尾生《びせい》の信 芥川龍之介 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)尾生《びせい》は |:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号 (例)舟|一艘《いっそう》通らない ※[#]:外字の説明(数字は、底本のページ数と行数) (例)※[#「均」の「つちへん」を取る 308-15]《におい》や -------------------------------------------------------  尾生《びせい》は橋の下に佇《たたず》んで、さっきから女の来るのを待っている。  見上げると、高い石の橋欄《きょうらん》には、蔦蘿《つたかずら》が半ば這《は》いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣《はくい》の裾が、鮮かな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。  尾生はそっと口笛を鳴しながら、気軽く橋の下の洲《す》を見渡した。  橋の下の黄泥《こうでい》の洲は、二坪ばかりの広さを剰《あま》して、すぐに水と続いている。水際《みずぎわ》の蘆《あし》の間には、大方蟹《おおかたかに》の棲家《すみか》であろう、いくつも円《まる》い穴があって、そこへ波が当る度に、たぶりと云うかすかな音が聞えた。が、女は未だに来ない。  尾生はやや待遠しそうに水際まで歩《ほ》を移して、舟|一艘《いっそう》通らない静な川筋を眺めまわした。  川筋には青い蘆《あし》が、隙間《すきま》もなくひしひしと生えている。のみならずその蘆の間には、所々《ところどころ》に川楊《かわやなぎ》が、こんもりと円く茂っている。だからその間を縫う水の面《おもて》も、川幅の割には広く見えない。ただ、帯《おび》ほどの澄んだ水が、雲母《きらら》のような雲の影をたった一つ鍍金《めっき》しながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。  尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない洲《す》の上を、あちらこちらと歩きながら、おもむろに暮色を加えて行く、あたりの静かさに耳を傾けた。  橋の上にはしばらくの間、行人《こうじん》の跡を絶ったのであろう。沓《くつ》の音も、蹄《ひづめ》の音も、あるいはまた車の音も、そこからはもう聞えて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それからどこかでけたたましく、蒼鷺《あおさぎ》の啼く声がした。と思って立止ると、いつか潮がさし出したと見えて、黄泥《こうでい》を洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。  尾生は険しく眉《まゆ》をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立昇《たちのぼ》る藻《も》の※[#「均」の「つちへん」を取る 308-15]《におい》や水の※[#「均」の「つちへん」を取る 308-15]も、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮かな入日の光が消えて、ただ、石の橋欄《きょうらん》ばかりが、ほのかに青んだ暮方《くれがた》の空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。  尾生はとうとう立ちすくんだ。  川の水はもう沓を濡しながら、鋼鉄よりも冷やかな光を湛《たた》えて、漫々と橋の下に広がっている。すると、膝《ひざ》も、腹も、胸も、恐らくは頃刻《けいこく》を出ない内に、この酷薄《こくはく》な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩《みずかさ》は益《ますます》高くなって、今ではとうとう両脛《りょうはぎ》さえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。  尾生は水の中に立ったまま、まだ一縷《いちる》の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。  腹を浸《ひた》した水の上には、とうに蒼茫《そうぼう》たる暮色が立ち罩《こ》めて、遠近《おちこち》に茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりした靄《もや》の中から送って来る。と、尾生の鼻を掠《かす》めて、鱸《すずき》らしい魚が一匹、ひらりと白い腹を飜《ひるがえ》した。その魚の躍った空にも、疎《まばら》ながらもう星の光が見えて、蔦蘿《つたかずら》のからんだ橋欄《きょうらん》の形さえ、いち早い宵暗の中に紛《まぎ》れている。が、女は未だに来ない。……    ――――――――――――――  夜半、月の光が一川《いっせん》の蘆と柳とに溢《あふ》れた時、川の水と微風とは静に囁《ささや》き交しながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思い憧《こが》れたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の※[#「均」の「つちへん」を取る 310-3]《におい》や藻《も》の※[#「均」の「つちへん」を取る 310-3]が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……  それから幾千年かを隔てた後《のち》、この魂は無数の流転《るてん》を閲《けみ》して、また生を人間《じんかん》に託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、ただ、何か来《きた》るべき不可思議なものばかりを待っている。ちょうどあの尾生が薄暮《はくぼ》の橋の下で、永久に来ない恋人をいつまでも待ち暮したように。 (大正八年十二月) 底本:筑摩書房刊 ちくま文庫『芥川龍之介全集3』    1986(昭和61)年12月1日第1刷発行    1996(平成8)年4月1日第8刷発行 親本:筑摩全集類聚版芥川龍之介全集    1971(昭和46)年3月〜11月に刊行 入力:j.utiyama 校正:かとうかおり 1998年12月8日公開 1999年7月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです