天に飛《と》びたつ銀の鳩《はと》。」  こちらの子がまたうたいました。   「セント、マグノリア、    枝にいっぱいひかるはなんぞ。」   「天からおりた天の鳩。」  諒安はしずかに進《すす》んで行きました。 「マグノリアの木は寂静印《じゃくじょういん》[※9]です。ここはどこですか。」 「私たちにはわかりません。」一人の子がつつましく賢《かし》こそうな眼《め》をあげながら答《こた》えました。 「そうです、マグノリアの木は寂静印です。」  強いはっきりした声が諒安のうしろでしました。諒安は急《いそ》いでふり向《む》きました。子供らと同じなりをした丁度《ちょうど》諒安と同じくらいの人がまっすぐに立ってわらっていました。 「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」 「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたが感じているのですから。」 「そうです、ありがとう、私です、またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中にあるのですから。」  その人は笑いました。諒安と二人ははじめて軽《かる》く礼《れい》をしました。 「ほんとうにここは平らですね。」諒安はうしろの方のうつくしい黄金の草の高原を見ながら云いました。その人は笑いました。 「ええ、平らです、けれどもここの平らかさはけわしさに対する平らさです。ほんとうの平らさではありません。」 「そうです。それは私がけわしい山谷を渡ったから平らなのです。」 「ごらんなさい、そのけわしい山谷にいまいちめんにマグノリアが咲いています。」 「ええ、ありがとう、ですからマグノリアの木は寂静です。あの花びらは天の山羊《やぎ》の乳よりしめやかです。あのかおりは覚者《かくしゃ》たちの尊《とうと》い偈《げ》[※10]を人に送ります。」 「それはみんな善《ぜん》です。」 「誰《たれ》の善ですか。」諒安はも一度その美《うつく》しい黄金《きん》の高原とけわしい山谷の刻みの中のマグノリアとを見ながらたずねました。 「覚者の善です。」その人の影《かげ》は紫《むらさき》いろで透明《とうめい》に草に落ちていました。 「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対《ぜったい》です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密林《みつりん》もこの河《かわ》がずうっと流《なが》れて行って氾濫《はんらん》をするあたりの度々《たびたび》の革命《かくめい》や饑饉《ききん》や疫病《えきびょう》やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です。」  諒安とその人と二人はまた恭《うやうや》しく礼をしました。 ------------------------------------------------------------------ ●入力者注 ※1 慳貪=無慈悲の意味。 ※2 竜の髯=植物名。ユリ科の常緑多年草。ジャノヒゲ。 ※3 黄金いろ=「聖なる色」を示す。 ※4 琥珀=松ヤニの化石。 ※5 藍銅鉱=鉱物名。藍青色で、ガラスのような光沢がある。 ※6 マグノリア=モクレン科の植物の総称。ここでは、コブシを指す。 ※7 羅=薄物。薄く織った織物またはその織物で作った夏用の衣服。 ※8 瓔珞=仏像の装飾に用いられるインドの装身具。 ※9 寂静印=仏教の絶対基準の1つ、「悟りの境地」のこと。 ※10 偈=仏教の真理を述べた韻文。 ------------------------------------------------------------------ 底本:「風の又三郎」角川文庫、角川書店    1996(平成8)年6月25日発行改訂新版 底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房    1995(平成7)年5月発行 入力:浜野智 校正:浜野智 1999年1月31日公開 1999年8月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。