るしへる 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 ※[#]:外字の説明(数字は、底本のページ数と行数) (例)※[#「つつみがまえ」の中に「タ」 240-2]惶《そうこう》 ------------------------------------------------------- 天主初成世界 随造三十六神 第一鉅神 云輅斉布児(中略) 自謂其智与天主等 天主怒而貶入地獄(中略) 輅斉雖入地獄受苦 而一半魂神作魔鬼遊行世間 退人善念            ―左闢第三闢裂性中艾儒略荅許大受語―            一  破提宇子と云う天主教を弁難した書物のある事は、知っている人も少くあるまい。これは、元和六年、加賀の禅僧巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 232-6]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 232-6]なるものの著した書物である。巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 232-6]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 232-6]は当初南蛮寺に住した天主教徒であったが、その後何かの事情から、DS 如来を捨てて仏門に帰依する事になった。書中に云っている所から推すと、彼は老儒の学にも造詣のある、一かどの才子だったらしい。  破提宇子の流布本は、華頂山文庫の蔵本を、明治戊辰の頃、杞憂道人鵜飼徹定の序文と共に、出版したものである。が、そのほかにも異本がない訳ではない。現に予が所蔵の古写本の如きは、流布本と内容を異にする個所が多少ある。  中でも同書の第三段は、悪魔の起源を論じた一章であるが、流布本のそれに比して、予の蔵本では内容が遥に多い。巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 233-8]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 233-8]自身の目撃した悪魔の記事が、あの辛辣な弁難攻撃の間に態々引証されてあるからである。この記事が流布本に載せられていない理由は、恐らくその余りに荒唐無稽に類する所から、こう云う破邪顕正を標榜する書物の性質上、故意の脱漏を利としたからでもあろうか。  予は以下にこの異本第三段を紹介して、聊巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 233-12]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 233-12]の前に姿を現した、日本の Diabolus を一瞥しようと思う。なお巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 234-1]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 234-1]に関して、詳細を知りたい人は、新村博士の巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 234-1]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 234-1]に関する論文を一読するが好い。      二  提宇子のいわく、DS は「すひりつあるすすたんしや」とて、無色無形の実体にて、間に髪を入れず、天地いつくにも充満して在ませども、別して威光を顕し善人に楽を与え玉わんために「はらいそ」とて極楽世界を諸天の上に作り玉う。その始人間よりも前に、安助(天使)とて無量無数の天人を造り、いまだ尊体を顕し玉わず。上一人の位を望むべからずとの天戒を定め玉い、この天戒を守らばその功徳に依って、DS の尊体を拝し、不退の楽を極むべし。もしまた破戒せば「いんへるの」とて、衆苦充満の地獄に堕し、毒寒毒熱の苦難を与うべしとの義なりしに、造られ奉って未だ一刻をも経ざるに、即ち無量の安助の中に「るしへる」と云える安助、己が善に誇って我は是 DS なり、我を拝せよと勧めしに、かの無量の安助の中、三分の一は「るしへる」に同意し、多分は与せず、ここにおいて DS「るしへる」を初とし、彼に与せし三分の一の安助をば下界へ追い下し、「いんへるの」に堕せしめ給う。即安助高慢の科に依って、「じゃぼ」とて天狗と成りたるものなり。  破していわく、汝提宇子、この段を説く事、ひとえに自縄自縛なり、まず DS はいつくにも充ち満ちて在ますと云うは、真如法性本分の天地に充塞し、六合に遍満したる理を、聞きはつり云うかと覚えたり。似たる事は似たれども、是なる事は未だ是ならずとは、如此の事をや云う可き。さて汝云わずや。DS は「さひえんちいしも」とて、三世了達の智なりとは。然らば彼安助を造らば、即時に科に落つ可きと云う事を知らずんばあるべからず。知らずんば、三世了達の智と云えば虚談なり。また知りながら造りたらば、慳貪の第一なり。万事に叶う DS ならば、安助の科に堕せざるようには、何とて造らざるぞ。科に落つるをままに任せ置たるは、頗る天魔を造りたるものなり。無用の天狗を造り、邪魔を為さするは、何と云う事ぞ。されど「じゃぼ」と云う天狗、もとよりこの世になしと云うべからず。ただ、DS 安助を造り、安助悪魔と成りし理、聞えずと弁ずるのみ。  よしまた、「じゃぼ」の成り立は、さる事なりとするも、汝がこれを以て極悪兇猛の鬼物となす条、甚以て不審なり。その故は、われ、昔、南蛮寺に住せし時、悪魔「るしへる」を目のあたりに見し事ありしが、彼自らその然らざる理を述べ、人間の「じゃぼ」を知らざる事、夥しきを歎きしを如何。云うこと勿れ、巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 236-1]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 236-1]、天魔の愚弄する所となり、妄に胡乱の言をなすと。天主と云う名に嚇されて、正法の明なるを悟らざる汝提宇子こそ、愚痴のただ中よ。わが眼より見れば、尊げに「さんた・まりあ」などと念じ玉う、伴天連の数は多けれど、悪魔「るしへる」ほどの議論者は、一人もあるまじく存ずるなり。今、事の序なれば、わが「じゃぼ」に会いし次第、南蛮の語にては「あぼくりは」とも云うべきを、あらあら下に記し置かん。  年月のほどは、さる可き用もなければ云わず。とある年の秋の夕暮、われ独り南蛮寺の境内なる花木の茂みを歩みつつ、同じく切支丹宗門の門徒にして、さるやんごとなきあたりの夫人が、涙ながらの懺悔を思いめぐらし居たる事あり。先つごろ、その夫人のわれに申されけるは、「このほど、怪しき事あり。日夜何ものとも知れず、わが耳に囁きて、如何ぞさばかりむくつけき夫のみ守れる。世には情ある男も少からぬものをと云う。しかもその声を聞く毎に、神魂たちまち恍惚として、恋慕の情自ら止め難し。さればとてまた、誰と契らんと願うにもあらず、ただ、わが身の年若く、美しき事のみなげかれ、徒らなる思に身を焦すなり」と。われ、その時、宗門の戒法を説き、かつ厳に警めけるは、「その声こそ、一定悪魔の所為とは覚えたれ。総じてこの「じゃぼ」には、七つの恐しき罪に人間を誘う力あり、一に驕慢、二に憤怒、三に嫉妬、四に貪望、五に色欲、六に餮饕、七に懈怠、一つとして堕獄の悪趣たらざるものなし。されば DS が大慈大悲の泉源たるとうらうえにて、「じゃぼ」は一切諸悪の根本なれば、いやしくも天主の御教を奉ずるものは、かりそめにもその爪牙に近づくべからず。ただ、専念に祈祷を唱え、DS の御徳にすがり奉って、万一「いんへるの」の業火に焼かるる事を免るべし」と。われ、さらにまた南蛮の画にて見たる、悪魔の凄じき形相など、こまごまと談りければ、夫人も今更に「じゃぼ」の恐しさを思い知られ、「さてはその蝙蝠の翼、山羊の蹄、蛇の鱗を備えしものが、目にこそ見えね、わが耳のほとりに蹲りて、淫らなる恋を囁くにや」と、身ぶるいして申されたり。われ、その一部始終を心の中に繰返しつつ、異国より移し植えたる、名も知らぬ草木の薫しき花を分けて、ほの暗き小路を歩み居しが、ふと眼を挙げて、行手を見れば、われを去る事十歩ならざるに、伴天連めきたる人影あり。その人、わが眼を挙ぐるより早く、風の如く来りて、問いけるは、「汝、われを知るや」と。われ、眼を定めてその人を見れば、面はさながら崑崙奴の如く黒けれど、眉目さまで卑しからず、身には法服の裾長きを着て、首のめぐりには黄金の飾りを垂れたり。われ、遂にその面を見知らざりしかば、否と答えけるに、その人、忽ち嘲笑うが如き声にて、「われは悪魔「るしへる」なり」と云う。われ、大に驚きて云いけるは、「如何ぞ、「るしへる」なる事あらん。見れば、容体も人に異らず。蝙蝠の翼、山羊の蹄、蛇の鱗は如何にしたる」と。その人答うらく、「悪魔はもとより、人間と異るものにあらず。われを描いて、醜悪絶類ならしむるものは画工のさかしらなり。わがともがらは、皆われの如く、翼なく、鱗なく、蹄なし。況や何ぞかの古怪なる面貌あらん。」われ、さらに云いけるは、「悪魔にしてたとい、人間と異るものにあらずとするも、そはただ、皮相の見に止るのみ。汝が心には、恐しき七つの罪、蝎の如くに蟠らん、」と。「るしへる」再び、嘲笑う如き声にて云うよう、「七つの罪は人間の心にも、蝎の如くに蟠れり。そは汝自ら知る所か」と。われ罵るらく、「悪魔よ、退け、わが心は DS が諸善万徳を映すの鏡なり。汝の影を止むべき所にあらず、」と。悪魔呵々大笑していわく、「愚なり、巴※[#「畔」の「半」に代えて「比」 238-10]※[#「卉」の「十」に代えて「合」 238-10]。汝がわれを唾罵する心は、これ即驕慢にして、七つの罪の第一よ。悪魔と人間の異らぬは、汝の実証を見て知るべし。もし悪魔にして、汝ら沙門の思うが如く、極悪兇猛の鬼物ならんか、われら天が下を二つに分って、汝が DS と共に治めんのみ。それ光あれば、必ず暗あり。DS の昼と悪魔の夜と交々この世を統べん事、あるべからずとは云い難し。されどわれら悪魔の族はその性悪なれど、善を忘れず。右の眼は「いんへるの」の無間の暗を見るとも云えど、左の眼は今もなお、「はらいそ」の光を麗しと、常に天上を眺むるなり。さればこそ悪において全からず。屡 DS が天人のために苦しめらる。汝知らずや、さきの日汝が懺悔を聞きたる夫人も、「るしへる」自らその耳に、邪淫の言を囁きしを。ただ、わが心弱くして、飽くまで夫人を誘う事能わず。ただ、黄昏と共に身辺を去来して、そが珊瑚の念珠と、象牙に似たる手頸とを、えもならず美しき幻の如く眺めしのみ。もしわれにして、汝ら沙門の恐るる如き、兇険無道の悪魔ならんか、夫人は必ず汝の前に懺悔の涙をそそがんより、速に不義の快楽に耽って、堕獄の業因を成就せん」と。われ、「るしへる」の弁舌、爽なるに驚きて、はかばかしく答もなさず、茫然としてただ、その黒檀の如く、つややかなる面を目戍り居しに、彼、たちまちわが肩を抱いて、悲しげに囁きけるは、「わが常に「いんへるの」に堕さんと思う魂は、同じくまた、わが常に「いんへるの」に堕すまじと思う魂なり。汝、われら悪魔がこの悲しき運命を知るや否や。わがかの夫人を邪淫の穽に捕えんとして、しかもついに捕え得ざりしを見よ。われ夫人の気高く清らかなるを愛ずれば、愈夫人を汚さまく思い、反ってまた、夫人を汚さまく思えば、愈気高く清らかなるを愛でんとす。これ、汝らが屡七つの恐しき罪を犯さんとするが如く、われらまた、常に七つの恐しき徳を行わんとすればなり。ああ、われら悪魔を誘うて、絶えず善に赴かしめんとするものは、そもそもまた汝らが DS か。あるいは DS 以上の霊か」と。悪魔「るしへる」は、かくわが耳に囁きて、薄暮の空をふり仰ぐよと見えしが、その姿たちまち霧の如くうすくなりて、淡薄たる秋花の木の間に、消ゆるともなく消え去り了んぬ。われ、即ち※[#「つつみがまえ」の中に「タ」 240-2]惶として伴天連の許に走り、「るしへる」が言を以てこれに語りたれど、無智の伴天連、反ってわれを信ぜず。宗門の内証に背くものとして、呵責を加うる事数日なり。されどわれ、わが眼にて見、わが耳にて聞きたるこの悪魔「るしへる」を如何にかして疑う可き。悪魔また性善なり。断じて一切諸悪の根本にあらず。  ああ、汝、提宇子、すでに悪魔の何たるを知らず、況やまた、天地作者の方寸をや。蔓頭の葛藤、截断し去る。咄。 (大正七年八月) 底本:筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集2』    1986(昭和61)年10月28日第1刷発行    1996年(平成8)7月15日第11刷発行 親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集    1971(昭和46)年3月〜11月に刊行 入力:j.utiyama 校正:かとうかおり 1998年12月7日公開 1999年8月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです