母 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)部屋《へや》 |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)四十|格好《がつこう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)御可愛いたあた[#「たあた」に傍点]ですこと -------------------------------------------------------      一  部屋《へや》の隅に据えた姿見《すがたみ》には、西洋風に壁を塗った、しかも日本風の畳がある、――上海《シャンハイ》特有の旅館の二階が、一部分はっきり映《うつ》っている。まずつきあたりに空色の壁、それから真新しい何畳《なんじょう》かの畳《たたみ》、最後にこちらへ後《うしろ》を見せた、西洋髪《せいようがみ》の女が一人、――それが皆冷やかな光の中に、切ないほどはっきり映っている。女はそこにさっきから、縫物《ぬいもの》か何かしているらしい。  もっとも後は向いたと云う条、地味《じみ》な銘仙《めいせん》の羽織の肩には、崩《くず》れかかった前髪《まえがみ》のはずれに、蒼白い横顔が少し見える。勿論肉の薄い耳に、ほんのり光が透《す》いたのも見える。やや長めな揉《も》み上《あ》げの毛が、かすかに耳の根をぼかしたのも見える。  この姿見のある部屋には、隣室の赤児の啼《な》き声のほかに、何一つ沈黙を破るものはない。未《いまだ》に降り止まない雨の音さえ、ここでは一層その沈黙に、単調な気もちを添えるだけである。 「あなた。」  そう云う何分《なんぷん》かが過ぎ去った後《のち》、女は仕事を続けながら、突然、しかし覚束《おぼつか》なさそうに、こう誰かへ声をかけた。  誰か、――部屋の中には女のほかにも、丹前《たんぜん》を羽織《はお》った男が一人、ずっと離れた畳の上に、英字新聞をひろげたまま、長々《ながなが》と腹這《はらば》いになっている。が、その声が聞えないのか、男は手近の灰皿へ、巻煙草《まきたばこ》の灰を落したきり、新聞から眼さえ挙げようとしない。 「あなた。」  女はもう一度声をかけた。その癖女自身の眼もじっと針の上に止まっている。「何だい。」  男は幾分うるさそうに、丸々《まるまる》と肥った、口髭《くちひげ》の短い、活動家らしい頭を擡《もた》げた。 「この部屋ね、――この部屋は変えちゃいけなくって?」 「部屋を変える? だってここへはやっと昨夜《ゆうべ》、引っ越して来たばかりじゃないか?」  男の顔はけげんそうだった。 「引っ越して来たばかりでも。――前の部屋ならば明《あ》いているでしょう?」  男はかれこれ二週間ばかり、彼等が窮屈な思いをして来た、日当りの悪い三階の部屋が一瞬間眼の前に見えるような気がした。――塗りの剥《は》げた窓側《まどがわ》の壁には、色の変った畳の上に更紗《さらさ》の窓掛けが垂れ下っている。その窓にはいつ水をやったか、花の乏しい天竺葵《ジェラニアム》が、薄い埃《ほこり》をかぶっている。おまけに窓の外を見ると、始終ごみごみした横町《よこちょう》に、麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶった支那《シナ》の車夫が、所在なさそうにうろついている。……… 「だがお前はあの部屋にいるのは、嫌《いや》だ嫌だと云っていたじゃないか?」 「ええ。それでもここへ来て見たら、急にまたこの部屋が嫌《いや》になったんですもの。」  女は針の手をやめると、もの憂《う》そうに顔を挙げて見せた。眉《まゆ》の迫った、眼の切れの長い、感じの鋭そうな顔だちである。が、眼のまわりの暈《かさ》を見ても、何か苦労を堪《こら》えている事は、多少想像が出来ないでもない。そう云えば病的な気がするくらい、米噛《こめか》みにも静脈《じょうみゃく》が浮き出している。 「ね、好《い》いでしょう。……いけなくて?」 「しかし前の部屋よりは、広くもあるし居心《いごころ》も好《い》いし、不足を云う理由はないんだから、――それとも何か嫌《いや》な事があるのかい?」 「何って事はないんですけれど。……」  女はちょいとためらったものの、それ以上立ち入っては答えなかった。が、もう一度念を押すように、同じ言葉を繰り返した。 「いけなくって、どうしても?」  今度は男が新聞の上へ煙草《たばこ》の煙を吹きかけたぎり、好《い》いとも悪いとも答えなかった。  部屋の中はまたひっそりになった。ただ外では不相変《あいかわらず》、休みのない雨の音がしている。 「春雨《はるさめ》やか、――」  男はしばらくたった後《のち》、ごろりと仰向《あおむ》きに寝転《ねころ》ぶと、独り言のようにこう云った。 「蕪湖《ウウフウ》住みをするようになったら、発句《ほっく》でも一つ始めるかな。」  女は何とも返事をせずに、縫物の手を動かしている。 「蕪湖《ウウフウ》もそんなに悪い所じゃないぜ。第一社宅は大きいし、庭も相当に広いしするから、草花なぞ作るには持って来いだ。何でも元は雍家花園《ようかかえん》とか云ってね、――」   男は突然口を噤《つぐ》んだ。いつか森《しん》とした部屋の中には、かすかに人の泣くけはいがしている。 「おい。」  泣き声は急に聞えなくなった。と思うとすぐにまた、途切《とぎ》れ途切れに続き出した。 「おい。敏子《としこ》。」  半ば体を起した男は、畳に片肘靠《かたひじもた》せたまま、当惑《とうわく》らしい眼つきを見せた。 「お前は己《おれ》と約束したじゃないか? もう愚痴《ぐち》はこぼすまい。もう涙は見せない事にしよう。もう、――」  男はちょいと瞼《まぶた》を挙げた。 「それとも何かあの事以外に、悲しい事でもあるのかい? たとえば日本へ帰りたいとか、支那でも田舎《いなか》へは行きたくないとか、――」 「いいえ。――いいえ。そんな事じゃなくってよ。」  敏子は涙を落し落し、意外なほど烈《はげ》しい打消し方をした。 「私はあなたのいらっしゃる所なら、どこへでも行く気でいるんです。ですけれども、――」  敏子は伏眼《ふしめ》になったなり、溢《あふ》れて来る涙を抑《おさ》えようとするのか、じっと薄い下唇《したくちびる》を噛んだ。見れば蒼白い頬《ほお》の底にも、眼に見えない炎《ほのお》のような、切迫した何物かが燃え立っている。震《ふる》える肩、濡れた睫毛《まつげ》、――男はそれらを見守りながら、現在の気もちとは没交渉に、一瞬間妻の美しさを感じた。 「ですけれども、――この部屋は嫌《いや》なんですもの。」 「だからさ、だからさっきもそう云ったじゃないか? 何故《なぜ》この部屋がそんなに嫌だか、それさえはっきり云ってくれれば、――」  男はここまで云いかけると、敏子の眼がじっと彼の顔へ、注《そそ》がれているのに気がついた。その眼には涙の漂《ただよ》った底に、ほとんど敵意にも紛《まが》い兼ねない、悲しそうな光が閃《ひらめ》いている。何故この部屋が嫌になったか? ――それは独り男自身の疑問だったばかりではない。同時にまた敏子が無言《むごん》の内に、男へ突きつけた反問である。男は敏子と眼を合せながら、二の句を次ぐのに躊躇《ちゅうちょ》した。  しかし言葉が途切《とぎ》れたのは、ほんの数秒の間《あいだ》である。男の顔には見る見る内に、了解の色が漲《みなぎ》って来た。 「あれか?」  男は感動を蔽《おお》うように、妙に素《そ》っ気《け》のない声を出した。 「あれは己も気になっていたんだ。」  敏子は男にこう云われると、ぽろぽろ膝の上へ涙を落した。  窓の外にはいつのまにか、日の暮が雨を煙らせている。その雨の音を撥《は》ねのけるように、空色の壁の向うでは、今もまた赤児《あかご》が泣き続けている。………      二  二階の出窓《でまど》には鮮《あざや》かに朝日の光が当っている。その向うには三階建の赤煉瓦《あかれんが》にかすかな苔《こけ》の生えた、逆光線の家が聳えている。薄暗いこちらの廊下《ろうか》にいると、出窓はこの家を背景にした、大きい一枚の画《え》のように見える。巌乗《がんじょう》な槲《かし》の窓枠《まどわく》が、ちょうど額縁《がくぶち》を嵌《は》めたように見える。その画のまん中には一人の女が、こちらへ横顔を向けながら、小さな靴足袋《くつたび》を編んでいる。  女は敏子《としこ》よりも若いらしい。雨に洗われた朝日の光は、その肉附きの豊かな肩へ、――派手《はで》な大島の羽織の肩へ、はっきり大幅に流れている。それがやや俯向《うつむ》きになった、血色の好《い》い頬に反射している。心もち厚い唇の上の、かすかな生《う》ぶ毛《げ》にも反射している。  午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。商売に来たのも、見物に来たのも、泊《とま》り客は大抵《たいてい》外出してしまう。下宿している勤《つと》め人《にん》たちも勿論午後までは帰って来ない。その跡にはただ長い廊下に、時々上草履《うわぞうり》を響かせる、女中の足音だけが残っている。  この時もそれが遠くから、だんだんこちらへ近づいて来ると、出窓に面した廊下には、四十|格好《がっこう》の女中が一人、紅茶の道具を運びながら、影画《かげえ》のように通りかかった。女中は何とも云われなかったら、女のいる事も気がつかずに、そのまま通りすぎてしまったかも知れない。が、女は女中の姿を見ると、心安そうに声をかけた。 「お清《きよ》さん。」  女中はちょいと会釈《えしゃく》してから、出窓の方へ歩み寄った。 「まあ、御精《ごせい》が出ますこと。――坊ちゃんはどうなさいました?」 「うちの若様? 若様は今お休み中。」  女は編針《あみばり》を休めたまま、子供のように微笑した。 「時にね、お清さん。」 「何でございます? 真面目《まじめ》そうに。」  女中も出窓の日の光に、前掛《まえかけ》だけくっきり照らさせながら、浅黒い眼もとに微笑を見せた。 「御隣の野村《のむら》さん、――野村さんでしょう、あの奥さんは?」 「ええ、野村敏子さん。」 「敏子さん? じゃ私《わたし》と同じ名だわね。あの方はもう御立ちになったの?」 「いいえ、まだ五六日は御滞在《ごたいざい》でございましょう。それから何でも蕪湖《ウウフウ》とかへ、――」 「だってさっき前を通ったら、御隣にはどなたもいらっしゃらなかったわよ。」「ええ、昨晩《さくばん》急にまた、三階へ御部屋が変りましたから、――」 「そう。」  女は何か考えるように、丸々《まるまる》した顔を傾けて見せた。 「あの方でしょう? ここへ御出でになると、その日に御子さんをなくなしたのは?」 「ええ。御気の毒でございますわね。すぐに病院へも御入れになったんですけれど。」 「じゃ病院で御なくなりなすったの? 道理で何にも知らなかった。」  女は前髪《まえがみ》を割った額《ひたい》に、かすかな憂鬱の色を浮べた。が、すぐにまた元の通り、快活な微笑を取り戻すと、悪戯《いたずら》そうな眼つきになった。 「もうそれで御用ずみ。どうかあちらへいらしって下さい。」 「まあ、随分でございますね。」  女中は思わず笑い出した。 「そんな邪慳《じゃけん》な事をおっしゃると、蔦《つた》の家《や》から電話がかかって来ても、内証《ないしょ》で旦那様へ取次ぎますよ。」 「好《い》いわよ。早くいらっしゃいってば。紅茶がさめてしまうじゃないの?」  女中が出窓にいなくなると、女はまた編物を取り上げながら、小声に歌をうたい出した。  午前十時と十一時との間、――旅館では今が一日中でも、一番静かな時刻である。部屋|毎《ごと》の花瓶に素枯《すが》れた花は、この間《あいだ》に女中が取り捨ててしまう。二階三階の真鍮《しんちゅう》の手すりも、この間に下男《ボオイ》が磨くらしい。そう云う沈黙が拡《ひろ》がった中に、ただ往来のざわめきだけが、硝子《ガラス》戸を開《あ》け放した諸方の窓から、日の光と一しょにはいって来る。  その内にふと女の膝《ひざ》から、毛糸の球《たま》が転げ落ちた。球はとんと弾《はず》むが早いか、一筋の赤を引きずりながら、ころころ廊下《ろうか》へ出ようとする、――と思うと誰か一人、ちょうどそこへ来かかったのが、静かにそれを拾い上げた。 「どうも有難《ありがと》うございました。」  女は籐椅子《とういす》を離れながら、恥しそうに会釈《えしゃく》をした。見れば球を拾ったのは、今し方女中と噂をした、痩《や》せぎすな隣室の夫人である。 「いいえ。」  毛糸の球は細い指から、脂《あぶら》よりも白い括《くく》り指へ移った。 「ここは暖かでございますね。」  敏子は出窓へ歩み出ると、眩《まぶ》しそうにやや眼を細めた。 「ええ、こうやって居りましても、居睡《いねむ》りが出るくらいでございますわ。」  二人の母は佇《たたず》んだまま、幸福そうに微笑し合った。 「まあ、御可愛いたあた[#「たあた」に傍点]ですこと。」  敏子の声はさりげなかった。が、女はその言葉に、思わずそっと眼を外《そ》らせた。 「二年ぶりに編針を持って見ましたの。――あんまり暇なもんですから。」 「私なぞはいくら暇でも、怠《なま》けてばかり居りますわ。」  女は籐椅子《とういす》へ編物を捨てると、仕方がなさそうに微笑した。敏子の言葉は無心の内に、もう一度女を打ったのである。 「お宅の坊ちゃんは、――坊ちゃんでございましたわね? いつ御生れになりましたの?」  敏子は髪へ手をやりながら、ちらりと女の顔を眺めた。昨日《きのう》は泣き声を聞いているのも堪えられない気がした隣室の赤児、――それが今では何物よりも、敏子の興味を動かすのである。しかもその興味を満足させれば、反《かえ》って苦しみを新たにするのも、はっきりわかってはいるのである。これは小さな動物が、コブラの前では動けないように、敏子の心もいつのまにか、苦しみそのものの催眠作用に捉《とら》われてしまった結果であろうか? それともまた手傷《てきず》を負った兵士が、わざわざ傷口を開いてまでも、一時の快《かい》を貪《むさぼ》るように、いやが上にも苦しまねばやまない、病的な心理の一例であろうか? 「この御正月でございました。」  女はこう答えてから、ちょいとためらう気色《けしき》を見せた。しかしすぐ眼を挙げると、気の毒そうにつけ加えた。 「御宅ではとんだ事でございましたってねえ。」  敏子は沾《うる》んだ眼の中に、無理な微笑を漂わせた。 「ええ、肺炎《はいえん》になりましたものですから、――ほんとうに夢のようでございました。」 「それも御出《おいで》て※[#「つつみがまえ」の中に「タ」、255-13]々《そうそう》にねえ。何と申し上げて好《よ》いかわかりませんわ。」  女の眼にはいつのまにか、かすかに涙が光っている。 「私なぞはそんな目にあったら、まあ、どうするでございましょう?」 「一時は随分《ずいぶん》悲しゅうございましたけれども、――もうあきらめてしまいましたわ。」  二人の母は佇《たたず》んだまま、寂しそうな朝日の光を眺めた。 「こちらは悪い風《かぜ》が流行《はや》りますの。」  女は考え深そうに、途切《とぎ》れていた話を続け出した。 「内地はよろしゅうございますわね。気候もこちらほど不順ではなし、――」 「参りたてでよくはわかりませんけれども、大へん雨の多い所でございますね。」 「今年は余計――あら、泣いて居りますわ。」  女は耳を傾けたまま、別人のような微笑を浮べた。 「ちょいと御免下さいまし。」  しかしその言葉が終らない内に、もうそこへはさっきの女中が、ばたばた上草履《うわぞうり》を鳴らせながら、泣き立てる赤児《あかご》を抱《だ》きそやして来た。赤児を、――美しいメリンスの着物の中に、しかめた顔ばかり出した赤児を、――敏子が内心見まいとしていた、丈夫そうに頤《あご》の括《くく》れた赤児を! 「私が窓を拭《ふ》きに参りますとね、すぐにもう眼を御覚ましなすって。」 「どうも憚《はばか》り様。」  女はまだ慣《な》れなそうに、そっと赤児を胸に取った。 「まあ、御可愛い。」  敏子は顔を寄せながら、鋭い乳の臭いを感じた。 「おお、おお、よく肥《ふと》っていらっしゃる。」  やや上気《じょうき》した女の顔には、絶え間ない微笑が満ち渡った。女は敏子の心もちに、同情が出来ない訳ではない。しかし、――しかしその乳房《ちぶさ》の下から、――張り切った母の乳房の下から、汪然《おうぜん》と湧いて来る得意の情は、どうする事も出来なかったのである。       三  雍家花園《ようかかえん》の槐《えんじゅ》や柳は、午《ひる》過ぎの微風に戦《そよ》ぎながら、庭や草や土の上へ、日の光と影とをふり撒《ま》いている。いや、草や土ばかりではない。その槐《えんじゅ》に張り渡した、この庭には似合《にあ》わない、水色のハムモックにもふり撒《ま》いている。ハムモックの中に仰向《あおむ》けになった、夏のズボンに胴衣《チョッキ》しかつけない、小肥《こぶと》りの男にもふり撒いている。  男は葉巻に火をつけたまま、槐《えんじゅ》の枝に吊《つ》り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は文鳥《ぶんちょう》か何からしい。これも明暗の斑点《はんてん》の中に、止《とま》り木《ぎ》をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ笑《え》みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした?」とか云う事もある。  あたりは庭木の戦《そよ》ぎの中に、かすかな草の香《か》を蒸《む》らせている。一度ずっと遠い空に汽船の笛《ふえ》の響いたぎり、今はもう人音《ひとおと》も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。赤濁《あかにご》りに濁った長江《ちょうこう》の水に、眩《まばゆ》い水脈《みお》を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える波止場《はとば》には、裸も同様な乞食《こじき》が一人、西瓜《すいか》の皮を噛《か》じっている。そこにはまた仔豚《こぶた》の群《むれ》も、長々《ながなが》と横たわった親豚の腹に、乳房《ちぶさ》を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも飽《あ》きた男は、そんな空想に浸《ひた》ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。 「あなた。」  男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、上海《シャンハイ》の旅館にいた時より、やや血色の好《い》い敏子《としこ》である。髪にも、夏帯にも、中形《ちゅうがた》の湯帷子《ゆかた》にも、やはり明暗の斑点を浴びた、白粉《おしろい》をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい欠伸《あくび》をした。それからさも大儀《たいぎ》そうに、ハムモックの上へ体を起した。 「郵便よ、あなた。」  敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に湯帷子《ゆかた》の胸から、桃色の封筒《ふうとう》にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。 「今日は私にも来ているのよ。」  男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、無造作《むぞうさ》に手紙を読み始めた。敏子もそこへ佇《たたず》んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。  雍家花園《ようかかえん》の槐《えんじゅ》や柳は、午過ぎの微風に戦《そよ》ぎながら、この平和な二人の上へ、日の光と影とをふり撒いている。文鳥《ぶんちょう》はほとんど囀《さえず》らない。何か唸《うな》る虫が一匹、男の肩へ舞い下りたが、直《すぐ》にそれも飛び去ってしまった。………  こう云うしばらくの沈黙の後《のち》、敏子は伏せた眼も挙げずに、突然かすかな叫び声を出した。 「あら、お隣の赤さんも死んだんですって。」 「お隣?」  男はちょいと聞き耳を立てた。 「お隣とはどこだい?」 「お隣よ。ほら、あの上海《シャンハイ》の××館の、――」 「ああ、あの子供か? そりゃ気の毒だな。」 「あんなに丈夫そうな赤さんがねえ。……」 「何だい、病気は?」 「やっぱり風邪《かぜ》ですって。始めは寝冷えぐらいの事と思い居り候ところ、――ですって。」  敏子はやや興奮したように、口早に手紙を読み続けた。 「病院に入れ候時には、もはや手遅れと相成り、――ね、よく似ているでしょう? 注射を致すやら、酸素吸入《さんそきゅうにゅう》を致すやら、いろいろ手を尽し候えども、――それから何と読むのかしら? 泣き声だわ。泣き声も次第に細るばかり、その夜の十一時五分ほど前には、ついに息を引き取り候。その時の私の悲しさ、重々《じゅうじゅう》御察し下され度《たく》、……」 「気の毒だな。」  男はもう一度ハムモックに、ゆらりと仰向《あおむ》けになりながら、同じ言葉を繰返した。男の頭のどこかには、未《いまだ》に瀕死《ひんし》の赤児が一人、小さい喘《あえ》ぎを続けている。と思うとその喘ぎは、いつかまた泣き声に変ってしまう。雨の音の間《あいだ》を縫った、健康な赤児の泣き声に。――男はそう云う幻《まぼろし》の中にも、妻の読む手紙に聴き入っていた。 「重々御察し下され度、それにつけてもいつぞや御許様《おんもとさま》に御眼《おんめ》にかかりし事など思い出《いだ》され、あの頃はさぞかし御許様にも、――ああ、いや、いや。ほんとうに世の中はいやになってしまう。」  敏子は憂鬱な眼を挙げると、神経的に濃い眉《まゆ》をひそめた。が、一瞬の無言の後《のち》、鳥籠《とりかご》の文鳥を見るが早いか、嬉しそうに華奢《きゃしゃ》な両手を拍った。 「ああ、好《い》い事を思いついた! あの文鳥を放してやれば好いわ。」 「放してやる? あのお前の大事の鳥をか?」 「ええ、ええ、大事の鳥でもかまわなくってよ。お隣の赤さんのお追善《ついぜん》ですもの。ほら、放鳥《ほうちょう》って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら? とどかなかったら、あなた取って頂戴《ちょうだい》。」  槐《えんじゅ》の根もとに走り寄った敏子は、空気草履《くうきぞうり》を爪立《つまだ》てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい翼《つばさ》をばたばたやる。その拍子《ひょうし》にまた餌壼《えつぼ》の黍《きび》も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。反《そ》らせた喉《のど》、膨《ふくら》んだ胸、爪先《つまさき》に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。 「取れないかしら?――取れないわ。」  敏子は足を爪立《つまだ》てたまま、くるりと夫の方へ向いた。 「取って頂戴よ。よう。」 「取れるものか? 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今|直《すぐ》には限らないじゃないか?」 「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」  敏子は男を睨《にら》むようにした。が、眼にも唇にも、漲《みなぎ》っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄《こくはく》なものさえ感じた。日の光に煙った草木《くさき》の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。 「莫迦《ばか》な事をするなよ。――」  男は葉巻を投げ捨てながら、冗談《じょうだん》のように妻を叱った。 「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」  すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上|拗《す》ねた子供のように、睫毛《まつげ》の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦《にが》い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。 「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海《シャンハイ》にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いなければまた心配するし、――」  男はふと口を噤《つぐ》んだ。敏子は足もとに眼をやったなり、影になった頬《ほお》の上に、いつか涙を光らせている。しかし男は当惑そうに、短い口髭《くちひげ》を引張ったきり、何ともその事は云わなかった。 「あなた。」  息苦しい沈黙の続いた後《のち》、こう云う声が聞えた時も、敏子はまだ夫の前に、色の悪い顔を背《そむ》けていた。 「何だい?」 「私は、――私は悪いんでしょうか! あの赤さんのなくなったのが、――」  敏子は急に夫の顔へ、妙に熱のある眼を注いだ。 「なくなったのが嬉しいんです。御気の毒だとは思うんですけれども、――それでも私は嬉しいんです。嬉しくっては悪いんでしょうか? 悪いんでしょうか? あなた。」  敏子の声には今までにない、荒々《あらあら》しい力がこもっている。男はワイシャツの肩や胴衣《チョッキ》に今は一ぱいにさし始めた、眩《まばゆ》い日の光を鍍金《めっき》しながら、何ともその問に答えなかった。何か人力に及ばないものが、厳然と前へでも塞《ふさ》がったように。 (大正十年八月) 底本:筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集4』    1987(昭和62)年1月27日第1刷発行    1996(平成8)年7月15日第8刷発行 親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集    1971(昭和46)年3月〜11月に刊行 入力:j.utiyama 校正:もりみつじゅんじ 1999年3月1日公開 1999年7月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです