素描三題・他七編(塵労・軽井沢で・都会で・仙人・耳目記・凶・鵠沼雑記) 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)私《わたし》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)出版|書肆《しよし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ナイホク[#「ナイホク」に傍点] ------------------------------------------------------- 塵労  或春の午後であつた。私《わたし》は知人の田崎《たざき》に面会する為に彼が勤めてゐる出版|書肆《しよし》の狭い応接室の椅子《いす》に倚《よ》つてゐた。 「やあ、珍しいな。」  間《ま》もなく田崎は忙《いそが》しさうに、万年筆を耳に挟《はさ》んだ儘、如何《いかが》はしい背広姿を現した。 「ちと君に頼みたい事があつてね、――実は二三日保養|旁《かたがた》、修善寺《しゆぜんじ》か湯河原《ゆがはら》へ小説を書きに行《ゆ》きたいんだが、……」  私は早速《さつそく》用談に取りかかつた。近々《きんきん》私の小説集が、この書肆から出版される。その印税の前借《ぜんしやく》が出来るやうに、一つ骨を折つて見てはくれまいか。――これがその用談の要点であつた。 「そりや出来ない事もないが、――しかし温泉へ行《ゆ》くなぞは贅沢《ぜいたく》だな。僕はまだ臍《ほぞ》の緒《を》切つて以来、旅行らしい旅行はした事がない。」  田崎《たざき》は「朝口」へ火をつけると、その生活に疲れた顔へ、無邪気な羨望《せんぼう》の色を漲《みなぎ》らせた。 「何処《どこ》へでも旅行すれば好《い》いぢやないか。君なぞは独身なんだし。」 「所が貧乏暇なしでね。」  私はこの旧友の前に、聊《いささ》か私の結城《ゆふき》の着物を恥ぢたいやうな心もちになつた。 「だが君も随分《ずゐぶん》長い間《あひだ》、この店に勤めてゐるぢやないか。一体今は何をしてゐるんだ。」 「僕か。」  田崎は「朝日」の灰を落しながら、始めて得意さうな返事をした。 「僕は今旅行案内の編纂《へんさん》をしてゐるんだ。まづ今までに類のない、大規模な旅行案内を拵《こしら》へて見ようと思つてね。」 ---------- 軽井沢《かるゐざは》で  黒馬に風景が映《うつ》つてゐる。      ×  朝のパンを石竹《せきちく》の花と一しよに食はう。      ×  この一群《ひとむれ》の天使たちは蓄音機《ちくおんき》のレコオドを翼にしてゐる。      ×  町はづれに栗の木が一本。その下にインクがこぼれてゐる。      ×  青い山をひつ掻《か》いて見給へ。石鹸《せつけん》が幾つもころげ出すだらう。      ×  英字新聞には黄瓜《かぼちや》を包め。      ×  誰かあのホテルに蜂蜜を塗つてゐる。      ×  M夫人――舌の上に蝶《てふ》が眠つてゐる。      ×  Fさん――額《ひたひ》の毛が乞食《こじき》をしてゐる。      ×  Oさん――あの口髭《くちひげ》は駝鳥《だてう》の羽根だらう。      ×  詩人S・Mの言葉――芒《すすき》の穂は毛皮だね。      ×  或牧師の顔――臍《へそ》!      ×  レエスやナプキンの中へずり落ちる道。      ×  碓氷《うすひ》山上の月、――月にもかすかに苔《こけ》が生えてゐる。      ×  H老夫人の死、――霧は仏蘭西《フランス》の幽霊に似てゐる。      ×  馬蝿《うまばへ》は水星にも群《むらが》つて行つた。      ×  ハムモツクを額に感じるうるささ。      ×  雷《かみなり》は胡椒《こせう》よりも辛《から》い。      × 「巨人《きよじん》の椅子《いす》」と云う岩のある山、――瞬《またた》かない顔が一つ見える。      ×  あの家は桃色の歯齦《はぐき》をしてゐる。      ×  羊の肉には羊歯《しだ》の葉を添へ給へ。      ×  さやうなら。手風琴《てふうきん》の町、さようなら、僕の抒情詩《ぢよじやうし》時代。 (大正十四年稿) ---------- 都会で ――或は千九百十六年の東京――      一  風に靡《なび》いたマツチの炎《ほのほ》ほど無気味《ぶきみ》にも美しい青いろはない。      二  如何《いか》に都会を愛するか?――過去の多い女を愛するやうに。      三  雪の降つた公園の枯芝《かれしば》は何よりも砂糖漬にそつくりである。      四  僕に中世紀を思ひ出させるのは厳《いか》めしい赤煉瓦《あかれんぐわ》の監獄である。