夜行巡査 泉鏡花 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)爺《じい》さん |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)人|心地《ごこち》 -------------------------------------------------------      一 「こう爺《じい》さん、おめえどこだ」と職人体の壮佼《わかもの》は、そのかたわらなる車夫の老人に向かいて問い懸《か》けたり。車夫の老人は年紀《とし》すでに五十を越えて、六十にも間はあらじと思わる。餓えてや弱々しき声のしかも寒さにおののきつつ、 「どうぞまっぴら御免なすって、向後《こうご》きっと気を着けまする。へいへい」  と、どぎまぎして慌《あわ》ておれり。 「爺さん慌てなさんな。こう己《おり》ゃ巡査じゃねえぜ。え、おい、かわいそうによっぽど面食らったと見える、全体おめえ、気が小さすぎらあ。なんの縛ろうとは謂《い》やしめえし、あんなにびくびくしねえでものことさ。おらあ片一方で聞いててせえ少癇癪《すこかんしゃく》に障《さわ》って堪《こた》えられなかったよ。え、爺さん、聞きゃおめえの扮装《みなり》が悪いとって咎《とが》めたようだっけが、それにしちゃあ咎めようが激しいや、ほかにおめえなんぞ仕損《しぞこな》いでもしなすったのか、ええ、爺さん」  問われて老車夫は吐息をつき、 「へい、まことにびっくりいたしました。巡査《おまわり》さんに咎められましたのは、親父《おやじ》今がはじめてで、はい、もうどうなりますることやらと、人|心地《ごこち》もござりませなんだ。いやもうから意気地《いくじ》がござりません代わりにゃ、けっして後ろ暗いことはいたしません。ただいまとても別にぶちょうほうのあったわけではござりませんが、股引《ももひ》きが破れまして、膝《ひざ》から下が露出《むきだ》しでござりますので、見苦しいと、こんなにおっしゃります、へい、御規則も心得ないではござりませんが、つい届きませんもんで、へい、だしぬけにこら! って喚《わめ》かれましたのに驚きまして、いまだに胸がどきどきいたしまする」  壮佼はしきりに頷《うなず》けり。 「むむ、そうだろう。気の小さい維新前《むかし》の者は得て巡的をこわがるやつよ。なんだ、高がこれ股引きがねえからとって、ぎょうさんに咎め立てをするにゃあ当たらねえ。主の抱《かか》え車《ぐるま》じゃあるめえし、ふむ、よけいなおせっかいよ、なあ爺さん、向こうから謂わねえたって、この寒いのに股引きはこっちで穿《は》きてえや、そこがめいめいの内証で穿けねえから、穿けねえのだ。何も穿かねえというんじゃねえ。しかもお提灯《ちょうちん》より見っこのねえ闇夜《やみ》だろうじゃねえか、風俗も糸瓜《へちま》もあるもんか。うぬが商売で寒い思いをするからたって、何も人民にあたるにゃあ及ばねえ。ん! 寒鴉《かんがらす》め。あんなやつもめったにゃねえよ、往来の少ない処《ところ》なら、昼だってひよぐるぐらいは大目に見てくれらあ、業腹な。おらあ別に人の褌襠《ふんどし》で相撲《すもう》を取るにもあたらねえが、これが若いものでもあることか、かわいそうによぼよぼの爺さんだ。こう、腹あ立てめえよ、ほんにさ、このざまで腕車《くるま》を曳《ひ》くなあ、よくよくのことだと思いねえ。チョッ、べら棒め、サーベルがなけりゃ袋叩《ふくろだた》きにしてやろうものを、威張るのもいいかげんにしておけえ。へん、お堀端あこちとらのお成り筋だぞ、まかり間違やあ胴上げして鴨《かも》のあしらいにしてやらあ」  口を極《きわ》めてすでに立ち去りたる巡査を罵《ののし》り、満腔《まんこう》の熱気を吐きつつ、思わず腕を擦《さす》りしが、四谷組合と記《しる》したる煤《すす》け提灯《ちょうちん》の蝋燭《ろうそく》を今継ぎ足して、力なげに梶棒《かじぼう》を取り上ぐる老車夫の風采《ふうさい》を見て、壮佼《わかもの》は打ち悄《しお》るるまでに哀れを催し、「そうして爺さん稼人《かせぎて》はおめえばかりか、孫子はねえのかい」  優しく謂《い》われて、老車夫は涙ぐみぬ。 「へい、ありがとう存じます、いやも幸いと孝行なせがれが一人おりまして、よう稼《かせ》いでくれまして、おまえさん、こんな晩にゃ行火《あんか》を抱いて寝ていられるもったいない身分でござりましたが、せがれはな、おまえさん、この秋兵隊に取られましたので、あとには嫁と孫が二人みんな快う世話をしてくれますが、なにぶん活計《くらし》が立ちかねますので、蛙《かえる》の子は蛙になる、親仁《おやじ》ももとはこの家業をいたしておりましたから、年紀《とし》は取ってもちっとは呼吸がわかりますので、せがれの腕車《くるま》をこうやって曳《ひ》きますが、何が、達者で、きれいで、安いという、三拍子も揃《そろ》ったのが競争をいたしますのに、私のような腕車には、それこそお茶人か、よっぽど後生のよいお客でなければ、とても乗ってはくれませんで、稼ぐに追い着く貧乏なしとはいいまするが、どうしていくら稼いでもその日を越すことができにくうござりますから、自然|装《なり》なんぞも構うことはできませんので、つい、巡査《おまわり》さんに、はい、お手数を懸《か》けるようにもなりまする」  いと長々しき繰り言をまだるしとも思わで聞きたる壮佼は一方《ひとかた》ならず心を動かし、 「爺さん、いやたあ謂われねえ、むむ、もっともだ。聞きゃ一人|息子《むすこ》が兵隊になってるというじゃねえか、おおかた戦争にも出るんだろう、そんなことなら黙っていないで、どしどし言い籠《こ》めて隙《ひま》あ潰《つぶ》さした埋め合わせに、酒代《さかて》でもふんだくってやればいいに」 「ええ、めっそうな、しかし申しわけのためばかりに、そのことも申しましたなれど、いっこうお肯《き》き入れがござりませんので」  壮佼はますます憤りひとしお憐《あわ》れみて、 「なんという木念人《ぼくねんじん》だろう、因業な寒鴉め、といったところで仕方もないかい。ときに爺さん、手間は取らさねえからそこいらまでいっしょに歩《あゆ》びねえ。股火鉢《またひばち》で五合《ごんつく》とやらかそう。ナニ遠慮しなさんな、ちと相談もあるんだからよ。はて、いいわな。おめえ稼業にも似合わねえ。ばかめ、こんな爺さんを掴《つか》めえて、剣突《けんつく》もすさまじいや、なんだと思っていやがんでえ、こう指一本でも指《さ》してみろ、今じゃおいらが後見だ」  憤慨と、軽侮と、怨恨《えんこん》とを満たしたる、視線の赴くところ、麹《こうじ》町一番町英国公使館の土塀《どべい》のあたりを、柳の木立ちに隠見して、角燈あり、南をさして行く。その光は暗夜《あんや》に怪獣の眼《まなこ》のごとし。      二  公使館のあたりを行くその怪獣は八田義延《はったよしのぶ》という巡査なり。渠《かれ》は明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町《なにがしまち》の交番を発し、一時間交替の巡回の途に就《つ》けるなりき。  その歩行《あゆむ》や、この巡査には一定の法則ありて存するがごとく、晩《おそ》からず、早からず、着々歩を進めて路《みち》を行くに、身体《からだ》はきっとして立ちて左右に寸毫《すんごう》も傾かず、決然自若たる態度には一種犯すべからざる威厳を備えつ。  制帽の庇《ひさし》の下にものすごく潜める眼光は、機敏と、鋭利と厳酷とを混じたる、異様の光に輝けり。  渠は左右のものを見、上下のものを視《なが》むるとき、さらにその顔を動かし、首を掉《ふ》ることをせざれども、瞳《ひとみ》は自在に回転して、随意にその用を弁ずるなり。  されば路すがらの事々物々、たとえばお堀端《ほりばた》の芝生《しばふ》の一面に白くほの見ゆるに、幾条の蛇《くちなわ》の這《は》えるがごとき人の踏みしだきたる痕《あと》を印せること、英国公使館の二階なるガラス窓の一面に赤黒き燈火の影の射《さ》せること、その門前なる二|柱《ちゅう》のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋《わらじ》の片足の、霜に凍《い》て附《つ》きて堅くなりたること、路傍《みちばた》にすくすくと立ち併《なら》べる枯れ柳の、一陣の北風に颯《さ》と音していっせいに南に靡《なび》くこと、はるかあなたにぬっくと立てる電燈局の煙筒より一縷《いちる》の煙の立ち騰《のぼ》ること等、およそ這般《このはん》のささいなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免《のが》るることを得ざりしなり。  しかも渠は交番を出《い》でて、路に一個の老車夫を叱責《しっせき》し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後《うしろ》を振り返りしことあらず。  渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後《うしろ》には全く放心せるもののごとし。いかに【※1】となれば背後はすでにいったんわが眼《まなこ》に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。  兇徒《きょうと》あり、白刃を揮《ふる》いて背後《うしろ》より渠を刺さんか、巡査はその呼吸《いき》の根の留まらんまでは、背後《うしろ》に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼《まなこ》の観察の一度達したるところには、たとい藕糸《ぐうし》の孔中といえども一点の懸念をだに遺《のこ》しおかざるを信ずるによれり。  ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々《ゆうゆう》としてただ前途のみを志すを得《う》るなりけり。  その靴《くつ》は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音《きょうおん》を送りつつ、行く行く一番町の曲がり角のややこなたまで進みけるとき、右側のとある冠木《かぶき》門の下に踞《うずく》まれる物体ありて、わが跫音《あしおと》に蠢《うごめ》けるを、例の眼にてきっと見たり。  八田巡査はきっと見るに、こはいと窶々《やつやつ》しき婦人《おんな》なりき。  一個《ひとり》の幼児《おさなご》を抱きたるが、夜深《よふ》けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊《し》め、着たる襤褸《らんる》の綿入れを衾《ふすま》となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子《おやこ》に一銭の恵みを垂《た》れずとも、たれか憐《あわ》れと思わざらん。  しかるに巡査は二つ三つ婦人の枕頭《まくらもと》に足踏みして、 「おいこら、起きんか、起きんか」  と沈みたる、しかも力を籠《こ》めたる声にて謂えり。  婦人はあわただしく蹶《は》ね起きて、急に居住まいを繕《つくろ》いながら、 「はい」と答うる歯の音も合わず、そのまま土に頭《こうべ》を埋めぬ。  巡査は重々しき語気をもて、 「はいではない、こんな処《ところ》に寝ていちゃあいかん、疾《はや》く行け、なんという醜態だ」  と鋭き音調。婦人は恥じて呼吸《いき》の下にて、 「はい、恐れ入りましてございます」  かく打ち謝罪《わぶ》るときしも、幼児は夢を破りて、睡眠のうちに忘れたる、饑《う》えと寒さとを思い出し、あと泣き出だす声も疲労のために裏涸《うらが》れたり。母は見るより人目も恥じず、慌《あわ》てて乳房《ちぶさ》を含ませながら、 「夜分のことでございますから、どうぞ【※2】旦那《だんな》様お慈悲でございます。大眼《おおめ》に御覧あそばして」  巡査は冷然として、 「規則に夜昼はない。寝ちゃあいかん、軒下で」  おりからひとしきり荒《すさ》ぶ風は冷を極《きわ》めて、手足も露《あら》わなる婦人《おんな》の膚《はだ》を裂きて寸断せんとせり。渠はぶるぶると身を震わせ、鞠《まり》のごとくに竦《すく》みつつ、 「たまりません、もし旦那、どうぞ、後生でございます。しぱらくここにお置きあそばしてくださいまし。この寒さにお堀端の吹き曝《さら》しへ出ましては、こ、この子がかわいそうでございます。いろいろ災難に逢《あ》いまして、にわかの物貰《ものもら》いで勝手は分《わか》りませず……」といいかけて婦人は咽《むせ》びぬ。  これをこの軒の主人《あるじ》に請わば、その諾否いまだ計りがたし。しかるに巡査は肯《き》き入れざりき。 「いかん、おれがいったんいかんといったらなんといってもいかんのだ。たといきさまが、観音様の化身でも、寝ちゃならない、こら、行けというに」      三 「伯父《おじ》さんおあぶのうございますよ」  半蔵門の方より来たりて、いまや堀端《ほりばた》に曲がらんとするとき、一個の年紀《とし》少《わか》き美人はその同伴《つれ》なる老人の蹣跚《まんさん》たる酔歩に向かいて注意せり。渠《かれ》は編み物の手袋を嵌《は》めたる左の手にぶら提灯《ぢょうちん》を携えたり。片手は老人を導きつつ。  伯父さんと謂われたる老人は、ぐらつく足を蹈《ふ》み占めながら、 「なに、だいじょうぶだ。あれんばかしの酒にたべ酔ってたまるものかい。ときにもう何時《なんどき》だろう」  夜は更《ふ》けたり。天色沈々として風騒がず。見渡すお堀端の往来は、三宅《みやけ》坂にて一度尽き、さらに一帯の樹立《こだ》ちと相連なる煉瓦屋《れんがおく》にて東京のその局部を限れる、この小天地|寂《せき》として、星のみひややかに冴《さ》え渡れり。美人は人ほしげに振り返りぬ。百歩を隔てて黒影あり、靴《くつ》を鳴らしておもむろに来たる。 「あら、巡査《おまわり》さんが来ましたよ」  伯父なる人は顧みて角燈の影を認むるより、直ちに不快なる音調を帯び、 「巡査がどうした、おまえなんだか、うれしそうだな」  と女《むすめ》の顔を瞻《みまも》れる、一眼|盲《し》いて片眼《へんがん》鋭し。女はギックリとしたる様《さま》なり。 「ひどく寂しゅうございますから、もう一時前でもございましょうか」 「うん、そんなものかもしれない、ちっとも腕車《くるま》が見えんからな」 「ようございますわね、もう近いんですもの」  やや無言にて歩を運びぬ。酔える足は捗取《はかど》らで、靴音は早や近づきつ。老人は声高に、 「お香《こう》、今夜の婚礼はどうだった」と少しく笑《え》みを含みて問いぬ。  女は軽《かろ》くうけて、 「たいそうおみごとでございました」 「いや、おみごとばかりじゃあない、おまえはあれを見てなんと思った」  女は老人の顔を見たり。 「なんですか」 「さぞ、うらやましかったろうの」という声は嘲《あざけ》るごとし。  女は答えざりき。渠はこの一冷語のためにいたく苦痛を感じたる状《さま》見えつ。  老人はさこそあらめと思える見得《みえ》にて、 「どうだ、うらやましかったろう。おい、お香、おれが今夜|彼家《あすこ》の婚礼の席へおまえを連れて行った主意を知っとるか。ナニ、はいだ。はいじゃない。その主意を知ってるかよ」  女は黙しぬ。首《こうべ》を低《た》れぬ。老夫はますます高調子。 「解《わか》るまい、こりゃおそらく解るまいて。何も儀式を見習わせようためでもなし、別に御馳走《ごちそう》を喰《く》わせたいと思いもせずさ。ただうらやましがらせて、情けなく思わせて、おまえが心に泣いている、その顔を見たいばっかりよ。ははは」  口気|酒芬《しゅふん》を吐きて面《おもて》をも向くべからず、女は悄然《しょうぜん》として横に背《そむ》けり。老夫はその肩に手を懸《か》けて、 「どうだお香、あの縁女《えんじょ》は美しいの、さすがは一生の大礼だ。あのまた白と紅《あか》との三枚|襲《がさね》で、と羞《は》ずかしそうに坐《すわ》った恰好《かっこう》というものは、ありゃ婦人《おんな》が二度とないお晴れだな。縁女もさ、美しいは美しいが、おまえにゃ九目《せいもく》だ。婿もりっぱな男だが、あの巡査にゃ一段劣る。もしこれがおまえと巡査とであってみろ。さぞ目の覚《さ》むることだろう。なあ、お香、いつぞや巡査がおまえをくれろと申し込んで来たときに、おれさえアイと合点《がってん》すりゃ、あべこべに人をうらやましがらせてやられるところよ。しかもおまえが(生命《いのち》かけても)という男だもの、どんなにおめでたかったかもしれやアしない。しかしどうもそれ随意《まま》にならないのが浮き世ってな、よくしたものさ。おれという邪魔者がおって、小気味よく断わった。あいつもとんだ恥を掻《か》いたな。はじめからできる相談か、できないことか、見当をつけて懸《か》かればよいのに、何も、八田も目先の見えないやつだ。ばか巡査!」 「あれ伯父さん」  と声ふるえて、後ろの巡査に聞こえやせんと、心を置きて振り返れる、眼《まなこ》に映ずるその人は、……夜目にもいかで見紛《みまが》うべき。 「おや!」と一言われ知らず、口よりもれて愕然《がくぜん》たり。  八田巡査は一注の電気に感ぜしごとくなりき。      四  老人はとっさの間に演ぜられたる、このキッカケにも心着かでや、さらに気に懸《か》くる様子もなく、 「なあ、お香、さぞおれがことを無慈悲なやつと怨《うら》んでいよう。吾《おり》ゃおまえに怨まれるのが本望だ。いくらでも怨んでくれ。どうせ、おれもこう因業じゃ、いい死に様もしやアしまいが、何、そりゃもとより覚悟の前だ」  真顔になりて謂《い》う風情《ふぜい》、酒の業《わざ》とも思われざりき。女《むすめ》はようよう口を開き、 「伯父《おじ》さん、あなたまあ往来で、何をおっしゃるのでございます。早く帰ろうじゃございませんか」  と老人の袂《たもと》を曳《ひ》き動かし急ぎ巡査を避けんとするは、聞くに堪えざる伯父の言《ことば》を渠《かれ》の耳に入れじとなるを、伯父は少しも頓着《とんじゃく》せで、平気に、むしろ聞こえよがしに、 「あれもさ、巡査だから、おれが承知しなかったと思われると、何か身分のいい官員か、金満《かねもち》でも択《えら》んでいて、月給八円におぞ毛をふるったようだが、そんな賤《いや》しい了簡《りょうけん》じゃない。おまえのきらいな、いっしょになると生き血を吸われるような人間でな、たとえばかったい坊だとか、高利貸しだとか、再犯の盗人《ぬすっと》とでもいうような者だったら、おれは喜んで、くれてやるのだ。乞食《こじき》ででもあってみろ、それこそおれが乞食をしておれの財産をみんな【※3】そいつに譲って、夫婦《めおと》にしてやる。え、お香、そうしておまえの苦しむのを見て楽しむさ。けれどもあの巡査はおまえが心《しん》からすいてた男だろう。あれと添われなけりゃ生きてる効《かい》がないとまでに執心の男だ。そこをおれがちゃんと心得てるから、きれいさっぱりと断わった。なんと慾《よく》のないもんじゃあるまいか。そこでいったんおれが断わった上はなんでもあきらめてくれなければならないと、普通《なみ》の人間ならいうところだが、おれがのはそうじゃない。伯父さんがいけないとおっしゃったから、まあ私も仕方がないと、おまえにわけもなく断念《あきら》めてもらった日にゃあ、おれが志も水の泡《あわ》さ、形なしになる。ところで、恋というものは、そんなあさはかなもんじゃあない。なんでも剛胆なやつが危険《けんのん》な目に逢《あ》えば逢うほど、いっそ【※4】剛胆になるようで、何かしら邪魔がはいれば、なおさら恋しゅうなるものでな、とても思い切れないものだということを知っているから、ここでおもしろいのだ。どうだい、おまえは思い切れるかい、うむ、お香、今じゃもうあの男を忘れたか」  女はややしばらく黙したるが、 「い……い……え」ときれぎれに答えたり。  老夫は心地《ここち》よげに高く笑い、 「むむ、もっともだ。そうやすっぽくあきらめられるようでは、わが因業も価値《ねうち》がねえわい。これ、後生だからあきらめてくれるな。まだまだ足りない、もっとその巡査を慕うてもらいたいものだ」  女はこらえかねて顔を振り上げ、 「伯父さん、何がお気に入りませんで、そんな情けないことをおっしゃいます、私は、……」と声を飲む。  老夫は空嘯《そらうそぶ》き、 「なんだ、何がお気に入りません? 謂《い》うな、もったいない。なんだってまたおそらくおまえほどおれが気に入ったものはあるまい。第一|容色《きりょう》はよし、気立てはよし、優しくはある、することなすこと、おまえのことといったら飯のくいようまで気に入るて。しかしそんなことで何、巡査をどうするの、こうするのという理窟《りくつ》はない。たといおまえが何かの折に、おれの生命《いのち》を助けてくれてさ、生命の親と思えばとても、けっして巡査にゃあ遣《や》らないのだ。おまえが憎い女ならおれもなに、邪魔をしやあしねえが、かわいいから、ああしたものさ。気に入るの入らないのと、そんなこたあ言ってくれるな」  女は少しきっとなり、 「それではあなた、あのおかたになんぞお悪いことでもございますの」  かく言い懸《か》けて振り返りぬ。巡査はこのとき囁《ささや》く声をも聞くべき距離に着々として歩《ほ》しおれり。  老夫は頭《こうべ》を打ち掉《ふ》りて、 「う、んや、吾《おり》ゃあいつも大好きさ。八円を大事にかけて、世の中に巡査ほどのものはないと澄ましているのが妙だ。あまり職掌を重んじて、苛酷《かこく》だ、思い遣《や》りがなさすぎると、評判の悪《わる》いのにも【※5】頓着《とんじゃく》なく、すべ一本でも見免《みのが》さない、アノ邪慳《じゃけん》非道なところが、ばかにおれは気に入ってる。まず八円の価値《ねうち》はあるな。八円じゃ高くない、禄《ろく》盗人とはいわれない、まことにりっぱな八円様だ」  女はたまらず顧みて、小腰を屈《かが》め、片手をあげてソト巡査を拝みぬ。いかにお香はこの振舞《ふるまい》を伯父に認められじとは勉《つと》めけん。瞬間にまた頭《こうべ》を返して、八田がなんらの挙動をもてわれに答えしやを知らざりき。      五 「ええと、八円様に不足はないが、どうしてもおまえを遣《や》ることはできないのだ。それもあいつが浮気《うわき》もので、ちょいと色に迷ったばかり、おいやならよしなさい、よそを聞いてみますという、お手軽なところだと、おれも承知をしたかもしれんが、どうしておれが探ってみると、義延《よしのぶ》(巡査の名)という男はそんな男と男が違う。なんでも思い込んだらどうしても忘れることのできない質《たち》で、やっぱりおまえと同一《おんなじ》ように、自殺でもしたいというふうだ。ここでおもしろいて、はははははは」と冷笑《あざわら》えり。  女《むすめ》は声をふるわして、 「そんなら伯父さん、まあどうすりゃいいのでございます」と思い詰めたる体にて問いぬ。  伯父は事もなげに、 「どうしてもいけないのだ。どんなにしてもいけないのだ。とてもだめだ、なんにもいうな、たといどうしても肯《き》きゃあしないから、お香、まあ、そう思ってくれ」  女はわっと泣きいだしぬ【※6】。渠《かれ》は途中なることをも忘れたるなり。  伯父は少しも意に介せず、 「これ、一生のうちにただ一度いおうと思って、今までおまえにもだれにもほのめかしたこともないが、ついでだから謂《い》って聞かす。いいか、亡《な》くなったおまえのお母《っか》さんはな」  母という名を聞くやいなや女はにわかに聞き耳立てて、 「え、お母さんが」 「むむ、亡くなった、おまえのお母さんには、おれが、すっかり惚《ほ》れていたのだ」 「あら、まあ、伯父さん」 「うんや、驚くこたあない、また疑うにも及ばない。それを、そのお母さんを、おまえのお父《とっ》さんに奪《と》られたのだ。な、解《わか》ったか。もちろんおまえのお母さんは、おれがなんだということも知らず、弟《おとと》もやっぱり知らない。おれもまた、口へ出したことはないが、心では、心では、実におりゃもう、お香、おまえはその思い遣《や》りがあるだろう。巡査というものを知ってるから。婚礼の席に連なったときや、明け暮れそのなかのいいのを見ていたおれは、ええ、これ、どんな気がしたとおまえは思う」  という声濁りて、痘痕《とうこん》の充《み》てる頬骨《ほおぼね》高き老顔の酒気を帯びたるに、一眼の盲《し》いたるがいとものすごきものとなりて、拉《とりひし》ぐばかり力を籠《こ》めて、お香の肩を掴《つか》み動かし、 「いまだに忘れない。どうしてもその残念さが消え失《う》せない。そのためにおれはもうすべての事業を打ち棄《す》てた。名誉も棄てた。家も棄てた。つまりおまえの母親が、おれの生涯《しょうがい》の幸福と、希望とをみな奪ったものだ。おれはもう世の中に生きてる望みはなくなったが、ただ何とぞしてしかえしがしたかった、といって寝刃《ねたば》を合わせるじゃあない、恋に失望したもののその苦痛《くるしみ》というものは、およそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに、要《い》らざる生命《いのち》をながらえたが、慕い合って望みが合《かの》うた、おまえの両親に対しては、どうしてもその味を知らせよう手段がなかった。もうちっと長生きをしていりゃ、そのうちにはおれが仕方を考えて思い知らせてやろうものを、ふしあわせだか、しあわせだか、二人ともなくなって、残ったのはおまえばかり。親身といってほかにはないから、そこでおいらが引き取って、これだけの女にしたのも、三代|崇《たた》る執念で、親のかわりに、なあ、お香、きさまに思い知らせたさ。幸い八田という意中人《おもいもの》が、おまえの胸にできたから、おれも望みが遂げられるんだ。さ、こういう因縁があるんだから、たとい世界の金満《かねもち》におれをしてくれるといったって、とても謂《い》うこたあ肯《き》かれない。覚悟しろ! 所詮《しょせん》だめだ。や、こいつ、耳に蓋《ふた》をしているな」  眼《め》にいっぱいの涙を湛《たた》えて、お香はわなわなふるえながら、両|袖《そで》を耳にあてて、せめて死刑の宣告を聞くまじと勤めたるを、老夫は残酷にも引き放ちて、 「あれ!」と背《そむ》くる耳に口、 「どうだ、解《わか》ったか。なんでも、少しでもおまえが失望の苦痛《くるしみ》をよけいに思い知るようにする。そのうち巡査のことをちっとでも忘れると、それ今夜のように人の婚礼を見せびらかしたり、気の悪くなる談話《はなし》をしたり、あらゆることをして苛《いじ》めてやる」 「あれ、伯父さん、もう私は、もう、ど、どうぞ堪忍してくださいまし。お放しなすって、え、どうしょうねえ」  とおぼえず、声を放ちたり。  少し距離を隔てて巡行せる八田巡査は思わず一足前に進みぬ。渠《かれ》はそのところ【※7】を通り過ぎんと思いしならん。さりながらえ進まざりき。渠は立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退《さが》りぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造次《ぞうじ》の間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話《はなし》を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾《とく》に渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。しかれども【※8】渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回《うかい》し、あるいは疾走し、緩歩し、立停《りゅうてい》するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑《いさぎよ》しとせざりしところなり。      六  老人はなお女の耳を捉《とら》えて放たず、負われ懸《か》かる【※9】がごとくにして歩行《ある》きながら、 「お香、こうは謂うもののな、おれはおまえが憎かあない、死んだ母親にそっくりでかわいくってならないのだ。憎いやつなら何もおれが仕返しをする価値《ねうち》はないのよ。だからな、食うことも衣《き》ることも、なんでもおまえの好きなとおり、おりゃ衣ないでもおまえには衣せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。おれももう取る年だし、死んだあとでと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、おれが死ぬときはきさまもいっしょだ」  恐ろしき声をもて老人が語れるその最後の言《ことば》を聞くと斉《ひと》しく、お香はもはや忍びかねけん、力を極《きわ》めて老人が押えたる肩を振り放し、ばたばたと駈け出《い》だして、あわやと見る間に堀端《ほりばた》の土手へひたりと飛び乗りたり。コハ身を投ぐる! と老人は狼狽《うろた》えて、引き戻さんと飛び行きしが、酔眼に足場をあやまり、身を横ざまに霜を辷《すべ》りて、水にざんぶと落ち込みたり。  このとき疾《はや》く救護のために一躍して馳《は》せ来たれる、八田巡査を見るよりも、 「義さん」と呼吸《いき》せわしく、お香は一声呼び懸《か》けて、巡査の胸に額《ひたい》を埋《うず》めわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかりに縋《すが》り着きぬ。蔦《つた》をその身に絡《から》めたるまま枯木は冷然として答えもなさず、堤防の上につと立ちて、角燈片手に振り翳《かざ》し、水をきっと瞰下《みお》ろしたる、ときに寒冷|謂《い》うべからず、見渡す限り霜白く墨より黒き水面に烈《はげ》しき泡《あわ》の吹き出ずるは老夫の沈める処《ところ》と覚しく、薄氷は亀裂《きれつ》しおれり。  八田巡査はこれを見て、躊躇《ちゅうちょ》するもの一|秒時《セコンド》、手なる角燈を差し置きつ、と見れば一枝の花簪《はなかんざし》の、徽章《きしょう》のごとくわが胸に懸《か》かれるが、ゆらぐばかりに動悸《どうき》烈《はげ》しき、お香の胸とおのが胸とは、ひたと合いてぞ放れがたき。両手を静かにふり払いて、 「お退《ど》き」 「え、どうするの」  とお香は下より巡査の顔を見上げたり。 「助けてやる」 「伯父さんを?」 「伯父でなくってだれが落ちた」 「でも、あなた」  巡査は儼然《げんぜん》として、 「職務だ」 「だってあなた」  巡査はひややかに、「職掌だ」  お香はにわかに心着き、またさらに蒼《あお》くなりて、 「おお、そしてまああなた、あなたはちっとも泳ぎを知らないじゃありませんか」 「職掌だ」 「それだって」 「いかん、だめだもう、僕も殺したいほどの老爺《おやじ》だが、職務だ! 断念《あきらめ》ろ」  と突きやる手に喰《く》い附《つ》くばかり、 「いけませんよう、いけませんよう。あれ、だれぞ来てくださいな。助けて、助けて」と呼び立つれど、土塀《どべい》石垣寂として、前後十町に行人絶えたり。  八田巡査は、声をはげまし、 「放さんか!」  決然として振り払えば、力かなわで手を放てる、咄嵯《とっさ》に巡査は一躍して、棄つるがごとく身を投ぜり。お香はハッと絶え入りぬ。あわれ八田は警官として、社会より荷《にな》える負債を消却せんがため、あくまでその死せんことを、むしろ殺さんことを欲しつつありし悪魔を救わんとて【※10】、氷点の冷、水凍る夜半《よわ》に泳ぎを知らざる身の、生命とともに愛を棄てぬ。後日社会は一般に八田巡査を仁なりと称せり。ああはたして仁なりや、しかも一人の渠《かれ》が残忍|苛酷《かこく》にして、恕《じょ》すべき老車夫を懲罰し、憐《あわれ》むべき母と子を厳責したりし尽瘁《じんすい》を、讃歎《さんたん》するもの無きはいかん。 【校注】 底本を、岩波書店の『鏡花全集 巻一』(1942年7月30日発行、1986年9月3日第3刷)と比較し、明らかに違っている部分に関しては、どちらが正しいとは解らないけれど、『鏡花全集』のものに拠った。 ※1  底本は「いかん」、全集は「如何《いかに》」 ※2  底本は「なにとぞ」、全集は「何卒《どうぞ》」 ※3  底本は「みな」、全集は「皆《みん》な」 ※4  底本は「いっそう」、全集は「一層《いっそ》」 ※5  底本は「悪《わろ》いのに」、全集は「悪《わる》いのにも」 ※6  底本は「泣きだしぬ」、全集は「泣《な》き出《いだ》しぬ」 ※7  底本は「そこ」、全集は「其処《そのところ》」 ※8  底本は「されども」、全集は「然《しか》れども」 ※9  底本は「懸くる」、全集は「懸《かか》る」 ※10 底本は「救わんとして」、全集は「救わんとて」 底本:「高野聖」角川文庫、角川書店    1971(昭和46)年4月20日改版初版発行    1999(平成11)年2月10日改版40版発行 初出:「文芸倶楽部」明治28年4月 入力:真先芳秋 校正:鈴木厚司 1999年9月10日公開 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。