若し看守《かんしゆ》さへゐなければ、馬に乗つたジアン・ダアクの飛び出すのに遇《あ》つても驚かないかも知れない。      五  或女給の言葉。――いやだわ。今夜はナイホク[#「ナイホク」に傍点]なんですもの。  註。ナイホク[#「ナイホク」に傍点]はナイフだのフオオクだのを洗ふ番に当ることである。      六  並み木に多いのは篠懸《すずかけ》である。橡《とち》も三角楓《たうかへで》も極めて少ない。しかし勿論派出所の巡査はこの木の古典的趣味を知らずにゐる。      七  令嬢に近い芸者が一人《ひとり》、僕の五六歩前に立ち止まると、いきなり挙手の礼をした。僕はちよつと狼狽《らうばい》した。が、後《うし》ろを振り返つたら、同じ年頃の芸者が一人、やはりちやんと挙手の礼をしてゐた。      八  最も僕を憂鬱にするもの。――カアキイ色に塗つた煙突《えんとつ》。電車の通らない線路の錆《さ》び。屋上《をくじやう》庭園に飼《か》はれてゐる猿。……      九  僕は午前一時頃或町裏を通りかかつた。すると泥だらけの土工《どこう》が二人《ふたり》、瓦斯《ガス》か何かの工事をしてゐた。狭い路は泥の山だつた。のみならずその又泥の山の上にはカンテラの火が一つ靡《なび》いてゐた。僕はこのカンテラの為にそこを通ることも困難だつた。すると若い土工が一人《ひとり》、穴の中から半身を露《あらは》したまま、カンテラを側《わき》へのけてくれた。僕は小声に「ありがたう」と言つた。が、何か僕自身を憐《あはれ》みたい気もちもない訣《わけ》ではなかつた。      十     夜半《やはん》の隅田川《すみだがは》は何度見ても、詩人S・Mの言葉を越えることは出来ない。――「羊羹《やうかん》のやうに流れてゐる。」      十一 「××さん、遊びませう」と云う子供の声、――あれは音《おん》の高低を示せば、××San[#「San」30度位斜めに上がる] Asobi-ma show[#「show」30度位斜めに上がる]である。あの音《おん》はいつまで残つてゐるかしら。      十二  火事はどこか祭礼に似てゐる。      十三  東京の冬は何よりも漬《つ》け菜《な》の茎の色に現《あらは》れてゐる。殊に場末《ばすゑ》の町々では。      十四  何かものを考へるのに善《よ》いのはカツフエの一番隅の卓子《テエブル》、それから孤独を感じるのに善《よ》いのは人通りの多い往来《わうらい》のまん中、最後に静かさを味ふのに善いのは開幕中の劇場の廊下《らうか》、…… (昭和二年二月) ---------- 仙人  この「仙人」は琵琶湖《びはこ》に近いO町の裁判官を勤めてゐた。彼の道楽は何よりも先に古い瓢箪《へうたん》を集めることだつた。従つて彼の借りてゐた家には二階の戸棚の中は勿論《もちろん》、柱や鴨居《かもゐ》に打つた釘にも瓢箪が幾つもぶら下つてゐた。  三年ばかりたつた後《のち》、この「仙人」はO町からH市へ転任することになつた。家具家財を運ぶのは勿論彼には何でもなかつた。が、彼是二百余りの瓢箪《へうたん》を運ぶことだけはどうすることも出来なかつた。 「汽車に積んでも、馬車に積んでも、無事には着かないのに違ひない。」  この仙人はいろいろ考へた揚句、とうとう瓢箪を皆|括《くく》り合はせ、それを琵琶湖の上へ浮かせて舟の代りにすることにした。(その又瓢箪舟の中心になつたのはやはり彼の「掘り出して来た」遊行柳《ゆぎやうやなぎ》の根つこだつた。)天気は丁度晴れ渡つた上、幸ひ風も吹かなかつた。彼はかういふ瓢箪舟に乗り、彼自身|棹《さを》を使ひながら、静かに湖の上を渡つて行つた。  昔の仙人は誰も皆不老不死の道に達してゐる。しかしこの「仙人」だけは世間並みにだんだん年をとり、最後に胃癌《ゐがん》になつてしまつた。何でも死ぬ前夜には細り切つた両手をあげ、「あしたあたりはお目出度になるだらう。万歳!」と言つたと云ふことである。しかし彼の遺言状《ゆゐごんじやう》は生死を超越しない俗人よりも更に綿密だつたと云ふことである。尤も彼の遺族たちはこの「仙人」の遺言状を一々忠実には守らなかつたらしい。のみならず彼の瓢箪を目当てに彼の南画を習つてゐた年少の才子もない訣《わけ》ではなかつた。従つて彼の愛してゐた彼是《かれこれ》二百余りの瓢箪は彼の一周忌をすまないうちにいつかどこかへ流れ出してしまつた。 ---------- 耳目記      ×  僕等の性格は不思議にも大抵《たいてい》頸《くび》すぢの線に現はれてゐる。この線の鈍《にぶ》いものは敏感ではない。      ×  それから又僕等の性格は声にも現れてゐる。声の堅いものは必ず強い。      ×  筍《たけのこ》、海苔《のり》、蕎麦《そば》、――かう云うものを猫の食ふことは僕には驚嘆する外《ほか》はなかつた。      ×  或狂信者のポルトレエ――彼は皮膚に光沢《くわうたく》を持つてゐる。それこから熱心に話す時はいつも片眼をつぶり、銃でも狙《ねら》ふやうにしないことはない。      ×  僕は話に熱中する度に左の眉《まゆ》だけ挙げる人と話した。ああいふ眉は多いものかしら。      ×  僕は教育なり趣味なりの大抵《たいてい》同程度と思ふ人々に何枚かの女の写真を見せ、一番美人と思ふのを選んで貰つた。が、二十五人中同じ女を美人と言つたのはたつた二人ゐただけだつた。即ち女の美醜《びしう》を定《き》めるのさへ百分の四以上を超《こ》えないらしい。しかもこれは前に言つたやうに教育なり趣味なりの程度の似よつた人びとの間《あひだ》だけである。      ×  或|果物問屋《くだものとんや》の娘の話。――川に西瓜《すゐくわ》が一つ浮いてゐると思つたら、土左衛門《どざゑもん》の頭だつたのです。      ×  僕は肥《ふと》つた人の手を見ると、なぜか海豹《あざらし》の鰭《ひれ》を思ひ出してゐる。      ×  僕は女の人生の戦利品を三つ記憶してゐる。  一つは長女に後《うしろ》を向けて次男に乳をのませてゐる女親。  一つは或女給の胸に下《さが》つたいろいろの学校のメダルの一ふさ。  一つは或|玄人上《くろうとあが》りの細君《さいくん》の必ず客の前へ抱《だ》いて来る赤児。 (昭和二年四月) ---------- 素描三題      一 お宗《そう》さん  お宗《そう》さんは髪の毛の薄いためにどこへも縁《えん》づかない覚悟をしてゐた。が、髪の毛の薄いことはそれ自身お宗さんには愉快ではなかつた。お宗さんは地肌の透《す》いた頭へいろいろの毛生《けは》え薬をなすつたりした。 「どれも広告ほどのことはないんですよ。」  かういふお宗さんも声だけは善かつた。そこで賃仕事の片手間《かたてま》に一中節《いつちうぶし》の稽古《けいこ》をし、もし上達するものとすれば師匠《ししやう》になるのも善いと思ひ出した。しかし一中節はむづかしかつた。のみならず酒癖《さけくせ》の悪い師匠は、時々お宗さんをつかまへては小言《こごと》以上の小言を言つたりした。 「お前なんどは肥《こへ》たご桶《をけ》を叩いて甚句《じんく》でもうたつてお出《い》でなさりや善《い》いのに。」  師匠は酒の醒《さ》めてゐる時には決してお宗さんにも粗略ではなかつた。しかし一度言はれた小言はお宗さんをひがませずには措《お》かなかつた。「どうせあたしは檀那衆《だんなしゆう》のやうによくする訣《わけ》には行《い》かないんだから。」――お宗さんは時々兄さんにもそんな愚痴《ぐち》などをこぼしてゐた。 「曾我《そが》の五郎と十郎とは一体どつちが兄さんです?」  四十を越したお宗さんは「形見《かたみ》おくり」を習つてゐるうちに真面目《まじめ》にかういふことを尋ねたりした。この返事には誰も当惑《たうわく》した。誰も? ――いや「誰も」ではない。やつと小学校へはひつた僕はすぐに「十郎が兄さんですよ」といひ、反《かへ》つてみんなに笑はれたのを羞《はづか》しがらずにはゐられなかつた。 「何しろああいふお師匠さんぢやね。」  一中節《いつちうぶし》の師匠《ししやう》になることはとうとうお宗《そう》さんには出来なかつた。お宗さんはあの震災のために家も何も焼かれたとかいふことだつた。のみならず一時は頭の具合《ぐあひ》も妙になつたとかいふことだつた。僕はお宗さんの髪の毛も何か頭の病気のために薄いのではないかと思つてゐる。お宗さんの使つた毛生え薬は何も売薬《ばいやく》ばかりではない。お宗さんはいつか蝙蝠《かうもり》の生き血を一面に頭に塗りつけてゐた。 「鼠の子の生き血も善《よ》いといふんですけれども。」  お宗さんは円《まる》い目をくるくるさせながら、きよとんとしてこんなことも言つたものだつた。      二 裏畠  それはKさんの家の後《うし》ろにある二百坪ばかりの畠《はたけ》だつた。Kさんはそこに野菜のほかにもポンポン・ダリアを作つてゐた。その畠を塞《ふさ》いでゐるのは一日に五、六度汽車の通る一間《いつけん》ばかりの堤《つつみ》だつた。  或夏も暮れかかつた午後、Kさんはこの畠へ出、もう花もまれになつたポンポン・ダリアに鋏《はさみ》を入れてゐた。すると汽車は堤の上をどつと一息《ひといき》に通りすぎながら、何度も鋭い非常警笛を鳴らした。同時に何か黒いものが一つ畠の隅へころげ落ちた。Kさんはそちらを見る拍子《ひやうし》に「又|庭鳥《にはとり》がやられたな」と思つた。それは実際黒い羽根《はね》に青い光沢《くわうたく》を持つてゐるミノルカ種《しゆ》の庭鳥にそつくりだつた。のみならず何か※[#「惟」の「りっしんべん」に代えて「奚」、380-上12]冠《とさか》らしいものもちらりと見えたのに違ひなかつた。  しかし庭鳥と思つたのはKさんにはほんの一瞬間だつた。Kさんはそこに佇《たたず》んだまま、あつけにとられずにはゐられなかつた。その畠へころげこんだものは実は今汽車に轢《ひ》かれた二十四五の男の頭だつた。      三 武さん  武《たけ》さんは二十八歳の時に何かにすがりたい慾望を感じ、(この慾望を生じた原因は特にここに言はずともよい。)当時名高い小説家だつたK先生を尋ねることにした。が、K先生はどう思つたか、武さんを玄関の中へ入れずに格子《かうし》戸越しにかう言ふのだつた。 「御用向きは何ですか?」  武さんはそこに佇《たたず》んだまま、一部始終《いちぶしじゆう》をK先生に話した。 「その問題を解決するのはわたしの任ではありません。Tさんのところへお出でなさい。」  T先生は基督《キリスト》教的色彩を帯びた、やはり名高い小説家だつた。武さんは早速《さつそく》その日のうちにT先生を訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさやうなら」と言つたぎり、さつさと奥へ引きこまうとした。武さんは慌《あわ》ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。 「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行つて見ては?」  武さんはやつと三度目にU先生に辿《たど》り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督《キリスト》教的思想家だつた。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはひつて行つた。同時に又次第に現世《げんせ》には珍らしい生活へはひつて行つた。  それは唯はた目には石鹸《せつけん》や歯磨《はみが》きを売る行商《ぎやうしやう》だつた。しかし武さんは飯《めし》さへ食へれば、滅多《めつた》に荷を背負《せお》つて出かけたことはなかつた。その代りにトルストイを読んだり、蕪村《ぶそん》句集講義を読んだり、就中《なかんづく》聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼつてゐるであらう。兎《と》に角《かく》武さんは昔の坊さんの法華経《ほけきやう》などを筆写したやうに勇猛に聖書を筆写したのである。  或夏の近づいた月夜、武《たけ》さんは荷物を背負《せお》つたまま、ぶらぶら行商《ぎやうしやう》から帰つて来た。すると家の近くへ来た時、何か柔《やはら》かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹の蟇《ひき》がへるに違ひなかつた。武さんは「俺《おれ》は悪いことをした」と思つた。それから家へ帰つて来ると、寝床の前に跪《ひざまづ》き、「神様、どうかあの蟇《ひき》がへるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈祷《きたう》をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木《くさき》のない所にしたことはない。尤《もつと》もその為に一本の若木の枯れてしまつたことは確かである。)  武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だつた。牛乳配達は武さんの顔を見ると、紫がかつた壜《びん》をさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。 「今あすこを通つて来ると、踏みつぶされた蟇《ひき》がへるが一匹向うの草の中へはひつて行《ゆ》きましたよ。蟇がへるなどといふやつは強いものですね。」  武さんは牛乳配達の帰つた後《あと》、早速《さつそく》感謝の祈祷をした。――これは武さんの直話《ぢきわ》である。僕は現世にもかういふ奇蹟《きせき》の行はれるといふことを語りたいのではない。唯現世にもかういふ人のゐるといふことを語りたいのである。僕の考へは武さんの考へとは、――僕にこの話をした武さんの考へとは或は反対になるであらう。しかし僕は不幸にも武さんのやうに信仰にはひつてゐない。従つて考への喰ひ違ふのはやむを得ないことと思つてゐる。 (昭和二・五・六) ---------- 凶  大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷《ほんがう》通りを一高の横から藍染橋《あゐそめばし》へ下《くだ》らうとしてゐた。あの通りは甚だ街燈の少い、いつも真暗《まつくら》な往来《わうらい》である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣《くは》へながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色《きんいろ》の唐艸《からくさ》をつけた、葬式に使ふ自動車だつた。  大正十三年の夏、僕は室生犀星《むろふさいせい》と軽井沢《かるゐざは》の小みちを歩いてゐた。山砂《やまずな》もしつとりと湿気を含んだ、如何《いか》にももの静かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つた空に黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝の間《あひだ》に人の脚《あし》が二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦《また》僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて来た。僕はちよつと羞《はづか》しかつたから、何《なん》とか言つて護摩化《ごまか》してしまつた。  大正十四年の夏、僕は菊池寛《きくちひろし》、久米正雄《くめまさを》、植村宋一《うゑむらそういち》、中山太陽堂《なかやまたいやうだう》社長などと築地《つきぢ》の待合《まちあひ》に食事をしてゐた。僕は床柱《とこばしら》の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの拍子《ひやうし》に餉台《ちやぶだい》の上の麦酒罎《ビイルびん》を眺めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つ映《うつ》つてゐた。それは僕の顔にそつくりだつた。しかし何も麦酒罎は僕の顔を映してゐた訣《わけ》ではない。その証拠には実在の僕は目を開いてゐたのにも関《かかは》らず、幻の僕は目をつぶつた上、稍仰向《ややあふむ》いてゐたのである。僕は傍らにゐた芸者を顧み、「妙な顔が映《うつ》つてゐる」と言つた。芸者は始は常談《じやうだん》にしてゐた。けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」と言つた。菊池や久米も替《かは》る替《がは》る僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つていた。それは久米の発見によれば、麦酒《ビイル》罎の向うに置いてある杯洗《はいせん》や何かの反射だつた。しかし僕は何《なん》となしに凶《きよう》を感ぜずにはゐられなかつた。  大正十五年の正月十日、僕はやはりタクシイに乗り、本郷《ほんがう》通りを一高の横から藍染橋《あゐそめばし》へ下《くだ》らうとしてゐた。するとあの唐艸《からくさ》をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりと後ろを現し出した。僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡《れんらく》のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々《めいめい》の裡《うち》に或警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。 (大正十五年四月十三日|鵠沼《くげぬま》にて浄書)  〔遺稿〕 ---------- 鵠沼雑記  僕は鵠沼《くげぬま》の東屋《あづまや》の二階にぢつと仰向《あふむ》けに寝ころんでゐた。その又僕の枕もとには妻《つま》と伯母《をば》とが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」と言つた。妻や伯母《をば》はとり合はなかつた。殊に妻は「このお天気に」と言つた。しかし二分とたたないうちに珍らしい大雨《たいう》になつてしまつた。            ×  僕は全然人かげのない松の中の路《みち》を散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸《かうぐわん》を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角《かど》へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。      ×  僕は路ばたの砂の中に雨蛙《あまがへる》が一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。      ×  僕は風向《かざむ》きに従つて一様《いちやう》に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪《ゆが》んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪《ゆが》んでゐた。これは不気味《ぶきみ》でならなかつた。      ×  僕は風呂《ふろ》へはひりに行つた。彼是《かれこれ》午後の十一時だつた。風呂場の流しには青年が一人《ひとり》、手拭《てぬぐひ》を使はずに顔を洗つてゐた。それは毛を抜いた※[#「惟」の「りっしんべん」に代えて「奚」、385-下15]《にはとり》のやうに痩《や》せ衰へた青年だつた。僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。(以上|東屋《あづまや》にゐるうち)      ×  僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂索《ささきもさく》君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽《むぎわらばう》をかぶつた馭者《ぎよしや》に北京《ペキン》の物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の天幕《テント》の裂《さ》け目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。      ×  僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供に遇《あ》つた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つた後《のち》も、暫《しばら》くの間《あひだ》はつづいてゐた。      ×  僕はぼんやり煙草を吸ひながら、不快なことばかり考へてゐた。僕の前の次の間《ま》にはここへ来て雇《やと》つた女中が一人《ひとり》、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでゐるらしかつた。僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」と言つた。どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は頓狂《とんきやう》な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。      ×  僕はバタの罐《くわん》をあけながら、軽井沢《かるゐざは》の夏を思ひ出した。その拍子《ひやうし》に頸《くび》すぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に沢山《たくさん》ゐる馬蝿《うまばへ》が一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。丁度《ちようど》軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。      ×  僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴《かみなり》は何《なん》ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠《ほ》え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団《ふとん》をかぶるか、妻のゐる次の間《ま》へ避難してしまふ。      ×  僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札《ふだ》を出した家を見つけた。が、二三日たつた後《のち》、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名《かたかな》を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。(以上家を借りてから) (一五・七・二〇)〔遺稿〕 底本:筑摩書房刊 芥川龍之介全集第四巻    1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行    1971(昭和46)年10月5日初版第5刷発行 入力校正:j.utiyama 1999年2月15日公開 1999年8月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです